「ここがあなたの部屋です。気に入っていただけるといいのですが……」
ヘルマンに案内されたのは二階にある子爵夫人のための居室だった。真っ先に目に入ったのは広いガラス窓。外は肌寒かったが、ここは日当たりがよくて暖かだ。広さもトリシャが過ごしてきたノーマン家のタウンハウスよりもずっと広い。置かれた調度品も重厚さを感じさせる見事な物ばかりだ。
「ここは昔、母が使っていた部屋なのですが、ご存知の通り八年前に亡くなりまして、以来閉め切っていたのです。あなたがおいでになると聞いて大掃除をしました。手は行き届いていると思いますが、ご不満がありましたらなんなりとおっしゃってください」
「不満なんて……。とても広くて暖かい、素敵なお部屋です。ありがとうございます!」
「こちらは居室でして、寝室は……あちらの扉の向こうになります」
そのままヘルマンに連れられて扉を開ける。先ほどよりも一回り小さい広さで、大きめのベッドがひとつだけあるところを見るに、夫婦の主寝室のようだ。
「その、実は向こうにも扉がありまして、その奥にも部屋があるのですが……」
「ではそちらがヘルマン様のお部屋ですね!」
「いえっ! 違います! あちらは元々は父の部屋でして……」
「まぁ! ではわたくし、ヘルマン様のお父様と寝室が一緒ですの?」
「とんでもない……! 父は今、商用で不在にしていて、しばらくは戻ってきません。それに父の荷物は別の部屋に移していますので、戻ってきたとしても隣を使うことはありません」
「まぁ、それはようございました」
部屋割りくらいでどうこう言うつもりはなかったが、さすがに義理の父となる人と隣り合わせというのはいただけない。
「では、ヘルマン様のお部屋はどちらになりますの?」
「私の部屋は元々一階にありまして。執務室の隣の仮眠室をそのまま部屋として使っています」
「仮眠室、でございますか? そんなところでゆっくりお休みになれますの?」
「長年使っていますので慣れていまして……。昼間は領地を見回っていることが多いので、事務仕事はどうしても夜になりますから、すぐ隣が寝室というのは案外便利なのですよ」
「利便性は確かにそうかもしれませんが、お身体のことが心配ですわ。夜はしっかりお休みにならないと、むしろ効率が悪いと思います」
言いながらトリシャは実家の父のことを思い出した。借金返済の足しにしたいと残業に精を出していた父は、帰ってくるのが遅くなる日もしばしばだった。そんな父が自宅に戻ってきてすぐに休めるよう、体調を管理したりいろいろ整えてあげたりすることがトリシャの大事な役目だったのだが。
どうやら父と同じく、ヘルマンもまた仕事人間のようだ。
「あの、来たばかりで何も知らない身ではありますが、わたくしにできることがありましたらなんなりとおっしゃってくださいまし。お手伝いできることがあればいたします」
トリシャも一応女学校を卒業している。ただし貧乏であったがゆえに貴族御用達の学校には通えず、平民たちも多く在籍していた学校だった。だからだろうか、「限られた予算で一ヶ月をやりくりする方法」だとか「低予算とみくびられないお茶会の開き方」だとか「古いドレスを目新しくリメイクする方法」だとか「蚤の市で掘り出し物を見分ける目利き」だとか、そんな授業内容が多く、楽しく通学する毎日だった。
……ということはさておき、簡単な家計簿の付け方くらいならお手のものである。領地の経営まで見ることはできないだろうが、少しでもヘルマンの重荷を減らしてあげたい。
だがヘルマンは「とんでもない」とまたしても首を横に振った。
「トリシャ嬢にそんなことをさせるつもりはありません。本来でしたらこのような僻地においでになるご身分ではなかったところを、私や妹のこともあり、無理を申し上げたことは理解しています。王都のご実家とまったく同じというわけにはまいりませんが、ゆっくりお過ごしいただけるよう、取り計らいますので」
「王都の実家、ですか?」
ノーマン伯爵家でのトリシャは、日の出とともに起きて一日中家事をし、夜はランプの油代を節約するために早めに寝る生活だった。外で働いている父やヘルマンに比べたらゆっくりかもしれないが、それなりに忙しくしていたつもりだ。
