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思いがけない旅路

 そうして無事人妻となった花嫁トリシャは、結婚式を挙げた翌日には花婿ヘルマンと一緒にリドル領に引っ越すことになった。


 今回は王家も絡む輿入れということで、トリシャのために移動に最適な馬車と護衛騎士が貸しつけられた。数頭の馬に引かれる馬車に乗るなど、裕福だった子ども時代以来の経験だ。


 馬車には十分な広さがあったが、夫となったヘルマンは同乗することなく、馬に乗って馬車の横を歩んでいた。いつも領地から王都に来る際には馬車でなく馬を使うそうで、馬上の方が慣れているのだという。腰には剣を下げており、もしや騎士の訓練を受けたことがあるのかと興味深く尋ねれば、王都の学校に通っていたときに訓練を受けた程度だと控えめに答えた。


「リドル領は平和なところですのでならず者の被害などは無縁なのですが、剣を扱える人間は私くらいしかいませんので、今でも我流ではありますがたまに訓練をしているのです」


 本職の彼らには敵いませんが、と王家が用意してくれた護衛騎士を見ながら呟くヘルマンは、かつて貴族の子弟が通う学校に二年ほど在籍していたのだという。本来は三年の在学で卒業認定がなされるのが普通だが、優秀な者は途中編入や早期卒業で期間を短縮できる。


 それを知っていたトリシャは素直に感嘆の声を上げた。


「まぁ、ヘルマン様はとても優秀でいらっしゃるのですね」

「いえ、お恥ずかしい話なのですが、我が家の懐事情から学費の工面が難しく、二年の在籍がぎりぎりだったという事情からです。そのため必死で勉強していましたから、王都で学校以外の記憶はほとんどないんです」


 そんな話を、道中の宿で食事をしながら二人でした。ちなみに宿も王家の支払いだそうで、どこももてなしがいい上に食事がとても美味しかった。もうびっくりするくらい美味しかった。


 長らくのノーマン伯爵家の貧乏暮らしで、食材のみならず調味料まで節約しまくっていたトリシャにとって、ディナーに出されるホテルの食事は舌がとろけるほどの感動だった。


「ヘルマン様、この鴨のローストにかかっているソース、とても美味しいですわね! とても豊かな味わいで、お塩もブイヨンもたっぷり使っているのでしょうね!」


「ごく普通のインゲン豆のカスレがどうしてこんなに止まらない美味しさなのでしょう!きっと香草がこれでもかというほどたっぷり使われているのでしょうね!」


「こちらのサラダ、もうお召し上がりになりました?  かっているドレッシングが不思議なお味なのです! マヨネーズっていうのですって。卵を主食でなくドレッシングにしてしまうとは、なんて贅沢なのでしょう!」


「デザートのアイスクリームがとっても甘いですわ! かかっているベリーソースには果物の粒がそのまま残っているなんて! ベリーは王都では手に入りませんから、なんとも贅沢でございますね!」


 はじめは一般的なことを話していたものの、次から次へとサーブされる皿の見事さに、トリシャの話題はすべて料理の、それも料理そのものというより贅沢な材料や調理方法に関する探究心へと傾いていった。


 もともと料理することも食べることも大好きなトリシャだ。家では味わえない食べ物を口にするたびに、ふと王都に残してきた父のことが蘇った。


(はぁ、この美味しいお食事、お父様にもドーシャにも食べさせてあげたかったわ)


 デザートのアイスにかかったベリーの粒を残さず掬い上げながら、でも、と思い直す。


(私という食い扶持がひとり減った上に、王家からの祝金もあるのだから、きっと今までよりは豪華な食卓になることでしょう)


 こんなふうに砂糖をたっぷり使ったデザートも食べられるわよねと、最後のひと掬いを口に運んでにんまりと微笑めば、正面から軽い咳払いがした。


 はっと顔を上げれば、そこには手付かずのデザートを前にしたヘルマンが、手のひらで顔を覆うようにして俯いていた。


 食事の初めこそヘルマンに呼びかけていたが、途中から料理の美味しさに感動してひとりで話しまくっていたことに気づいたトリシャは、気まずそうにデザートスプーンを置いた。


「申し訳ありません、私ひとりで話してばかりで……」


 しかも社交的な会話でなく、料理の感想ばかりだ。ヘルマンの好みも一般的な男性の好みもよく知らないが、あまりに偏った話題はマナー違反だったかもしれない。


 もしや呆れているのではと俯いた状態から恐る恐る目線を向けてみれば、ヘルマンは少し顔を逸らして「いや……」と呟いた。アッシュブロンドの長めの前髪は今日は下ろされている。今日だけでなく道中はずっとそんな感じだから、結婚式のように後ろに流している方が珍しいのだと、トリシャも気づいていた。


