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第4話

 依頼から三日後の夕刻。ギルドのホールは、どこか落ち着かない空気に包まれていた。


 クレアは、報告書の山を整理しながらも、数分おきに扉の方へ視線を送ってしまう自分に気づいていた。


 窓の外はすっかり曇天。日は隠れ、風が冷たい。


(予定の帰還時間は、もう過ぎている)


 壁に掛けられた古びた時計の針が、既定の時刻を越えたまま、静かに時を刻み続けている。


 ホールには他の冒険者たちも数名いたが、どこかそわそわと落ち着きがない。


 無事に帰ってくる――それが当然ではないと、皆がどこかで知っていた。


 クレアは焦りや不安を顔に出すことはない。ただ、静かに、胸の奥で“最悪”の可能性が脈を打っていた。


 無言のうちに、手元の報告書を一枚、また一枚と片付ける。けれど、視線はたびたび、扉の方へと引き戻される。


 そして、ようやくその瞬間が訪れた。


 扉が、軋むような音を立てて開く。


 ――リクだった。


 肩を貸された状態で、ゆっくりと足を引きずっている。


 服の端は破れ、血がにじみ、足取りは重い。


 後ろには、仲間の弓使いの少女――脚を負傷している様子。そして盾役の青年が背負っているのは、意識を失ったもう一人の冒険者だった。


 ギルドの空気が、一瞬にして張り詰める。


「負傷者! 誰か、回復士を!」

「応急処置を!」

「こっち、担架持ってきて!」


 受付嬢たちが慌ただしく動く中、クレアはただ一歩、カウンターを出てリクの前に立つ。顔は血で汚れ、息は荒い。だが、その瞳だけは、確かに“こちら”を見ていた。


 意識は朦朧としながらも、確かに“帰ってきた”という意思がそこにはあった。


「……帰ってきたのね」


 その言葉に、リクは小さく頷こうとして、力尽きたように膝をついた。


 クレアはしゃがみ込み、手慣れた動きで止血用の布を巻く。手の震えを、見せないようにしながら。


 その姿を見た周囲の冒険者たちが、無言のまま手を貸そうと動き出す。ギルドという場は、普段は軽口が飛び交う場所だが――命の匂いがした瞬間、皆が本能的に黙る。


「仲間は……?」


 クレアの問いかけに、リクはかすれた声で応じた。


「……全員、生きてます。……クレアさんの言った通り、“帰ること”を最優先に動きました……っ」


 言葉の端々に、悔しさと誇りが滲んでいた。


 予定外の強敵との遭遇。計画の修正。判断の遅れ。そして、命を繋ぐために捨てた“成果”。


 剣を振ったわけじゃないかもしれない。手柄も少なかったかもしれない。


 けれど――この帰還こそが、何よりの“勝利”だった。


 クレアは黙って頷く。そして、リクの頬に貼りついた血を、そっと親指で拭う。


「……そう、それでいいのよ。無事で、何よりだわ」


 クレアの表情は、相変わらず冷静だった。だが、その目だけは、かすかに揺れていた。その揺れは、かつて失ったものを想起させる記憶の痛み――けれど同時に、確かに“救われた”何かでもあった。


 仲間たちが担架に乗せられ、診療所へと運ばれていく中、リクだけはその場に座り込んだまま、拳を握りしめる。


「俺……自分が情けなくて。……あんなに準備したのに、結局、守るだけで精一杯で……」


 その言葉には、敗北感だけでなく、誰かの命を守った誇りも滲んでいた。


「それが、冒険なのよ」


 クレアの声は、低く、確かな重みを持っていた。


「戦ってる時は、自分が一番正しいと思ってる。でも、帰ってきた時に気づくの。間違ってたって」


 その言葉を聞いた瞬間、リクの肩がわずかに震えた。


「でもね、それに気づけたあなただから、次があるわ」


 そう言って立ち上がったクレアの足元。長いスカートの裾から、一瞬だけ、金属の光が覗いた。


 リクが見上げたその先、クレアの左脚――それが義足であることに気づいた。


「……クレアさん……」


 呟く声に、クレアはわずかに目を細める。


「私はね、剣を振る資格を失ったの。でも、見送る資格なら、まだあるわ」


 それは、彼女の過去に対する結論だった。


 剣を捨てた者にしかできない役目。命を繋ぐ者を支える、もう一つの戦い方。


 ただ”見送る者”として、そして、“帰ってきた者”を迎える者として、ここにいる。


 ――その夜、クレアは帳簿の整理を終えたあと、ふと“失踪者リスト”に目を向けた。


 静かなギルドの中、壁に貼られたその紙に、目だけがゆっくりと滑っていく。


(あの日、止められなかった者の名前。今夜、あそこに新しい名は増えなかった)


 そのことが、何よりの報酬だった。


 そこに名前が刻まれる者を、これ以上増やさないために――


 クレアは、明日もまた、受付に立ち続けるのだ。

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