依頼から三日後の夕刻。ギルドのホールは、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
クレアは、報告書の山を整理しながらも、数分おきに扉の方へ視線を送ってしまう自分に気づいていた。
窓の外はすっかり曇天。日は隠れ、風が冷たい。
(予定の帰還時間は、もう過ぎている)
壁に掛けられた古びた時計の針が、既定の時刻を越えたまま、静かに時を刻み続けている。
ホールには他の冒険者たちも数名いたが、どこかそわそわと落ち着きがない。
無事に帰ってくる――それが当然ではないと、皆がどこかで知っていた。
クレアは焦りや不安を顔に出すことはない。ただ、静かに、胸の奥で“最悪”の可能性が脈を打っていた。
無言のうちに、手元の報告書を一枚、また一枚と片付ける。けれど、視線はたびたび、扉の方へと引き戻される。
そして、ようやくその瞬間が訪れた。
扉が、軋むような音を立てて開く。
――リクだった。
肩を貸された状態で、ゆっくりと足を引きずっている。
服の端は破れ、血がにじみ、足取りは重い。
後ろには、仲間の弓使いの少女――脚を負傷している様子。そして盾役の青年が背負っているのは、意識を失ったもう一人の冒険者だった。
ギルドの空気が、一瞬にして張り詰める。
「負傷者! 誰か、回復士を!」
「応急処置を!」
「こっち、担架持ってきて!」
受付嬢たちが慌ただしく動く中、クレアはただ一歩、カウンターを出てリクの前に立つ。顔は血で汚れ、息は荒い。だが、その瞳だけは、確かに“こちら”を見ていた。
意識は朦朧としながらも、確かに“帰ってきた”という意思がそこにはあった。
「……帰ってきたのね」
その言葉に、リクは小さく頷こうとして、力尽きたように膝をついた。
クレアはしゃがみ込み、手慣れた動きで止血用の布を巻く。手の震えを、見せないようにしながら。
その姿を見た周囲の冒険者たちが、無言のまま手を貸そうと動き出す。ギルドという場は、普段は軽口が飛び交う場所だが――命の匂いがした瞬間、皆が本能的に黙る。
「仲間は……?」
クレアの問いかけに、リクはかすれた声で応じた。
「……全員、生きてます。……クレアさんの言った通り、“帰ること”を最優先に動きました……っ」
言葉の端々に、悔しさと誇りが滲んでいた。
予定外の強敵との遭遇。計画の修正。判断の遅れ。そして、命を繋ぐために捨てた“成果”。
剣を振ったわけじゃないかもしれない。手柄も少なかったかもしれない。
けれど――この帰還こそが、何よりの“勝利”だった。
クレアは黙って頷く。そして、リクの頬に貼りついた血を、そっと親指で拭う。
「……そう、それでいいのよ。無事で、何よりだわ」
クレアの表情は、相変わらず冷静だった。だが、その目だけは、かすかに揺れていた。その揺れは、かつて失ったものを想起させる記憶の痛み――けれど同時に、確かに“救われた”何かでもあった。
仲間たちが担架に乗せられ、診療所へと運ばれていく中、リクだけはその場に座り込んだまま、拳を握りしめる。
「俺……自分が情けなくて。……あんなに準備したのに、結局、守るだけで精一杯で……」
その言葉には、敗北感だけでなく、誰かの命を守った誇りも滲んでいた。
「それが、冒険なのよ」
クレアの声は、低く、確かな重みを持っていた。
「戦ってる時は、自分が一番正しいと思ってる。でも、帰ってきた時に気づくの。間違ってたって」
その言葉を聞いた瞬間、リクの肩がわずかに震えた。
「でもね、それに気づけたあなただから、次があるわ」
そう言って立ち上がったクレアの足元。長いスカートの裾から、一瞬だけ、金属の光が覗いた。
リクが見上げたその先、クレアの左脚――それが義足であることに気づいた。
「……クレアさん……」
呟く声に、クレアはわずかに目を細める。
「私はね、剣を振る資格を失ったの。でも、見送る資格なら、まだあるわ」
それは、彼女の過去に対する結論だった。
剣を捨てた者にしかできない役目。命を繋ぐ者を支える、もう一つの戦い方。
ただ”見送る者”として、そして、“帰ってきた者”を迎える者として、ここにいる。
――その夜、クレアは帳簿の整理を終えたあと、ふと“失踪者リスト”に目を向けた。
静かなギルドの中、壁に貼られたその紙に、目だけがゆっくりと滑っていく。
(あの日、止められなかった者の名前。今夜、あそこに新しい名は増えなかった)
そのことが、何よりの報酬だった。
そこに名前が刻まれる者を、これ以上増やさないために――
クレアは、明日もまた、受付に立ち続けるのだ。