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思いがけない晩餐

「トリシャ嬢、すみません。本日の夕食はお部屋で召し上がっていただいてもよろしいでしょうか」


 湯浴みまで済ませたトリシャと違って旅装すら解いていないヘルマンは、心底申し訳なさそうにそう告げてきた。


「それは、かまいませんが……」


 何か事情でもあるのかと首を傾げれば、ヘルマンはそっと顔を逸らせた。


「じ、じつは、その……、そう! ダイニングの改修がまだ終わっていなかったんです! あなたがいらっしゃるまでに工事を済ませるはずだったのですが、トラブルがあったようで工期が延びてしまいまして。ですのでしばらくはお部屋でお願いしたいのです」

「まぁ! そうした事情ですのね。わかりました。それではわたくしはこの部屋でお待ちしていればいいのかしら」

「そうですね。メイドに毎食運ばせるようにします」

「ヘルマン様はどうなさいますの?」

「私は執務室で適当に……。忙しい時期はよくそうしていますので」


 またしてもヘルマンの仕事人間発言だ。家族の食卓と健康をとりわけ大切に思ってきたトリシャは、ここは譲れないと声をあげてみることにした。


「お忙しいときは致し方ないこともあるとは思いますが、お食事はきちんととられるべきですわ。それにわたくし、ひとりでいただくのは少し……寂しく感じてしまいます」


 部屋の準備や湯浴みなどの手配を見るに、使用人たちが頑張ってくれていることは十分に伝わってきたが、何せ輿入れしてきたばかりの身でヘルマンしか頼る相手がいない。


 ヘルマンは道中もトリシャのとりとめのない話に対して煩わしいといった反応を見せず、穏やかに耳を傾けてくれていた。そんな彼との食事が、すでにトリシャにとってはかけがえのないものになりつつあった。


 とはいえ彼は領地でも忙しく立ち働いていると聞いている。さすがに我儘が過ぎただろうかと申し訳なく見上げれば、ヘルマンは顔を逸らしたまま口元を手で押さえ「ぐふっ」と咳き込んだ。


「わわわわわかりました。本日の夕食は私も同席させていただきます」

「本日と言わずぜひ毎日お願いしたいですわ!」

「どっ、どっ、努力いたします」


 準備があるので失礼と言い置いた彼は、そのまま踵を返して廊下を戻っていった。立ち去る彼の手と足がなぜか一緒に動いて奇妙な歩行になっている。


 不思議な歩き方をなさるのねと首を傾げて見送った後、はっと思い出した。


「いけない、私ったら。お茶のお礼と食器の返却方法を聞き忘れてしまったわ」


 とはいえ夕食もこちらに運んでもらえるとのことだから、しばらく部屋で預かっていても問題はないだろう。お礼も後で伝えることにしようと、そっと扉を閉めた。





 その後は実家から運び込んだ荷物の整理をしながら過ごし、とうとう夕食の時間になった。


 服装に悩んだ末、輿入れのためにと父が新調してくれたデイドレスを着用した。貴族令嬢がちょっとした街歩きに使えそうなタイプの、かしこまり過ぎてはいないが簡素でもない、つまりは場面を選ばず着回しが抜群に良さそうな一着だ。


 夫婦になって初めて自宅で迎える晩餐である。部屋を訪れたヘルマンも、上着こそないが道中は省いていたクラバットを結んでおり、この格好が正解だったと安堵した。


「トリシャ嬢、お待たせしました」


 挨拶をする彼の後ろには、ワゴンを押したメイドが控えていた。その姿に見覚えがあり、トリシャは「あら」と声を上げた。


「あなたはカミラだったわね」

「は、はい!」


 先ほどひとりだけと紹介された、屋敷で一番長く勤めているという女性だ。


 部屋に二人を招き入れながら、トリシャは嬉しげに話しかけた。


「今日のお料理はあなたのものなのかしら」

「は、はい! その、お口にあいますかどうか……」

「もしかして先ほどのぶどうのケーキもあなたが焼いたものだった? とっても美味しかったわ。生地がほどよくしっとりとしていて、ぶどうの風味を損なわない程度に甘さもあって……とにかくバランスがよくて感動してしまったわ!」


