夜の海は静かだった。
星々が鏡のような水面に映り込み、どこまでも続く銀の道をつくっていた。
満月。
それが“潮の扉”が開く合図──
澪は浜辺に立っていた。
足元の砂はひんやりとして、かすかに波の泡が触れては消えていく。
「……ここが、すべての始まりだった気がする」
翔太と出会ったあの日。
ナリスと別れたあの日。
そして、記憶を封じてこの世界に来た日。
すべてがこの海から始まっていた。
背後に気配を感じて振り返ると、翔太が静かに立っていた。
彼の顔はどこかやつれていて、けれどその目は決意に満ちていた。
「来たんだね」
「……来なきゃ、後悔するって思った」
澪はゆっくりと歩き、翔太の隣に並んだ。
言葉は交わさず、ただ寄り添うように波音を聞く。
──そのときだった。
空気が変わった。
風が止まり、海面が青白く輝き始めた。
波の中心がゆっくりと割れていく。
まるで異世界への扉が開かれるように、そこには深く深く沈んでいく道が現れた。
「……潮の扉が、開いた」
ナリスの声が、どこからともなく響いた。
そして波間から、もうひとりの人魚が現れる。
長い銀色の髪、青い瞳。まるで鏡に映したような澪の姿──
「……誰?」
「あなたの“本質”──封じられた本来の姿よ」
ナリスが現れ、淡々と告げる。
「あなたの魂は今、ふたつに分かれている。
人間としての澪。そして、人魚だったころの澪。
選ばなければ、いずれ両方とも消滅するわ」
翔太が一歩踏み出し、澪をかばうように前に出た。
「彼女を脅すな。選ぶのは彼女自身の意志だ」
ナリスは静かに頷いた。
「だからこそ、彼女の記憶をすべて戻したの。
今ならわかるはず──自分が誰なのか、何を願っていたのか」
澪は、人魚の“自分”と目を合わせた。
その瞳の奥に、過去の記憶が次々と流れ込んでくる。
──海の底の王国。
──ナリスと語り合った夜。
──翔太を助けた日。
──人間になるためにすべてを差し出した瞬間。
「……私は、澪。
この世界で、翔太と生きてきた。たくさん笑って、泣いて、苦しんで……
その全部が、本当の私の“人生”だった」
「でも、あなたは海に生きる者。永遠の存在。
陸の時間では、彼と過ごせるのは限られているわ」
ナリスがそう囁く。
翔太は澪に微笑みかけた。
「俺は、たとえ短くてもいい。
君と一緒にいられるなら、それでいいんだ」
澪の瞳から、静かに涙がこぼれ落ちた。
「翔太……ありがとう。
私、決めたよ」
──その瞬間、海が大きくうねり、潮の扉がまばゆい光を放った。
澪は一歩、海へと踏み出した。
けれど、それは戻るためではなかった。
「私の願いは、たったひとつ──
“境界を壊す”こと。海と陸、二つに分かれた世界を繋ぐ」
ナリスが目を見開く。
「まさか……禁忌を」
「私は
翔太と生きるために、“世界”を変える!」
澪の身体が光に包まれる。
人魚でもなく、人間でもない──
その狭間に立つ、ひとりの少女の姿があった。
「そう、……だって私は──人魚」