そこまで考えてはっとした。もしかしてヘルマンはノーマン伯爵家のことを貴族らしい優雅な生活をしている家と勘違いしているのかもしれない。
「ヘルマン様、わたくしの実家は……」
口を開きかけたものの、すぐに言葉を止めた。自分は今、何を告白しようとしているのだろう。
トリシャの家は紛うことなき貧乏である。女学校時代も自分より商家の平民の同級生たちの方がよほど裕福な暮らしをしていた。自分が貴族令嬢らしくない生活を送っていることもわかっていたが、恥ずかしいと思ったことはない。
だがもしそれを打ち開ければ、ヘルマンはどう思うだろう。
彼が求めていたのは、伯爵家以上の高位貴族の令嬢だ。彼自身が望んだというわけではなかもしれないが、王家が定めたのはその条件だった。そして高位貴族のご令嬢がどんな生活をしてるのか、体験したことはなくとも想像はできる。
もしヘルマンがトリシャのことを、優雅な生活を送っている令嬢だと勘違いしているなら……いや、勘違いだけでなく、彼自身がそうした令嬢を求めたいたのだとしたら。
平民と変わらない生活を送ってきた自分のことを知って、彼ががっかりしてしまうかもしれない。
リドル家も借金を抱えていたと聞いているが、三階建のこの大きなお屋敷といい、ずらりと揃った使用人といい、同じ借金持ちでもノーマン家とは規模が違う。それになんと言っても王家の縁戚となった家だ。子爵夫人にもそれなりな立ち居振る舞いや貴族らしさが求められるだろう。
(だったら、私の本当の姿は黙っている方がいいのかもしれないわ)
そう思い当たったトリシャは、言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ。本当の自分を隠すことに後ろ暗さを感じないわけではないが、すべて曝け出すのが正しいこととも限らないと胸に手を当てる。
「なんでもありませんわ、失礼いたしました」
にっこりとそう笑って見せれば、ヘルマンはどこかほっとしたような表情を見せた。
「とにかく、今はこちらにおいでになったばかりです。慣れるまで時間がかかると思います。その、あの扉が向こうから開くことは絶対にありませんので、安心してお過ごしください。それと、あなたに謝罪しなければならないことがありまして」
「まぁ、なんでしょう?」
「実は、あなた専属のメイドがまだ決まっていないのです。うちのメイドは比較的若い者が多いため経験も浅く、ご令嬢の世話に慣れていません。粗相をしてしまうことも多くあるかと思います」
「わたくし、特に気にしませんわ。それに専属でつけていただかなくとも大丈夫ですわよ? 自分の身支度くらい自分でできます。ここに来る道中でもそうしていましたもの」
「あなたが一般的なご令嬢よりも忍耐強く、広いお心を持っておられることに、私も大変感銘を受けています。ですが、やはり輿入れしてきてくださった方に誰もつけないのは申し訳ないです。ただでさえ執事もいないのに……」
「あら、そうだったんですの」
先ほど出迎えてくれた使用人たちの姿を思い出しながら、確かに執事らしい役割の男性はいなかったなと頷く。ちなみにノーマン家にも執事はいない。領地の家にも住み込みのメイドを一名置いているだけで、家のことのほとんどは兄と兄嫁が二人で回している。
だから我が家も同じだと同意しようとしたが、先にヘルマンが話し始めてしまった。
「今から一ヶ月ほどかけて、あなたの身の回りのことをメイドたちに日替わりで担当させることにしました。彼女たちの仕事ぶりや人となりを見ていただいて、気に入っていただけた者を専属に据えようと考えていますので、ぜひご意見をください」
なるほど、嫁入りした自分と使用人の相性をみようというアイデアかとトリシャも納得した。
「承知いたしました。何から何までありがとうございます」
「いえ、お礼を言うべきはこちらの方です。我が家のいろいろ間に合わない事情に寛大なお心をいただいて大変助かります。そうだ、長旅でお疲れでしょう。湯浴みの準備が整っています。その、高貴な女性の世話ができる人材がいませんので、おひとりでご利用いただくことになりますが、本当に大丈夫ですか?」
「もちろんですわ。わたくし、道中のホテルでもひとりで過ごしておりましたでしょう? どうぞお気になさらないでください。それにお疲れなのはヘルマン様もご一緒でしょう」
