ギルドの一角にある、旧記録室――
誰も足を踏み入れないその場所で、クレアは古い報告書の束をめくっていた。棚に収められた書類は、どれも紙が黄ばみ、角が擦れて丸くなっている。
その中の一枚を取り上げたとき、彼女の指先がわずかに震えた。
それは、五年前――自身が最後に参加した依頼の記録だった。
《黒霧の渓谷・魔獣掃討任務》
依頼ランクはA。対象は「複数個体の大型魔獣」――だが、実態はそれを遥かに超えていた。
(あの時、私は情報を軽んじた)
依頼書の隅に記された“異常反応”の注記。報告者名は伏せられ、数値も曖昧。
当時のクレアはそれを、慎重に調査するべき異変ではなく、いくつも乗り越えてきた“想定内のリスク”と見なした。経験が、誤らせた。信頼が、油断を生んだ。
盾役のザイラスは、群れの一斉攻撃から皆を庇って倒れ、弓のミラは、撤退の最中に背後から魔獣に捕まり、そして魔導士のユアンは、最後までクレアの脱出を援護して、還らなかった。
森に響いた咆哮の音。血の臭い。仲間の声が消えていくあの瞬間。
その記憶は、何度塗り替えようとしても、消えることはなかった。
誰かを導く資格も、命を預かる勇気も、もう自分にはないと思った。胸を張って誰かの前に立つことが、許されるとは思えなかった。
けれど、あの日以来、受付嬢としてカウンターに立ち続ける中で、彼女の中に少しずつ芽生えたものがある。
――もう誰も、戻れなくなる場所へ、行かせたくない。
それは
帰ってくることが当たり前になる世界を、自分の手で作りたい。
その想いだけで、今日まで踏みとどまってきたのだ。
◆
日が傾き始めた頃、クレアはホールに戻った。ちょうどそのとき、訓練帰りのリクたちが談笑しながら戻ってくるのが見えた。
リクは仲間と何かを話しながら、手にしたノートを開いて見せている。
笑いながらも、どこか真剣で、前よりもずっと落ち着いた雰囲気があった。
その目には、あの日のような無防備な光はない。代わりにそこにあるのは、“悔しさ”から生まれた“恐れ”、そして“責任”という重み。
(……ずいぶん、顔つきが変わったわね)
リクの視線は、もう未来を見ていた。恐れながらも歩みを止めず、誰かの命を預かろうとする者の顔をしていた。
数時間後、クレアのもとにリクが現れた。彼の表情は、これまでになく真剣だった。
「この前の依頼と、同じ場所なんです。未達成の調査区域が残ってて、僕たちで完了させたいと思ってます」
そう言って差し出された書類は、以前より格段に読みやすく、戦力と危険のバランスが計算されている。
撤退ライン、非常用の合図、連携の段取り……ひとつひとつに、現場での学びが反映されていた。
作戦概要には、弓使いの少女が索敵を担当し、盾の青年が前衛を支え、リクが仲介と判断を務めると明記されていた。ただ力をぶつけるのではなく、“生きて帰る”ための連携。
その準備が、この紙の上にはあった。
クレアはそれを見ながら、ふと感じる。
(……これなら、きっと帰ってこられる)
リクの仲間たちが出ていこうとする背中に、クレアはほんの一瞬、かつての仲間たちの姿を重ねた。
不完全な作戦、不完全な装備。それでも、信じて踏み出したあの日の自分と仲間たちを――。
誰かの命を預かるには、覚悟だけじゃ足りない。けれど、覚悟がなければ、その先に踏み出すことさえできない。
「……受理します。明日の朝、出発ね」
「はい!」
リクが深く頭を下げる。背中はもう、あの初日とは別人のようだった。
真っ直ぐで、愚直で、けれど今は、確かな“重さ”を背負っている。
◆
翌朝――薄明の光がギルドの窓を照らす頃、出発の冒険者たちがカウンターに集まっていた。
リクもその中にいた。
硬く結んだ髪、手入れされた装備、そして静かに整った表情。
緊張がにじんでいるが、足取りは確かだった。
受付に立つクレアに、彼は静かに言った。
「俺、必ず帰ってきます。……あなたがいたから、ここまで来られた」
その言葉に、クレアは少しだけ間を置いて、いつものように言葉を返す。
「……それなら、行ってらっしゃい」
その声は、剣を置いた者ではなく、今を支える者の声だった。
そして――命を、送り出す者の声でもあった。