再会の扉が開かれたその日から、翔太の夢は変わった。
澪との記憶をなぞるような海の中ではなく、風の吹く丘、光に満ちた場所へ導かれるようになった。そこはまるで現実のように温かく、けれどどこか“この世ではない”ことを感じさせる静けさがあった。穏やかな風に乗せて、遠くから聞こえる波の音が、心を掻き立てるかのように響いていた。
──澪の意識が戻りつつあるのかもしれない。
翔太はそう感じていた。しかし、その思いと共に、澪が何を感じているのか、どれだけの苦しみに耐えているのか考えると、胸が締め付けられる思いだった。
一方、澪の内面でも静かな変化が起きていた。
「……私は、誰?」
泡になったあの日から、彼女は名もない存在として、“記憶の海”に沈んでいた。姿も声も、思い出すたびに曖昧になっていく。彼女は感覚的にわかっていた。自分の周りには数多の記憶が漂っていて、その中には温もりもあれば痛みもある。それらに触れるたびに、彼女は自分が何者であるかを忘れていく気がしていた。
しかし、翔太の想いが届くたびに、その輪郭は少しずつ戻ってきた。名前、笑い声、教室の光、浜辺の砂の感触──そして、翔太の手の温もり。
「私は……澪」
初めて、自分の名を口にしたとき、波間から一筋の光が差し込んだ。その瞬間、澪は自分自身の存在を再認識した。そして、心の奥底で燃えていた願いが一層強く芽生えた。
“再会の扉”は、記憶と心が交差する場所。その扉の先に進むためには、もう一度“自分自身を受け入れる”必要があった。
夢の中で、翔太と澪は再び出会った。
「翔太くん……」
「澪」
二人は手を伸ばしあい──けれど、触れようとした瞬間、世界に亀裂が走った。
澪の背後に、暗い渦が現れたのだ。その渦は彼女の過去の影、痛みを象徴するものだった。“選ばれなかった記憶”、つまり澪が封じ込めた痛みや過去の絶望が形をとり、再会を拒もうとする。
「君の願いは本物か? それとも、逃げたいだけではないのか?」
闇の声が響く。澪の足がすくむ。彼女の心は、まだ完全には“戻って”いなかった。鳴り響く声の中で、澪は自分の選択を試されていることを感じていた。
翔太が一歩踏み出す。
「澪、手を取って! 怖がらないで。君のすべてを、僕は受け止める!」
彼の言葉は、彼女のおずおずした心を少しだけ解きほぐした。しかし、澪は首を振る。
「私は……私は、人間じゃない。人魚としても、人としても、中途半端で……」
翔太は叫んだ。
「それがどうした! 僕は、澪が“澪である”ことが、ただ嬉しいんだ!」
彼の言葉の力が、闇をわずかに裂いた。その裂け目から、一筋の光が澪に届く。澪は心の中で何かが変わっていくのを感じていた。
「……翔太くん」
澪は、おそるおそる手を伸ばした。彼女はそれがどれほどの勇気を要することか理解していた。過去の痛みを抱えたまま、彼女は再び踏み出す決意をしたのだ。
翔太も、全身の力を込めてその手を掴む。その瞬間、二人の間に流れる温もりが、澪の心の淀みを溶かしていくのを感じた。澪の内部で、かつての痛みや恐れが少しずつ薄れていく。彼女は、自分がなにを失ったのか、そして何を取り戻しつつあるのかを理解し始めていた。
──そして、二人の手が触れ合った瞬間、暗い海が爆発するように光に包まれた。周囲の風景が一瞬にして変わり、澪と翔太は温かい光の中に漂っていた。
目を閉じていた澪が目を開けると、そこには鮮やかな色彩が広がっていた。周りは美しい海の景色で、朝日が海を金色に染め上げていた。足元には、砂浜が広がっている。澪は、波の音を心地よく感じながら、さらに目を凝らす。
「澪、目を覚ました?」
翔太の声が、澪を現実に引き戻した。
「翔太……」
彼女は、信じられない思いで名を呼んだ。彼の存在が、確かにここにある。
「ここは、私たちが夢の中で会った場所みたい。」
澪は周囲を見渡しながら言った。
「そうだ。君の心の中にある特別な場所だ。君が戻ってきたから、現実に戻るための扉が開かれたんだ。」
翔太が答えると、その言葉に澪の心もじんわりと温まる。