「私は旅にも慣れていますので。それにいつもよりもゆったりした旅程でしたのでなんともありません。……っと、すみません、先ほどから何か使用人が物言いたそうにしているので、一旦失礼いたします。あぁ、後ほど部屋にお茶を運ばせますので」
そしてヘルマンは主寝室の扉から外へと出ていった。
今ほど彼から説明された通りに、トリ者は寝室の隣に備えられた浴室を覗いた。自分の到着に合わせてわざわざ運んでくれたのだろうか、浴槽には湯が張られ、湯気がたちのぼっている。
実家で浴槽につかれるのは一週間に一度がせいぜい、普段はお湯で身体を拭くだけの生活だった。さすがは王子妃を輩出した家、初日からこのような贅沢を普通に提供してもらえるなんて、こちらの方が恐縮してしまう。
とはいえせっかくのご好意だ、甘えてしまおうと、さっそく湯浴みをすることにした。
浴槽につかって手足をおもいきり伸ばしてみる。長い時間馬車に揺られて縮んでいた筋肉がぐっと引き伸ばされてとても気持ちがいい。浴室にはとてもいい香りが漂っていて、道中のホテル以上に快適だ。これはアロマだろうか、それとも香油だろうか、あとで聞いてみようと思いながらトリシャはお風呂を堪能した。
そうして旅の埃を綺麗に洗い流し、居室スペースに戻って髪を乾かしていると、部屋にノックの音が響いた。
「はい」
タオルを片手に返事してはみたものの、扉が開く気配もなければ声がかかる様子もない。
(もしかして、私から開けるのが常識なのかしら)
ごく当たり前の貴族の家の常識すら知らないまま育ったトリシャは、一旦タオルを置いて立ち上がり扉に手をかけた。
「どうぞ……あら?」
そっと扉を押してはみたものの、そこには誰の姿もない。
「誰もいない……? もしかして私の勘違いだったかしら」
物音か何かをノックの音と聞き間違えたのかもしれない。そう考えて扉を閉めようとしたとき、扉のすぐ隣にあるテーブルに、お茶とお菓子の載ったトレイが置かれていることに気がついた。
「これはもしかして、私のために準備されたってこと?」
先ほどヘルマンが、後でお茶の準備をさせると言っていたことを思い出す。一緒に過ごせるのかと思っていたのだが、お茶はひとり分だ。
小首を傾げながら辺りを見渡せば、廊下の先の階段がある辺りで、ささっと影が動いた気がした。
(誰かあそこにいるみたい……)
トリシャは思い切って声をかけてみることにした。
「あの、このお茶はいただいてもいいのかしら」
けれどトリシャの呼びかけに物陰に隠れた誰かが反応することはなかった。それでも、ブルーローズが描かれた優美な茶器にぶどうの載ったタルトは、明らかに客人のために準備されたことを物語っていた。
物陰に隠れた誰かはまだそこにいる。トリシャはそちらに近づこうとしたが、濡れた髪のままであることを思い出した。
(いけない! こんなだらしない格好で出歩くなんて、ちゃんとした貴族の令嬢がすることではないわ。あ、違う、わたくしはもう結婚したのだから令嬢ではないわね。リドル夫人よ。トリシャ・リドル子爵夫人)
改めて自分の名前を心の中で反芻すると、なんだか頬が熱くなった気がした。
(そうよ、わたくしはヘルマン様の妻としてここにいるのだわ。ヘルマン様や彼を支える使用人たちに呆れられるようなことは慎まないと)
今のトリシャは濡れた髪に、ドレスも湯上がりの簡易の物だ。もしかしたらこの家の使用人たちはそんなトリシャの格好を想像して、わざと顔を合わせずにすむよう、動いてくれたのかもしれない。
「ありがとう、いただくわ」
気遣いを感謝しつつ、物陰に向かってそう声をかけると、そこにいる誰かががかしこまるような気配を感じた。見えなくても気持ちをこめて微笑み返した後、トレイを持って扉を閉めた。
そうして部屋で髪を乾かし、お茶とぶどうのタルトをいただいた。適度な温度で入れられた濃い紅茶と、ぶどうがまるごと贅沢に焼き上げられたタルトに感動の舌鼓を打っていると、慌てた様子のヘルマンが再び部屋にやってきた。
「トリシャ嬢、すみません。本日の夕食はお部屋で召し上がっていただいてもよろしいでしょうか」
アッシュブロンドの髪を振り乱し、ややくたびれた旅装のままのヘルマンは、青い顔でそう告げた。