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第13話  もう一人の人魚

学校の屋上に立つと、潮風がほんのり香った。

ここは海から遠いはずなのに、澪の五感は確かに“海”を感じ取っていた。


「澪ーっ!」


その声に振り返ると、翔太が駆け寄ってきた。

息を切らしながら、いつものように笑っている。けれど、どこか疲れているように見えた。


「どうしたの? 朝から元気なさそうだったけど……」


「ううん。ちょっと寝不足なだけ」


「夢……また見たの?」


澪は思わず目を見開いた。


「えっ……なんでそれを」


翔太は少し笑って、ポケットから何かを取り出した。

それは、澪が今朝見たのとよく似た、薄く透き通った“鱗”だった。


「これ、昨日の夕方、澪が帰ったあとに見つけたんだ。

あの、君が立ってた場所に落ちてた」


澪は無言でそれを受け取り、見つめた。

夢と現実が交差している──それを否応なく突きつけられているようだった。


「澪……君にだけ、言っておきたいことがある」


翔太が、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。


「小学生のとき、海で溺れたこと、覚えてる?」


「……うん。私が飛び込んで、助けようとして……」


「あのとき、君は──」


言いかけたその瞬間、風がざわりと強くなり、校舎の影から一人の少女が現れた。


黒髪に、冷たいほど整った顔立ち。

昨日会ったナリス──だが、その瞳は澪ではなく、まっすぐ翔太を見据えていた。


「……会いに来たんだね、ナリス」


翔太が、まるで旧知の友人にでも話しかけるように言った。


澪は一瞬、時が止まったように感じた。

翔太はナリスを知っている──それは、彼が澪の知らない“記憶の彼方”で生きていた証だった。


ナリスは、澪ではなく翔太に告げる。


「契約の時が迫っているわ。あなたの“代償”も、もう限界に近い」


「わかってる。けど、俺は……この世界で、澪と生きたいんだ」


「あなたがその願いを貫くなら──澪の記憶はすべて戻る。そして彼女は、“選択”を迫られる」


「それでも……構わない」


翔太はそう言い切ったあと、澪のほうを振り向いた。


「ごめん。全部隠してた。本当は、小学生のとき、海で君に助けられたんじゃない。

君が──人魚の姿で、俺を救ったんだ」


「……!」


澪の目に、景色が揺らいだ。


「君が人間になったとき、“海”は言ったんだ。

澪をこの世界につなぎとめたいなら、“代償”を払えって。

俺は、自分の記憶の一部と……未来を差し出した。

君が人間として生きる時間のぶん、俺の命は削れていく」


「やめて……そんなの、知らなかった……!」


「だから、もう隠せないって思ったんだ。

君が夢を見るたび、きっと本当の記憶に近づいてる。

ナリスが動き出したってことは、もう“猶予”はないんだ」


ナリスが再び口を開く。


「“潮の扉”は満月の夜に開く。そこまでに彼女が選ばなければ──契約は破綻はたんし、双方が消えるわ」


風が止んだ。

あたりに静寂が訪れる。


翔太は、澪の手を取り、強く握った。


「俺は、君に生きててほしい。それが海でも、陸でも、どっちでもいい。

でも──君自身の意志で、選んでほしい」


澪は答えられなかった。

心の奥で何かが揺れている。

自分は誰だったのか。何を失ったのか。そして、誰を守りたいのか──


その夜、澪はふたたび夢を見る。


その夢のなかで、ナリスとは別のもうひとりの人魚が、遠くの海の底から手を差し伸べていた。

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