王都の片隅にあるノーマン伯爵家の裏庭でひっそりと育てられていた夏野菜が季節を終え、秋の実りに置き換わろうとする頃。
行き遅れの伯爵令嬢トリシャ・ノーマンと、第三王子妃であるクレア妃の兄ヘルマン・リドル子爵の結婚式が王都の教会で執り行われた。王命による婚姻打診からたった二ヶ月という異例のスピード婚である。リドル子爵家の置かれた立ち位置を思えば確かに急ぐべき事情はあれど、さすがに婚約期間すら置けぬというほどではなかった。それでも婚姻が急がれた理由に、子爵領の立地が挙げられる。
王国の北方地域に位置するリドル領の冬の訪れは早い。王都で秋が終わる頃にはすでに雪が散らつきはじめ、そのまま四月まで雪に覆われる。秋口の嫁入りが間に合わなければ、年を空けて来年の春まで待たねばならなくなるという事情もあって、このような強行スケジュールとなった。
肝心のヘルマンは領地の業務が目白押しで離れられず、トリシャとの顔合わせも出来ぬまま結婚式当日を迎えてしまった。
夫となる人物と結婚当日まで目通りが叶わないというなんとも言い難い状況ではあったが、そんなヘルマンの無沙汰をクレア妃に詫びられたとあっては何も言えない。
父であるノーマン伯爵や領地から駆けつけた長男オリバーは多少苛立つ素振りも見せていたが、当の本人であるトリシャは泰然としたものだった。そもそも自分が夫に求める条件はお金持ちであることただひとつだったのであって、容姿や性格や家柄にはなんの頓着もない。ヘルマン・リドル子爵はお金持ちとは言い難いが、その分は王家からの祝金で相殺されるから、トリシャにとって十分すぎるお相手だった。
結婚というものに夢も希望も抱いていなかったトリシャだったが、王家が総力をあげて用立ててくれたドレスに身を包めば、さすがに気分が高揚した。社交界デビューすら義姉のドレスを借りて行ったほどの赤貧ぶりだ。自身のドレスをオーダーメイドで用意してもらうなど、まだ裕福だった子どものとき以来のことだった。
正装姿の父に腕を預けて、ゆっくりとバージンロードを歩いていく。長いヴェールのおかげで視界がはっきりしないが、祭壇の前で艶めく衣装を身につけた背の高い若者がこちらを見ている気配は感じ取った。トリシャは女性にしては背が高い方だ。過去にお見合いをした男性たちの中には彼女よりも背が低い者も何人かいた。それが理由で断られたとまでは思えないが、少なくともあそこで自分を待っている男性は自分よりもずっと高そうだ。
そうして父から彼へと、突貫で手入れがなされたトリシャの手が託された。ヘルマンがその手を取ったのは一瞬のこと。日に焼けた大きな硬い手に触れて、彼女の胸がとくん、と音を立てた。
(わたくしよりも大きいけど……ちょっとだけ似ているかも)
ノーマン伯爵家の王都のタウンハウスには、下働きのメイドであるドーシャしか使用人がいない。そのためトリシャは伯爵令嬢ながら家事を一手に引き受けていた。高位貴族の令嬢たちがメイドに手入れをさせる手で、彼女は野菜の皮を剥き、洗濯をして、畑まで耕す生活だ。トリシャ自身そんな生活に不満はなかったが、ここ二ヶ月の間、ヘルマンの妹であるクレア妃の計らいで全身を手入れしてもらう中で、自身の身なりが令嬢らしからぬ状態であることには気づいていた。
普通の令嬢の手はごつごつもざらざらもしてはいないし、爪が割れてもいない。日に焼けて赤黒くもなってはいない。
美しいとは決して言えないトリシャの手。だが花婿である彼の手もまた、トリシャと似た感触をしているような気がした。そのことにほんの少し嬉しさを感じる。
そのまま神父の前で誓いを立て、誓いのキスの時間になった。
向かい合ったヘルマンの手でトリシャのヴェールが避けられ、彼女は初めて夫となる人の顔を直視した。
丁寧に撫でつけられたアッシュブロンドの髪は後ろに流され、一筋だけはらりと額にこぼれている様までが計算されているかのように麗しい。顔つきは精悍で、意志の強そうな眉がクレア妃の凛々しい表情とよく似ていた。妃殿下よりも柔和な印象なのは、優しい色合いの琥珀色の瞳のおかげだろう。クレア妃の瞳は深淵を見通すような深い青だった。
歩きながら観察した通り、彼はトリシャよりもはるかに背が高かった。身長だけではなく、しっかりとした肩幅が目立つ見事な体躯である。先ほどから教会のあちらこちらで貴婦人たちの感嘆のため息が漏れているのが聞こえたが、なるほど、花婿のこの容貌への賛辞だったのかとようやく腑に落ちた。
この人が花婿で、自分の夫で、今から自分は彼とキスをするのだと思うと、途端にトリシャの心臓がばくばくと音を立て始めた。縁談が持ち込まれて以降、何がどう進んでもまったく動じず、クレア妃との面会の機会を得た際には多少緊張したものの、雪遊びの話題であっという間に打ち解けたことでノーカンとしたトリシャの、初めての緊張の場面だった。
(ど、ど、どうしましょう!? なんだか急に動悸が……。頭がくらくらする気もするわ。でも、こんなところで倒れてしまうわけにはいかないし。落ち着くのよ、トリシャ。そうだわ、何か違うことを考えましょう。えーっと、わたくしの旦那様になる人は髪の毛がなくて、歯が欠けていて二重顎で太鼓腹で水虫があって、それからそれから……)
現実逃避するために現実感のある妄想を繰り広げていたトリシャの肩を、ヘルマンがそっと掴んだ。その瞬間、呆気なく現実に引き戻された彼女は、近づいた夫の顔をまじまじと見ることになってしまった。
「うそ、髪の毛があるわ……」
「…………は?」
困惑気味に眉根を寄せる美丈夫の顔面の破壊力に、トリシャはこれ以上為す術がなかった。夫となる人の疑問符に返す言葉もなく、そのままぽかんと唇を開けていると、これみよがしに神父が咳払いをした。
「す、すまない」
不意に耳元で声がしたかと思うと、トリシャの頬をさっと何かが掠める気配があった。そのまますぐ離れた温度と距離感に、誓いのキスが終わったことを悟る。
「ここにヘルマン・リドル子爵とトリシャ・ノーマン伯爵令嬢の婚姻が成り立ったことを証明いたします」
神父の宣言で二人の結婚式が終わった。万雷の拍手に包まれて、招待客の方へと顔を向ける。隣で立つ夫となった男性の横顔にちらりと視線をやれば、彼は硬い表情のまま正面を見据えていた。
ただ前を見ている、それだけでも凛々しい人だ。けれど。
(誓いのキス、されなかった、わよね)
頬に近づく気配はあれど、何かが触れた感触はなかった。すっかり動悸が収まったトリシャの胸に過ぎるのは、あまりに鮮明な先ほどの記憶だった。