──水の中にいる。
けれど、息は苦しくない。耳の奥で、自分の心音が静かに響いている。
澪は夢の中で、ゆっくりと海の底へ沈んでいく感覚を味わっていた。
光の粒が、髪の先から指先まで、やさしく包んでいく。
目の前に、誰かがいた。
黒髪の少女。ナリス──それとも、夢の中だけの“幻影”?
「ここは、あなたの記憶の深海。
本当のあなたが眠る場所よ」
声が、海のなかにもかかわらず、はっきりと澪の心に届いた。
「……私は、もう人魚じゃない。忘れたの、全部」
「でも、海は忘れない。
あなたが“選ばれし者”だったことを」
ナリスが手を差し伸べる。
その指先が触れた瞬間──澪の視界が、一気に鮮やかに染まった。
海の王宮のような場所。水晶の柱が立ち並び、光が天井から差し込んでいる。
その中央に浮かぶ、小さな貝のゆりかご。中に眠る少女──幼いころの澪自身だった。
ナリスの声が響く。
「あなたは“海の
陸と海をつなぐ鍵として、生まれたの。
けれど、愛を知り、陸に留まることを選んだ」
──愛?
翔太の顔が思い浮かんだ。
優しくて、ちょっとお節介で、いつも隣にいてくれた。
「その代償として、記憶を封じ、姿を変えて人間になった。
でも、海はあなたを手放していない」
澪は震える唇で言った。
「……なんで今、戻そうとするの? 私は、もう人間として生きてるのに」
ナリスの表情が少し曇る。
「“歪み”が生まれているの。あなたが人間に留まり続ければ、
“契約者”である彼──翔太の存在が、少しずつ壊れていく」
「……え?」
ナリスは淡々と続けた。
「彼はあなたを人間のままにするため、記憶の代償を背負った。
本来なら失うはずだった命を、今も削りながら保っているのよ」
澪の視界が揺れる。
心臓が冷たく締め付けられるようだった。
「そんな……翔太は……何も言ってなかった……!」
「言えるわけがないわ。あなたの笑顔を守るために、すべてを隠してきたのよ」
ナリスは澪の肩に手を置き、囁くように言った。
「もうすぐ“潮の扉”が開く。あなたは選ばなければならない──
彼を救うか、この世界に留まるか」
その言葉とともに、澪の足元から海が割れ、光の階段が現れる。
「目覚めて、澪。現実が、待っている」
バッと澪は目を覚ました。
朝の光がカーテン越しに差し込む。心臓が早鐘のように打っている。
夢、だったのか──?
でも、目を落とした布団の上に、小さな“鱗”がひとつ、落ちていた。
薄い水色に透けるその欠片は、朝の光を受けてかすかにきらめいていた。