春風が頬をかすめていく。桜はすっかり散り、町は新緑の香りに包まれていた。制服に袖を通しながら、澪は新しい通学路を歩いていた。高校生活が始まって、まだ数日。けれど、どこか「
──また、この春が来るのを、待っていたような気がする。
そんなことを思ってしまうのは、きっと“あの夢”のせいだろう。
最近、澪はときおり奇妙な夢を見るのだった。
海の中に沈んでいく夢。
誰かが手を伸ばしてくる夢。
そして、自分の足が、ゆらりと光の粒になって消えていく夢──
それは悪夢ではなかった。
でも、目覚めるたびに、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、そんな感覚が残った。
「……おーい! 澪ー!」
遠くから声がかかる。振り返ると、制服姿の翔太が自転車を押しながらこちらに歩いてくる。
「おはよ。今日も遅刻ギリギリかと思ったよ」
「ううん、今日はちゃんと早起きできたよ。翔太こそ、また朝ごはん抜きなんでしょ?」
「……ばれたか」
「もう、体壊すよ?」
翔太と澪は、小学校からの幼なじみ──そう、澪は“そう思っている”。
だが、本当は……その関係に“空白”があることなど、澪自身はまだ気づいていない。
彼は笑いながら少し前を歩き出す。どこか無理に明るくしているようにも見えた。
「ねえ、翔太くん」
「ん?」
「……この間の満月の夜、夢を見たの」
「夢?」
「うん。……誰かが呼んでた。遠くの、海の向こうから」
翔太の歩みが、一瞬だけ止まった。けれどすぐにまた何もなかったように、笑って言う。
「へえ、詩人みたいだな、澪って」
「……なんか、懐かしかったんだ」
彼女の声は風にかき消されそうなくらい、小さかった。
翔太は何も言わなかった。
ただ、ポケットの中で、ひとつの“貝殻”を握りしめていた。
それは、澪がすべてを忘れたあの日──
彼女が最後に残していったものだった。
その日の放課後。澪はひとりで帰り道を歩いていた。
翔太は部活の説明会があるとかで、校舎に残っていた。
風が強くなり、どこか遠くで潮の香りが混じった。
「……あれ?」
ふと、目の前の角を誰かが曲がってきた。
長い黒髪。異国的な整った顔立ち。どこか浮世離れした雰囲気を持つ少女。
その少女は、澪のすぐ横を通り過ぎたかと思うと、ふと立ち止まり、静かに振り返った。
その瞳が、まっすぐ澪を見つめる。
──記憶のどこかに、引っかかる。
──この子……知ってる?
「……久しぶりね、澪」
「え……?」
「ずっと、探してたの。海の底で、ずっと」
少女はにっこりと笑った。
「あなた、忘れてしまったのね。私のことも──自分のことも」
「だ、誰……?」
「私はナリス。あなたと同じ、“元”人魚よ」
その瞬間、澪の胸の奥が、ぎゅうっと痛んだ。
忘れていたはずのものが、引きちぎられるように浮かび上がってくる。
──なぜ涙が出そうなの?
「あなたを迎えに来たの。澪」
少女──ナリスの声は、風のように優しくて、でもどこか哀しかった。
その夜。澪はまた夢を見る。
冷たい水の中。
月が割れ、海が裂ける。
ナリスが立っていた。彼女の後ろに、無数の光る尾ひれが揺れていた。
──帰ってきて、澪。
──あなたは、海に選ばれた存在だった。
目が覚めたとき、頬に涙が伝っていた。
枕元には、見覚えのない“濡れた貝殻”がひとつ、置かれていた。