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第9話  選択の朝、再会の浜辺

朝の光が、澪の頬をやさしく撫でていた。

 かすかな潮の香り。波の音。ひんやりとした砂の感触が足元に残る。


 「……ここは……」


 彼女は目をゆっくりと開けた。視界に飛び込んできたのは、どこまでも続く青い空と、柔らかな白い雲。太陽の光が金色のカーテンのように降り注ぎ、濡れた黒髪に淡く光が滲んでいた。

 記憶の中にある風景。それでいて、どこか違う。まるで“ふたつの世界の境界”に立っているような、奇妙な浮遊感が澪の胸に広がっていた。


 裸足で踏みしめる砂浜は、あたたかく、現実のようで、どこか夢のようだった。


 「私……ほんとうに、生きてるの?」


 自分の声が、空気を震わせて返ってくる。それを聞いて、彼女はおそるおそる両手を見つめた。指先が、風にそよぐ髪に触れる。皮膚の温もり、心臓の鼓動。

 ──確かに、存在している。


 けれど、彼女の中に残っていた“人魚としての記憶”は、次第に揺らぎはじめていた。


 名前、顔、声、翔太の笑顔、交わした言葉。

 それらすべてが、波のように心の岸辺から離れていく感覚。

 “戻る代わりに、記憶を捨てよ”──彼女の前に現れた、あの“存在”が囁いた言葉が、耳の奥に残っていた。


 「翔太くん……会いたい。でも……もし、すべてを忘れてしまったら……」






 一方、翔太もまた、胸騒ぎに突き動かされるように町はずれの岬を目指していた。


 季節は春。山道には小さな菜の花が咲き、鳥たちのさえずりが響いている。けれど、翔太の心は落ち着かず、ただひたすらに風に逆らうように歩を進めた。


 ──彼女が戻ってくるなら、きっとここに来る。

 そう信じて疑わなかった。


 あの日、澪が打ち明けてくれた浜辺。

 「私、人魚なの」と言って、笑って泣いたあの場所。


 翔太は、あのとき何もできなかった自分を悔いていた。

 もっと強く、もっと真っ直ぐに、澪に向き合えていたら──そう思わずにはいられなかった。


 「だけど今度こそ……」


 波の音が、近づいてくる。


 潮の香りが、風に乗って運ばれてきた。







 そして──ふたりは出会った。


 春の日差しの中で、遠くから歩いてくるひとりの少女の姿が、翔太の目に映った。


 濡れた制服。揺れる黒髪。海の色を映したような瞳。

 そのすべてが、彼の記憶に刻まれていた澪そのものだった。


 「……澪?」


 翔太が声をかけると、少女──澪は驚いたように顔を上げた。

 その瞳に、翔太の姿が映る。


 「翔太……くん……?」


 その声を聞いた瞬間、翔太の中で何かが崩れ落ちた。

 それは恐れではなかった。歓びでもない。ただ、込み上げるものすべてを、涙というかたちに変えて溢れさせるしかなかった。


 「澪……!」


 翔太は駆け寄り、そして、澪の前に立ち止まった。


 息が切れる。胸が痛いほど高鳴っている。


 「生きててくれて……ありがとう。もう、それだけで……十分だよ」


 翔太の言葉に、澪はそっと視線を落とした。


 「私……帰ってくることはできた。でも……代償として、人魚だった間の記憶を、全部捨てなきゃいけないの。翔太くんのことも、全部」


 彼女の声は震えていた。


 「それでもいいの? 私が私じゃなくなっても……また、君の前に現れても、君のこと、思い出せなくても……それでも、君は……」


 翔太は、そっと手を伸ばした。


 「忘れてもいい。思い出せなくてもいい。でも、君が“いま”ここにいて、僕と向き合ってくれている。それがすべてなんだ」


 彼の手が、澪の頬に触れる。優しく、けれど確かな温もりがそこにあった。


 「君が選んだその未来に、僕も一緒にいたい。たとえゼロからでも、君となら、何度でもやり直せる」


 澪の目に、ぽろりと涙がこぼれた。


 「……そんなこと、言わないでよ……そんなこと言ったら……私、翔太くんを忘れたくなくなる」


 翔太は微笑んだ。


 「じゃあ、忘れなくていいよ」


 「でも……記憶が……」


 「心が覚えてる。きっと、それで十分だよ」







 そして、澪は翔太の手を取った。


 その瞬間、ふたりのまわりにやわらかな光が満ちていく。

 風がざわめき、波がふたりの足元をやさしく濡らす。


 ──さあ、選びなさい。


 澪の中に、声が響く。


 “君がそれを望むのなら、記憶を失ってでも、生きよ。人として、ふたたび歩きだせ”


 そして彼女は、静かに、確かに答えた。


 「はい……私は、翔太くんと、もう一度生きたい」



 光が収まったあと、翔太の手の中には何も残っていなかった。


 潮風だけが、残されたぬくもりのように翔太の頬を撫でていく。


 けれど彼は、もう泣かなかった。


 ──きっと、どこかでまた会える。

 そんな確信が、心の奥に残っていたから。



 数日後の春の朝。学校の昇降口。

 翔太がいつものように靴を履いていると、ふと気配を感じて顔を上げた。


 そこに──見慣れない制服を着た少女が立っていた。


 揺れる髪。柔らかな瞳。風にのる、なつかしい匂い。


 少女は少し恥ずかしそうに笑った。


 「……あの、今日からこの学校に通うことになりました。海野澪っていいます」


 翔太の胸が、一気に高鳴る。


 彼女は、記憶を失っている。だが、間違いなく“澪”だった。


 「海野澪、か……」


 翔太は優しく笑った。


 「久しぶり。澪」


 少女の目が大きく開かれ、そして、なぜかぽろりと涙がこぼれた。


 「……どうして……あなたの声……泣きたくなるくらい、懐かしい……」


 翔太は彼女にそっと手を差し出した。


 「また出会えたんだ。今度はゆっくり、一緒に歩いていこう」


 春の風がふたりの間を吹き抜ける。

 その風の中に、どこか海の歌声のような、微かな調べが混じっていた。



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