空が白み始める頃、いつもの週間でぱちりと目を覚ましたトリシャは、広いベッドの真ん中でしばし思考した。
(初夜……なかったわね)
むくりと起き上がって目を向けた先には、隣へと通じるはずの扉。「絶対に向こうから開くことはありません」と言い切ったヘルマンの言葉通り、あの扉が夜半になっても音を立てることはなかったし、寝室のメインの扉が開かれることもなかった。
温かいベッドから抜け出せば腕がぶるりと震えた。リドル領の冬の訪れが早いというのは本当のようで、まだ十月だというのに夜着一枚では肌寒かった。かといって暖炉に火を入れるほどでもないという、微妙な温度だ。
何か羽織るものがほしい。それかもう身支度をしてしまおうか。どちらにせよ一度居室に戻ろうと、自分の部屋への扉を押した。
薄暗い中そろそろとクローゼットを開けてみると、昨日自分が詰め込んだドレスの下に引き出しがあることに気がついた。中を見れば暖かそうなブランケットとガウンが入っていた。
「よかった! これをお借りしましょう」
白い女性物のガウンに袖を通せば十分暖かくてほっとした。
そのままガラス窓に近づいたトリシャは重たいカーテンをさっと開けた。薄暗かった部屋に朝の低い光が差し込んで、今日もよい天気であることを知らせてくれる。昨日も思ったがこの部屋はずいぶん日当たりがいい。建物が高台に建っている影響かもしれない。
ガウンと朝日のおかげで程よく身体が温まってくると、今度はなんだかむずむずしてきた。いつもならとっくに身支度をして台所に向かっているか、庭で野菜の世話をしている時間だ。
(ちょっとだけ外に出てみようかしら)
考えたのはほんの一瞬、すぐに身体が動いてガラス窓に手をかけた。窓を押せば広々としたバルコニー。段差はなく、簡単に降りられそうだ。
スリッパのままそっと足を運んでバルコニーの端まで向かう。そこから一望できる景色に思わず声が出た。
「なんて見晴らしがいいの……!」
王都の混み合った風景とは違って、バルコニーから見下ろす景色には遮る物が何もなかった。
見渡す景色の中にあるのは収穫を終えたばかりの麦畑。ぽつぽつと固まって存在する集落。裸の土地の間を縫うように走るのは整備された農道だ。
昨晩ヘルマンが饒舌に語ってくれたことを思い出した。王都から技術者を招いて土壌の改革を行うのと同時に、主産業である麦畑の区画整理も行ったのだと。おかげで収穫後の出荷効率が上がり、例年より早く作業が進んでいると嬉しそうに語っていた。この整った風景は彼の指導で成し得たものなのだろう。
畑の端々にはすでに働く人の姿があった。麦畑ではロールを作る作業が進んでおり、細々と動いている様子が見える。畑を囲むように広がる高地では、放牧された牛がのんびり草を喰んでいるようだった。バターやクリームなどの加工品は冬籠りのための貴重な栄養源であり、料理にも欠かせないものだ。
その高台の麓では、大きな風車がゆったりと風をはらんで悠々と羽を回していた。雪が降る前に収穫した麦をすべて挽いてしまわなければならないと言ったヘルマンの言葉が蘇る。
領民たちは朝から夜までと言わず、日の出前から夜中まで働いているという話は本当のようだ。稜線から半分ほど顔を覗かせた太陽の光が少しずつ伸びて大地を朝の色に染めていく中、人々の営みもまた朝日の色を反射して輝いている。
「ここがリドル領。ここが……わたくしが嫁いできたところ」
階下から吹き上げる風がトリシャの髪を弄んだ。十月末の早朝の空気はガウンを着込んでいても冷たくて、吐く息にも白さが混じる。
それでもこの美しさに、トリシャは寒さを忘れて見入った。
誰かが立ち働く上にこの屋敷が建っており、彼らの上に自分たちがいる。
今までも伯爵令嬢だったトリシャはその恩恵に十分あずかってきた。けれど今この景色を眺めていると、ここにある生きとし生けるものすべてがたまらなく愛しく思えた。この地に一緒に住んでくれる妻を求めたヘルマンの気持ちが、深く染み入ってくる。
(滅多に帰れなかったノーマン領も、わたくしの大切な場所だった。でもリドル領は……きっともっと特別な場所になるんだわ)
この風景の中にもうヘルマンも混ざっているのだろうか。もし許されるなら、自分も早くこの中に入ってみたい——。
さわさわと揺れる朝の風の中、トリシャはおもいきり深呼吸した。広大な麦畑の香ばしい空気を胸いっぱいに吸い込めば、美しい朝焼けがまた一層輝くのを感じた。
部屋に戻ったトリシャが頃合いを見て階下に降りてみようかと考えていたとき。部屋の扉が控えめにノックされた。
「はい」
反射的に返事をしながら、ふと昨日のお茶の時間のことを思い出す。こちらが返事しても向こうから入ってくることはなく、自分から扉を開けにいったのだった。
昨日同様、向こうから扉が開くことはなく、声がかかる様子もない。
今度こそ迷うことなく自ら扉を開けた。案の定、そこに人の姿はない。けれど、扉の横にある小さめのテーブルにピッチャーと洗面器、それにタオルがのったトレイが置いてあった。
