学校の屋上に立つと、潮風がほんのり香った。
ここは海から遠いはずなのに、澪の五感は確かに“海”を感じ取っていた。
「澪ーっ!」
その声に振り返ると、翔太が駆け寄ってきた。
息を切らしながら、いつものように笑っている。けれど、どこか疲れているように見えた。
「どうしたの? 朝から元気なさそうだったけど……」
「ううん。ちょっと寝不足なだけ」
「夢……また見たの?」
澪は思わず目を見開いた。
「えっ……なんでそれを」
翔太は少し笑って、ポケットから何かを取り出した。
それは、澪が今朝見たのとよく似た、薄く透き通った“鱗”だった。
「これ、昨日の夕方、澪が帰ったあとに見つけたんだ。
あの、君が立ってた場所に落ちてた」
澪は無言でそれを受け取り、見つめた。
夢と現実が交差している──それを否応なく突きつけられているようだった。
「澪……君にだけ、言っておきたいことがある」
翔太が、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「小学生のとき、海で溺れたこと、覚えてる?」
「……うん。私が飛び込んで、助けようとして……」
「あのとき、君は──」
言いかけたその瞬間、風がざわりと強くなり、校舎の影から一人の少女が現れた。
黒髪に、冷たいほど整った顔立ち。
昨日会ったナリス──だが、その瞳は澪ではなく、まっすぐ翔太を見据えていた。
「……会いに来たんだね、ナリス」
翔太が、まるで旧知の友人にでも話しかけるように言った。
澪は一瞬、時が止まったように感じた。
翔太はナリスを知っている──それは、彼が澪の知らない“記憶の彼方”で生きていた証だった。
ナリスは、澪ではなく翔太に告げる。
「契約の時が迫っているわ。あなたの“代償”も、もう限界に近い」
「わかってる。けど、俺は……この世界で、澪と生きたいんだ」
「あなたがその願いを貫くなら──澪の記憶はすべて戻る。そして彼女は、“選択”を迫られる」
「それでも……構わない」
翔太はそう言い切ったあと、澪のほうを振り向いた。
「ごめん。全部隠してた。本当は、小学生のとき、海で君に助けられたんじゃない。
君が──人魚の姿で、俺を救ったんだ」
「……!」
澪の目に、景色が揺らいだ。
「君が人間になったとき、“海”は言ったんだ。
澪をこの世界につなぎとめたいなら、“代償”を払えって。
俺は、自分の記憶の一部と……未来を差し出した。
君が人間として生きる時間のぶん、俺の命は削れていく」
「やめて……そんなの、知らなかった……!」
「だから、もう隠せないって思ったんだ。
君が夢を見るたび、きっと本当の記憶に近づいてる。
ナリスが動き出したってことは、もう“猶予”はないんだ」
ナリスが再び口を開く。
「“潮の扉”は満月の夜に開く。そこまでに彼女が選ばなければ──契約は
風が止んだ。
あたりに静寂が訪れる。
翔太は、澪の手を取り、強く握った。
「俺は、君に生きててほしい。それが海でも、陸でも、どっちでもいい。
でも──君自身の意志で、選んでほしい」
澪は答えられなかった。
心の奥で何かが揺れている。
自分は誰だったのか。何を失ったのか。そして、誰を守りたいのか──
その夜、澪はふたたび夢を見る。
その夢のなかで、ナリスとは別のもうひとりの人魚が、遠くの海の底から手を差し伸べていた。