春の風が、町をやさしく包んでいた。
桜の季節が過ぎ、藤の花が静かに揺れる午後。
陽射しの下に、もう冬の名残はなかった。
澪は、今日も変わらず教室の窓際に座っていた。
その横顔は明るく、朗らかに笑っていたけれど──
ふとした瞬間、彼女は遠くを見つめるような目をする。
まるで、何かを探すように。
その違和感は、彼女の中でずっと消えないままだった。
水の音が聞こえるたび、胸の奥がかすかに震える。
海が見えると、涙が出そうになる。
けれどその理由は、思い出せなかった。
友達が笑う。先生が呼ぶ。日々は穏やかに流れているのに、
心の底に、小さな“空白”が、静かに残っていた。
それはまるで、
「大切なものを失くした」ことすら、忘れてしまった人間のように。
ある日、学校帰りの道で、澪は足を止めた。
夕暮れの風が吹き、海の匂いが運ばれてくる。
──この風、知ってる。
──この音、この匂い、この空の色……全部、知ってる気がする。
記憶にないはずの感情が、波のように押し寄せてきた。
海に呼ばれている。
そんな錯覚が、彼女を浜辺へと導いていった。
白い砂浜。夕陽に染まる波。
澪は、裸足になって波打ち際へ歩いた。
水の冷たさが、肌をなぞる。
それは心地よくもあり、どこか切なくもあった。
そして──
「やっぱり、ここに来てたんだ」
振り返ると、そこに翔太が立っていた。
彼の顔を見た瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
「……どうしてここが分かったの?」
「君が、ここに戻ってくる気がしたから」
ふたりは波の音に耳を傾けながら、しばらく沈黙を共有した。
その沈黙は、どこか優しく、どこか寂しかった。
「ねえ、翔太くん」
澪がぽつりと呟く。
「私ね、夢を見たの。水の中にいて、誰かが呼んでた。
姿は見えなかったけど……その声だけで、涙が出そうだった」
翔太は、そっと目を伏せた。
彼の表情には、深い哀しみと優しさが混ざっていた。
「その人のこと……思い出したい?」
「ううん、思い出せなくてもいい。
でも、忘れたくないの。胸の奥が、そう言ってる気がするから」
翔太は微笑む。
「だったら、それは本当の記憶だよ。
君がそう感じてるなら、ちゃんと残ってるってことなんだ」
澪はゆっくりうなずいた。
頬を伝う涙が、波とともに風に溶けていく。
その夜、澪は再び夢を見た。
深く、澄んだ海。月の光に照らされる世界。
遠くから聞こえる、誰かの歌声。
優しい声。懐かしい旋律。魂に響くような音色。
──澪……帰っておいで……
──あなたは、誰……?
──どうして私の名前を……?
──どうして、こんなに涙が出るの……?
夢の中で、澪は泣いていた。
姿の見えない誰かに、抱きしめられるような感覚に包まれて。
次の日。翔太と歩く帰り道。
澪は空を見上げて、静かに言った。
「不思議だよね。会ったこともないはずの人の声や笑顔が、頭に浮かぶのって。
まるで、自分の中に、別の“誰かの記憶”があるみたい」
翔太は歩みを止め、彼女の方を見た。
「それって……君がその人を忘れてないってことじゃない?」
「うん……。たとえ思い出せなくても、その人のこと、ずっと心の中にいる気がする。
きっと──その人は……」
風が吹いた。
髪が揺れ、海の香りが通り過ぎていく。
澪は目を細めて、やさしく笑った。
そして、ぽつりと呟いた。
──「そう、…だって私は──人魚。」