顔を上げて階段の方を見れば、やはり今日も誰かの気配がそこにある。寝起きの自分に気遣って、こちらの姿を見ないようにしてくれているのかもしれない。
「おはよう。こちら、使わせていただくわね。朝早くからありがとう」
そう声をかけてから洗面用具を受け取れば、廊下の奥で誰かが頭を下げる気配を感じた。
洗面用具だけでなく朝食まで使用人と顔を合わせないまま受け取ったトリシャは、食後に部屋を出て階下に降りてみることにした。何せ今日はヘルマンに頼まれた、結婚式のお礼状書きの仕事がある。執務室のだいたいの場所は口頭で聞いていたが、広いお屋敷だ。迷わずたどり着ける自信がない。
階段をゆっくり降りる自分の手には食器がある。ついでに厨房に寄って食器を返却がてら、朝食のお礼を言おうと思った。
(今朝の白パンの味わい深さといったらなかったわ。こんなにふわふわでとろけるパンを食べたのは初めてよ)
できればレシピを教わって、実家のメイドのドーシャに教えてあげたい——そう思いながら階段を降り切ったちょうどのタイミングで、ひとりのメイドに出くわした。
年はトリシャと同じくらいか、少し下だろうか。日に焼けた健康的に肌色に赤毛が印象的なかわいらしい女性だ。掃除に向かうところだったのか、手にはバケツとモップがある。
トリシャが声をかけるより先にメイドと目が合った。すると驚いたメイドが掃除道具を取り落としてしまった。
ガシャンという音が玄関ホールに響き渡る。
「大丈夫!?」
驚いて駆け寄るも、手には食器が載ったトレイを抱えたままだ。落ちた掃除道具を拾ってやることもできない。幸いバケツにはまだ水が張られていなかったようで大惨事は免れたが、メイドは顔面蒼白で震えながらトリシャをじっと見ていた。
「ミーナ! いったいどうしたん……えっ、あ、あなた様は!」
音に驚いて奥から飛び出してきたのは、厨房を任されているカミラだった。
「まぁ、カミラ、おはよう。あのね……」
「も、申し訳ありません! ミーナが粗相をっ!」
丸い身体を揺すりながら駆け寄ってきたカミラは深く頭を下げた後、隣で棒立ちになっているミーナと呼ばれたメイドの袖を引っ張った。はっと意識を取り戻したかのようにミーナもまた慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません! 申し訳ありません!」
「いえっ、彼女は何も粗相はしていないわ。私がちょっと驚かせてしまったみたいで」
謝罪を繰り返すカミラと、無言で腰を折るミーナにそう声をかける。そうする間にも騒動を聞きつけたのかあちこちから使用人たちが集まってきた。けれどこの光景を前に誰もが固まったように動きを止めて、玄関ホールに立つトリシャたちを無言で見つめる。
(いったいどうしたっていうの? わたくし、何かしてしまった?)
なぜこの二人がここまで必死に頭を下げているのかわからないが、ミーナの行動を見るに自分が何か驚かせることをしてしまったのだろう。
そこまで考えたとき、ふと自分の手元にあるものについて思い出した。
(もしかして、こうして食器を運んできたのがいけなかった……?)
実家では食器運びどころか洗うことまで普通にしていたので思い至らなかったが、冷静に考えれば貴族夫人が自分の食器を片付けるというのは不自然だ。
この古いながらも手が行き届いた大きなお屋敷で、主人の奥方である自分が食器を持ってうろうろしている。それが一介のメイドにとって衝撃だったのではと考えると、目の前で繰り広げられた騒動に納得がいった。
「ごめんなさい、私、自分で食器を片付けようとしただけで……」
手元の大変美味しくいただいた朝食のトレイに目を落とせば、はっと顔を上げたカミラが奪い取るようにトレイに手を伸ばした。
「大変失礼をいたしました! わ、私たちの片付けが間に合わず……」
「いえ、そうではないの。わたくしが……」
「ただちに片付けます。二度とあなた様のお手を煩わせるようなことはいたしませんので、どうぞお許しくださいませ!」
トレイを引き上げようと力を込めるカミラが悲壮な声でそう叫んだとき。
「どうした? 玄関で何をそんなに謝っているんだ?」
外から聞き慣れた声が入ってきた。振り返ると、シャツにトラウザーズ、簡易のベストといった軽装のヘルマンが眉根を寄せていた。
「ヘルマン様!」
「トリシャ嬢!? こんな朝早くからどうされたのですか?」
一点目を丸くしたヘルマンの視界に映っているのは——食器のトレイに手を伸ばすカミラとただただ深く頭を下げるミーナ。用心深く様子を伺う使用人たち。転がった掃除道具。
そんな中場違いに佇みながら、まるでカミラにトレイを押し付けているかのような、トリシャの姿。
深々と頭を下げるミーナと押し問答をするかのようなトリシャたちを見比べたヘルマンは、整った眉根を再び寄せた。