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第10話  そう、…だって私は──人魚

 春の風が、町をやさしく包んでいた。

 桜の季節が過ぎ、藤の花が静かに揺れる午後。

 陽射しの下に、もう冬の名残はなかった。


 澪は、今日も変わらず教室の窓際に座っていた。

 その横顔は明るく、朗らかに笑っていたけれど──

 ふとした瞬間、彼女は遠くを見つめるような目をする。


 まるで、何かを探すように。



 その違和感は、彼女の中でずっと消えないままだった。

 水の音が聞こえるたび、胸の奥がかすかに震える。

 海が見えると、涙が出そうになる。


 けれどその理由は、思い出せなかった。


 友達が笑う。先生が呼ぶ。日々は穏やかに流れているのに、

 心の底に、小さな“空白”が、静かに残っていた。


 それはまるで、

 「大切なものを失くした」ことすら、忘れてしまった人間のように。



 ある日、学校帰りの道で、澪は足を止めた。

 夕暮れの風が吹き、海の匂いが運ばれてくる。


 ──この風、知ってる。


 ──この音、この匂い、この空の色……全部、知ってる気がする。


 記憶にないはずの感情が、波のように押し寄せてきた。


 海に呼ばれている。

 そんな錯覚が、彼女を浜辺へと導いていった。



 白い砂浜。夕陽に染まる波。


 澪は、裸足になって波打ち際へ歩いた。

 水の冷たさが、肌をなぞる。


 それは心地よくもあり、どこか切なくもあった。


 そして──


 「やっぱり、ここに来てたんだ」


 振り返ると、そこに翔太が立っていた。


 彼の顔を見た瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。


 「……どうしてここが分かったの?」


 「君が、ここに戻ってくる気がしたから」


 ふたりは波の音に耳を傾けながら、しばらく沈黙を共有した。

 その沈黙は、どこか優しく、どこか寂しかった。



 「ねえ、翔太くん」

 澪がぽつりと呟く。


 「私ね、夢を見たの。水の中にいて、誰かが呼んでた。

  姿は見えなかったけど……その声だけで、涙が出そうだった」


 翔太は、そっと目を伏せた。

 彼の表情には、深い哀しみと優しさが混ざっていた。


 「その人のこと……思い出したい?」


 「ううん、思い出せなくてもいい。

  でも、忘れたくないの。胸の奥が、そう言ってる気がするから」


 翔太は微笑む。


 「だったら、それは本当の記憶だよ。

  君がそう感じてるなら、ちゃんと残ってるってことなんだ」


 澪はゆっくりうなずいた。

 頬を伝う涙が、波とともに風に溶けていく。



 その夜、澪は再び夢を見た。


 深く、澄んだ海。月の光に照らされる世界。


 遠くから聞こえる、誰かの歌声。


 優しい声。懐かしい旋律。魂に響くような音色。


 ──澪……帰っておいで……


 ──あなたは、誰……?

 ──どうして私の名前を……?

 ──どうして、こんなに涙が出るの……?


 夢の中で、澪は泣いていた。

 姿の見えない誰かに、抱きしめられるような感覚に包まれて。



 次の日。翔太と歩く帰り道。


 澪は空を見上げて、静かに言った。


 「不思議だよね。会ったこともないはずの人の声や笑顔が、頭に浮かぶのって。

  まるで、自分の中に、別の“誰かの記憶”があるみたい」


 翔太は歩みを止め、彼女の方を見た。


 「それって……君がその人を忘れてないってことじゃない?」


 「うん……。たとえ思い出せなくても、その人のこと、ずっと心の中にいる気がする。

  きっと──その人は……」


 風が吹いた。


 髪が揺れ、海の香りが通り過ぎていく。


 澪は目を細めて、やさしく笑った。


 そして、ぽつりと呟いた。




 ──「そう、…だって私は──人魚。」

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