「でも、私は人魚のままだし……」
澪は、もどかしさを感じた。
「それがどうしたって言ってたよね? 君が何者であろうと、僕は君を愛している。絶対に君を受け入れるよ。」
翔太は真剣な目で澪を見つめた。
その言葉に澪は胸が高鳴る。彼女は自身の本当の姿を受け入れ、翔太とともに生きていくことを決意した。
「私……私、もう逃げたくない。受け入れるって決めた。」
澪は覚悟を持って口にした。
その後、澪は海の中に深く潜り、過去の苦しみや絶望を包み込んでいた記憶をすべて引き受けることにした。翔太がそっと彼女の手を握りしめ、二人で一緒にその記憶を受け入れた。過去は彼女を傷付けたが、同時に彼女を形成していた。
その瞬間、澪は自分が本当にどんな存在であるかを理解した。彼女は人魚であり、同時に人間でもあった。二つの世界に属する彼女の存在こそが、二人の絆を強くしていくのだ。
「私は澪、すべての側面を受け入れる。たとえどれほどの困難が待ち受けていようとも──翔太がいるから。」
澪は新たな決意をもって言った。
光に包まれた波間から、澪は翔太を見つめた。その瞬間、彼女は心の底から笑顔を浮かべた。翔太もまた、その笑顔に救われていることを感じた。
次の朝、翔太が目を覚ましたとき、窓の外は朝焼けに染まっていた。心には温かい感覚が広がっている。努力した結果、澪と彼は繋がったのだ。
ふと机に目をやると、一冊の絵本が置かれていた。ページをめくると、そこにはこう書かれていた。
「人魚は、泡にならなかった。なぜなら彼女は、愛されたから──」
翔太はその言葉を噛みしめる。澪が、自分自身を受け入れ、翔太を受け入れてくれたからこそ、彼女は再び現実の世界に足を踏み入れることができたのだ。この絵本は、彼女からのメッセージ、その希望の象徴であるかのようだった。
絵本を閉じると、翔太はふと窓の外を見た。朝日が柔らかく街を照らし、鳥たちが鳴き交わす声が聞こえてくる。澪が戻ってきたことを実感し、彼の心の中に新しい光が宿り始めた。
この世界には、澪と再会するために必要な試練や困難が待っているかもしれない。しかし、翔太は今、彼女を信じ、受け入れる決意を固めた。この朝は、すべてが新しい始まりを意味しているように感じられた。
同じ朝、遠くの浜辺で一人の少女が現れた。凪てる海の波間から立ち上がる彼女は、濡れた髪をかき上げ、朝日を浴びて生き生きと輝いている。波の音の中に、自分の名前が響いているような気がした。
「……澪」
彼女は自分の声を確認するかのように、あえて静かに名を呟いた。何度も口にすることで、その名前の持つ力を再認識した。彼女は全てを越えて、自分自身を“もう一度選んだ”のだ。
そのとき、澪の心の中で何かが弾けた。記憶は、彼女の中で生き続けていた温かな気持ちを思い出させてくれた。翔太の存在が絡まってきて、彼女は少しずつ彼との絆を感じるようになった。
波が彼女の足元を洗い、太陽の光が彼女を包み込む。澪はこれまでの喪失感や恐れを少しずつ手放し、自分に与えられた新たなチャンスを肯定していく。彼女にはもう一つの家がある。翔太という名の心の拠り所が。
「私は澪。これからの私を、愛していく。」
彼女は強く決意し、その瞬間、波がさざ波となって彼女を抱きしめた。澪はもう一度、彼女自身の人生を生きるのだ。この世界において、彼女の存在が決して無意味ではないことを、彼女は知っていた。
再会の扉は開かれた。澪と翔太、二人の運命は交わり、これまでにない未来が待っている。新たな生活の中で、彼らは互いに手を取り合い、喜びを分かち合い、共に成長していくのだ。
澪はまだ人魚としての側面を持っているかもしれない。しかし、それは彼女の個性であり、翔太にとっての魅力でもあった。二つの世界を生きる彼女がどんな経験を積んでいくのか、翔太は心から楽しみにしていた。
そう、再会から始まった二人の物語は、まだまだ終わることはない。彼らの旅は続き、愛と絆が深まっていく中で、新たな冒険が待ち受けていることを、二人は確信していた。