 ノーマン家では果物は贅沢品で、領地で多く採れるオレンジしか口にする機会はなかった。ぶどうを食べたのは随分久しぶりだ。


 トリシャの感激にカミラは目を丸くした後、「あ、ありがとうございます」と消え入るように礼を述べた。


「夕食の給仕を彼女にお願いしたんです。カミラ、トリシャ嬢に今日のメニューの説明をしてあげてくれないか」

「い、いえ! 私なんぞからはとても! ヘルマン様こそお願いいたします」

「あら、わたくし、カミラのお話も聞いてみたいわ」

「いや、その……へ、ヘルマン様!」


 なぜか給仕中の手まで震わせながら、カミラが泣きそうな声を上げた。ヘルマンは軽く息をつきながら説明を変わった。


「仕方ない、私がやろう。今日の前菜はにんじんとレタスのサラダです。ドレッシングには……えっと、なんだったかな」


 ヘルマンが言葉に詰まれば、カミラが彼の耳元に顔を寄せて何やら呟いた。


「おぉ、そうだった。普通のドレッシングですが木の実をくだいたものが入っていてアクセントになっています。これは領地の森で採れたものですね。それからスープはかぼちゃを濾したもので、メインは……これは豚肉かな?」


 給仕された皿を見て悩むヘルマンに、顔色を変えたカミラが再び耳打ちする。


「失礼、鹿肉でした。猟師のハリーがわざわざ獲ってきてくれたものだそうです。えっとソースはデミグラス……?」


 またしてもカミラの耳打ちを受けて「ベリーソースだった、そうだった」とヘルマンが焦ったように答える。その後デザートのプリンについてまでカミラの助けを受けながらヘルマンが説明しきった。


(とてもわかりやすかったけれど、どう見てもカミラが直接話した方が早そうよね?)


 道中も薄々思っていたが、ヘルマンは好き嫌いなくなんでも普通に食べる分、食に対する知識はそれほど多くなさそうだ。トリシャの父も豚肉と鶏肉の違いすらわからなかったので、男の人というのはそういうものなのかもしれない。


「以上が今日のメニューです。すみません、我が家ではコース料理のような提供はできなくて、こんなふうに一度に並べることになりますが」

「大丈夫ですわ。実は王都の我が家もこのような形でしたの。こうしていろんなお料理を一度に目にできて、どれからいただこうかと楽しみが増します。ぜひこれからも続けていただきたいですわ」

「そう言っていただけて助かります。では、温かいうちにいただきましょうか」

「はい!」


 そうしてヘルマンとの夕食が始まった傍で、カミラは深く頭を下げつつ、先ほどのお茶とデザートのトレイを回収して出ていった。


「カミラはあまりおしゃべりが好きではないのでしょうか」

「いや、そんなことはないですよ。普段からやれ身なりをどうしろだのもうちょっとしゃきっとしろだの、かなり口うるさい方です」

「そうなのですか? でも……」


 今ほどは一言でも話すのが気苦労とばかりに、すべてがヘルマンを通じた伝言ゲームだった。そのことを思い出して首を傾げそうになったが、一口掬ったスープの感動的な味にたちまちかき消されてしまった。


「まぁ、このかぼちゃのスープ、とってもお味がいいですわ!」

「ありがとうございます。うちで採れたかぼちゃを使っているんですよ。今年は秋野菜が大豊作だったんです。特にかぼちゃは味も大きさも格段に良くなりました。昨年、おもいきって王都から技術者を招いて土壌改革に取り組んだ成果です」


