麗しきクレア妃殿下へ
こうしてリドル領からクレア様にお手紙を差し上げることができる幸運を、神と尊き王家の皆様に感謝申し上げます。
昨日、無事にリドル領に到着いたしました。使用人の皆様の丁寧なもてなしと心尽くしに感銘を受けております。
ヘルマン様は大変にお忙しい中、到着した日の晩餐におつきあいくださいました。晩餐のメインに鹿肉のステーキを頂いたのですが、とても美味しかったです。以前食べたときは苦味や臭みが気になったものですが、こちらのお肉は癖がなく、ベリーソースも絶品でした。鹿肉とベリーソース、意外な組み合わせですがぴったりですね。
私のために用意していただいたお部屋は、お母様のお部屋だと伺いました。大切な思い出が詰まったお部屋を改修いただいたそうで、感謝に堪えません。ヘルマン様とクレア様のお母様のことも思いながら、大切に使わせていただきます。
それから主寝室の壁にかかっていたタペストリーはとても見事でした。あちらはクレア様のお婆様の手作りだそうですね。リドル領の四季を写したものだとか。
今は秋の終わりですが、ここで迎えるそのほかの季節も今から楽しみです。
ヘルマン様は冬支度の準備にお忙しいらしく、今朝も日の出とともに出立なさったそうです。毎年のことで慣れているとはおっしゃっていましたが、お身体のことがとても心配です。よろしければクレア様からも労りの言葉をかけていただけますと、ヘルマン様も自重くださるかもしれません。
私も早くこちらに慣れて、ヘルマン様や使用人の皆様のご迷惑にならないよう努めたいと思っています。
王都はまだ秋の最中でしょうか。どうかクレア様もご自愛くださいませ。
トリシャ・リドル
リンドウの花をイメージしたブルーの便箋に文字を綴り、水色の封筒に入れて封をする。書き上げた手紙は執務室の郵便箱に入れておけば、三日に一度やってくる郵便夫に渡してもらえるそうだ。
昨日ヘルマンに頼まれた通り、トリシャは彼の執務室を借りて結婚式のお礼状をしたためることにした。執務室の隅にはお礼状や贈り物が積まれており、机には送り主のリストも準備してあった。すべてを開封し、間違いがないかひとつずつチェクして、いざ礼状を書こうとしたとき、結婚前に王城でヘルマンの妹クレア妃に謁見した際のことを思い出した。
クレア妃とは初対面であったものの、妃殿下の気さくな人柄もあってあっという間に打ち解けることができたのだが、そんな彼女からリドル領に到着したらぜひ手紙を送ってほしいと頼まれた。第三王子妃と文通だなんて畏れ多いことだが、よく考えればトリシャはクレアと義理の姉妹になったのだ。この僥倖に感謝しつつ、クレアがもう送らなくてもいいと言うまでは続けさせてもらおうと思った。
妃殿下との約束事だ。まずは彼女に感謝を伝えるべきだろう。そう思ってペンを取った。王子妃に対していったい何を書けばよいものかと一瞬悩んだが、リドル領やヘルマンについて感じたことをなんでも——不満や疑問に思うことも遠慮なく書いてほしいとまで言ってくれたクレアの心遣いを思い出し、素直な感想を書くことにした。
リンドウの花の便箋を選んだのは、クレアのイメージにぴったりだったからだ。深い青はクレアの清廉な瞳を思い出させる。彼女の前に出て彼女と話していると、あるがままの自分を暴かれてしまうような気持ちになる。それは決してマイナスな意味ではなく、清々しいほど強い方の前で隠し事などできるはずもないという、そんな印象だ。
(相手の気持ちや立場を推し測って先回りして行動するあたりは、ヘルマン様と似ているのかもしれないわ)
クレアのことを考えているとつい夫のことまで思い出してしまい、少しだけ落ち込んだ。今朝方、玄関でなぜかカミラたちに盛大に謝罪されることになってしまった自分をこの部屋まで案内してくれたのは、所用で少しだけ屋敷に戻ってきた彼だった。
善意で食器を片付けようとしたことがやってはいけないことだったのかと彼に確認しようとしたのだが、なぜかヘルマンからも「失礼があったようで申し訳ない」とひたすら謝られてしまい、結局うやむやのまま再び外出してしまった。