 結婚式のきっちりと整えられた髪型は素敵だったが、これも悪くない。むしろ琥珀色の瞳が持つ柔和な印象によく似合っていて素敵だ。


 夫となった人をぼーっと見つめていると、彼が再び小さく咳払いをした。


「その、ずいぶんと美味しそうに召し上がるのだなと思いまして」

「あ、あの、お恥ずかしいところをお見せして申し訳ありません。その、わたくし、決して食い意地がはっているわけではございませんの」


 日々の台所を預かっていた者として、材料や調理方法に興味が強いだけだと伝えたかったが、それが貴族令嬢の生活とかけ離れていることは十分理解している。ここで曝け出す話でもないだろう。


 女性にしては高めの背を小さくして俯いていたら、トリシャの前にそっとデザートグラスが差し出された。


「ヘルマン様?」

「よろしければこちらもどうぞ。私は甘い物はそこまで得意ではないので……」

「まぁ、そうなんですの? なんてもったいない人生……」


 かつて父に誕生日のプレゼントのリクエストを聞かれ、「砂糖がほしいわ!」と答えた実績持ちのトリシャからすれば信じられない話だった。


 ヘルマンはそんなトリシャの表情をちらりと見た後、再び顔を逸らした。横を向いた彼の耳がひくりと動く。


「どうぞ召し上がってください。アイスも私なんかよりトリシャ嬢に食べてもらった方が幸せでしょう」

「アイスが幸せ、でございますか?」


 奇妙なやりとりの後に、ヘルマンはまたしても手のひらで口元を覆ってしまった。


 差し出されたデザートと彼とを交互に見つめる。


「……ありがとうございます、ヘルマン様。わたくし、アイスクリームもベリーのソースも大好きなんですの」


 せっかくの夫からの好意だ。素直に受け取ろうと、再びスプーンを手に取った。掬い上げた一口目がひんやりと口の中に溶けていく。トリシャと同じアイスを注文したはずなのに、先ほどよりも甘く感じるのはなぜだろう。


 デザートを譲ったヘルマンの前には、一足先に食後のコーヒーが出されていた。砂糖もクリームも入れずに飲んでいるところを見るに、甘いものがあまり好きではないのは本当のようだ。


「ヘルマン様は、甘い物はまったく駄目なのですか?」

「いえ、そこまでではありません。妹が無類の甘党だったので、子どものときからすべて強奪され……ん、ん、ごほんっ! いや、譲ってやっていたので、あまり口にすることがなかったというだけです」

「そうなのですね。わたくし、あまり甘くないケーキやパンケーキなどもたくさん知っていますの。それなら食べていただけるかしら」

「そうですね、大丈夫だと思います」

「よかったです!」


 こんなに美味しいものをこの先ひとりで食べるのはもったいない。美味しいものは分け合ってこそもっと美味しくなるというのがトリシャの信条だ。だからこそ今までだって、父が残業で遅い帰りになったとしても、ひとりで食事をすませず待つようにしていた。


 これからはその相手が父からヘルマンに変わるのだ。


 こうしてお互いが好きな物や苦手な物を共有して、それを囲んで食事をする。今までしてきたことがこの先だって変わらず続いていくのだと思えば、ふっと心が温かくなった。


 事実、二人は道中の食事時間にいろんな話をした。主にトリシャがしゃべって、寡黙なヘルマンが相槌を打つだけということも多かったが、それでも穏やかで楽しいと思える時間を過ごすことができた。


(結婚って、それほど悪くないかもしれないわ)


 デザートは毎回決まって自分に譲ってくれるヘルマンの、そっと逸れた横顔を見つめながらトリシャは顔を綻ばせた。


 実家の助けとなるようなお金さえあればいいと思っていたトリシャの結婚観が、少しずつ形を変えていく——。


 そんなふうに交流しながら彼女はリドル領への旅を楽しんだ。なお道中の寝室はすべて別であった。


(ということは、初夜はヘルマン様のおうちに着いてからってことね)


 初日に「ゆっくり休んでほしい」と言われていたトリシャは、そういうものかと割り切って気兼ねなく独り寝を楽しんだ。慣れない長旅に疲れもあったのかぐっすり眠れたトリシャの横で、ヘルマンがどこか緊張した面持ちで馬を進めていることに気づくこともなかった。




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