 食べながらヘルマンはここ数年で取り組んできた農業改革について説明してくれた。彼が領地を真面目に運営している姿が目に浮かぶようだった。トリシャにはその手の経験も知識もないが、跡取りである兄が年に一度の納税の時期に王都に来て、父にあれこれ相談している様子は何度も目にしてきた。もし誰かを雇って完全に人任せにしているのなら、このような詳細な話はできないだろう。


 いつもなら美味しい物に目がなく、感動がすぐに口を突いて出るトリシャだが、この日は初めて目にする饒舌な夫の姿に、いつもとは違った楽しさを感じていた。


 ヘルマンの話は、食後のタイミングでカミラがお茶を持ってきてくれたときまで続いた。長くひとりで話していたことに気づいた彼は慌てて頭を下げた。


「失礼しました! 王都のご令嬢にこのようなつまらない話を、私は……」

「いいえ、とても興味深かったですわ。久々に故郷の兄のことを思い出しました。ヘルマン様はきっと兄と話が合いそうです」


 慌ただしい結婚式のために挨拶程度しか時間がとれなかった二人だが、もともとヘルマンと兄は一歳違いだ。通っていた学校が違うので面識はないものの、同じように農業が主産業の領地を取り仕切っていることもあり、話は弾みそうだ。


 静かにお茶を淹れてくれるカミラにも夕食の礼を伝えれば、恐縮したように小さくなった。温かなお茶をいただいていると、ヘルマンが明日の予定について相談してきた。


「実は今、うちの領は冬支度の真っ最中でして。そのため私も朝早くから手伝いに出ねばなりません。昼も夜も遅くなると思いますので、申し訳ないのですが、当面食事に付き合えないと思います」

「リドル領は雪深い土地だとは聞いておりましたが、冬支度、ですか? どんなことをなさいますの?」


 トリシャの実家であるノーマン領は温暖な地域で、冬場でも雪が降ることは滅多にない。亡くなった母の実家はりんごが名産であり、冬場は雪が深くなるところだった。ただしまだ裕福だった子どもの頃に一度滞在したことがあるだけで、どんな暮らしをしていたかまでは知らない。


「一番大切なのは食糧の確保です。それと薪の備蓄ですね。どの家でも最低二ヶ月分の食糧と薪を準備するよう指示しています。加えてうちは万が一に備えて、その倍を備えることにしています」

「冬場はお野菜などは採れませんよね。それに買い物にも気軽には行けませんが、具体的にどうなさるのですか?」

「すでに麦の収穫は終わっていますので、雪が降る前にすべて挽いてしまいます。それから家畜を一定数処分して、ハムやベーコンなどの燻製肉にするんです。人手が必要なので、領民総出で数日掛りで行います。猟に出られる者は山に入って獲物を狩ってきますし、子どもたちは木の実を集めに森へ入ります。ジャムやピクルスなどの保存食作りは女性たちが夏頃から取り組んでくれていますので、在庫分を除いた配給の計画を立てるのが私の仕事です」

「それは……ものすごく大変そうですね」


 思っていた以上の仕事量にトリシャは目を丸くした。ノーマン領でも粉挽きや家畜の燻製肉作りなどは普通に行われているが、ここまで大掛かりではない。トリシャ本人は一年のほとんどを王都で過ごしており、冬であっても市場にさえ出向けば何かしらの食材を手にいれることができていた。ゆえに冬に向けての準備というのは未経験だ。


「ここは冬が厳しい土地ですので、雪嵐が続くと家に数週間閉じ込められるということもしばしばなのです。そのため備えは十分すぎるということはないのですよ。夏から秋にかけては皆、朝から晩どころか夜明け前から夜中まで働いてくれています。本当に頭が下がる思いです」


 聞けばそれらの仕事はすべて、雪が降り出す前に終えなければならないのだという。目が回る忙しさの中、トリシャとの結婚式のために二週間近くも領地を留守にしていた分、ヘルマンの仕事も溜まりに溜まっているのだろうと推察できた。