忙しい時期だと聞いている以上、あまり彼を煩わせたくはない。残された自分に今できることは、割り振られた仕事を全うすることくらいだ。
せめて言われたことは問題なく出来ることを示したいと、意識を新たに作業に取り掛かることにした。幸い手紙を書くのは好きなこともあり、筆もさくさくと進んでいく。ふと気づけば時計は十二時になろうとしていた。
ちょうどそのタイミングで、執務室の扉をノックする音が響いた。
(……来たわね)
扉の向こうにいるのはおそらく使用人の誰か。ヘルマンは東の地区の見回りがあるとのことで馬で出かけており、戻りは夕方になると聞いている。
深く息をした後、トリシャは「はい」と返事をした。案の定扉が向こうから開かれることも、声が発せられることもない。
さすがに数回経験すれば慣れるというもの。自ら扉を開けてみれば、誰もいない廊下に小さなワゴンが置かれていた。
廊下の先には誰かがこちらを伺うような気配。
トリシャはなるべく威圧的にならないよう喉をならしながら、少し高めのトーンで話しかけた。
「お昼ご飯を持ってきてくれたのね、ありがとう。執務室でいただくわ」
廊下の先に隠れている誰かが詰めていた息を緩める様子が窺えた。自分の声掛けの仕方は正しかったようだ。
そのまま執務室に戻り、レターセットを片付けた机でお昼をいただいた。昼食は魚のグリルだ。この辺りには海がないから川魚かしらと当たりをつける。かかっているトマトソースの旨味も絶品だ。
美味しく食べて一息ついたタイミングで、またしても扉がノックされる。きっと食後のお茶だろう。誰も給仕をしていないのに自分の食事の進み具合を把握し、かつ不自然でない間合いでお茶が出てくるのが不思議でならない。さすがは王子妃を輩出した家だ。使用人のレベルも相当高いと見える。
きっと扉を開けても誰もおらず、ワゴンにお茶のセットが載っているだけだろう。それをひきとって、代わりに食器をそこに返却しておく。使用人とは顔を合わせず、無言でこのやりとりをするのがリドル家の規則のようだ。
不思議な風習に首を傾げたくもなったが、婚家の慣わしには従うよう、父からも助言があった。お茶のトレイを受け取ってから室内に戻り、食膳を取り上げようとしたとき、ふと目についたものがあった。
(そうだわ! これでお礼を伝えればいいのよ)
トレイを一旦テーブルに置いたトリシャは、目についたもの——リンドウの絵柄のついたメッセージカードを手に取り、急いでペンを走らせた。
『——昼食をありがとう。白身魚の風味とトマトソースが絶品でした』
それを食器の隙間に忍び込ませ、食膳を外に出した。待っている誰かさんにも再度の礼を述べてから、そっと部屋の扉を閉めた。
その日の夜、無理を押して早く戻ってきてくれたヘルマンと一緒に、トリシャの部屋で再び晩餐をとることができた。
「あれ? おかしいな……。今日の夕食のメニューはチキンだと聞いていたのですが、魚に変更されていますね」
二人分の食膳を運んできた彼が、メイン料理の皿を見て首を傾げる。お皿には素揚げした白身魚にトマトソースがたっぷりと添えられていた。
「まぁいいか。トリシャ嬢、魚はお好きですか? 今頃の川魚は脂がのっていてなかなかのお味ですよ」
「えぇ、もちろん! 白身魚もトマトソースも大好きですわ!」
昼間と大差ないメニューが出されたことを知って、思わず満面の笑みを浮かべる。
自分と顔を合わせようとせず、ひどく恐縮しているかに見える使用人たち。まだ慣れたとは言えないものの、リンドウに託したメッセージはちゃんと彼らに届いたようだ。
ナイフで切り分けた魚をトマトソースにひたす。そのまま口に運べば、ぴりりとした香辛料がいいアクセントになっていてとても美味しい。
(魚とトマトソースが好物だと思われてしまったかもしれないわね)
それでもこうして彼らとの距離を少しでも縮められたのなら、小さな誤解も嬉しいアクセントになる。
その日の夕食にももちろんメッセージを残した。
『——トマトソースのレシピを今度教えてほしいです。実家の父にも食べさせてあげたいほどよ』
二日後、なぜかヘルマンの手で清書されたソースのレシピが届けられ、嬉しくなったトリシャは実家への手紙にいそいそと同封するのだった。