「わたくし、そんな事情があったなんて知りもせず……。あの、何かお手伝いできることはありませんか? 私保存食作りとかなら……」


 自分が台所仕事を普通にする令嬢だということを一度は隠そうとしたトリシャだったが、ここまで忙しそうならばもう打ち明けて手伝いを申し出た方がいいのではないかと、そう口を開きかけた。


 だがヘルマンは慌てたように首を振った。


「以前も申し上げたとおり、トリシャ嬢にそんなことをさせるつもりはありません。それに燻製肉を作る過程などは、女性にお見せできるものではありませんので。まぁ妹などは「肉祭り!」と笑いながら率先してナタを振るっていたり……ん、んっ、ごほん! いえ、とにかくですね、こちらは間に合っていますので、どうぞお気遣いなく……あぁ、そうだ」


 ふとヘルマンが何かを思い出したかのように頭を掻いた。


「もしトリシャ嬢にお時間がおありでしたら、私の代わりに結婚式のお礼状を出していただけないでしょうか」


 異例のスピード結婚ということもあってそれほど大掛かりな式ではなかったが、王命による結婚ということもあり、方々からお祝いのメッセージや品物が届いていた。トリシャに直に届いたものは王都を離れる前にすべて返信済みだったが、冬支度の準備に忙しくしていたヘルマンはすべて手付かずで残っているらしい。


 いかにも夫人らしい仕事に、トリシャは喜んで声を上げた。


「もちろんですわ! お任せくださいな!」

「本当に助かります。祝いの手紙と贈り物は執務室に置いてあるんですが、ほぼ未開封のままでして。部屋には私が普段使いしている机の他に、もうひとつ机がありますのでそちらをご利用ください。どういう関係の方から届いたのかはリストにまとめてありますから、返信の参考にしていただけると思います。筆記具と便箋も準備しておきますので」

「あの、便箋や封筒は指定の物がおありでしょうか? もしそうでないなら、わたくしが持参した物を使っても?」


 万年貧乏で趣味すらケチってきたトリシャだったが、唯一自分に許していた贅沢が知人に手紙を出すことだった。母の実家が良質な紙作りを産業としており、その縁で便箋やカード、封筒といったものが手に入りやすかったのだ。


 ヘルマンによると子爵家御用達の物は特にないとのこと。トリシャもトリシャでお気に入りの便箋で手紙が出せるのは嬉しいし、手紙を書くことも大好きだ。


 何より自分にも出来ることがあると示してもらえたことが嬉しかった。本当は領地の冬支度についても見学して学んでおきたいところだが、ヘルマン不在による皺寄せも大きい中、足手纏いにしかならない可能性もある。


 この先ずっとここで何度も冬を迎えることになるのだ。本格的な学びは来年からでも遅くないだろう。


「お任せくださいな。わたくし、立派なお礼状を書いてみせますわ!」


 拳を作って宣言するトリシャを前に、またしてもヘルマンは顔を逸らして口元を手で覆う仕草をした。旅の最中からしばしば目にしてきた光景は、きっとこの人の癖なのだろう。


 トリシャは心の中にまっさらな便箋を広げる。そこに夫となった人の特徴を書き留めた。


 ——ヘルマン様に髪の毛はある。色はアッシュブロンド。普段は前髪を下ろしている。特別な場面では後ろに流していて、どちらも素敵。

 ——ヘルマン様の顎はすっきりと整っており、お腹も締まっている。

 ——ヘルマン様は甘い物がそれほどお好きではない。紅茶よりもたぶんコーヒー派。

 ——ヘルマン様は仕事人間、真面目な働き者。


 そして——ヘルマン様は誰かと話しているとき、顔を逸らして口元を隠す癖がある。ときどき赤い耳がひくりと動いて、それが……ちょっとかわいい。


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