トリシャがお礼状を書き始めて三日目の朝。いつものように部屋で朝食をとった後、執務室に移動する前にバルコニーに出てみることにした。昨晩ヘルマンに「数日のうちに雪が降るだろう」と告げられ、リドル領の残り短い秋の様子をこの目で見ておきたいと思ったのだ。礼状書きの仕事はずいぶん捗って、今日中にはすべて終えられる算段がついていた。いつもより少しのんびりしても問題はないだろう。
窓の外は冷たい空気が張り詰めており、秋物のドレス一枚ではかなり寒かった。雪が近いとの言葉通り、嫁いできた日よりも一層寒さが募っていることを肌で感じた。
日も高くなりつつある大地の中では、変わらず領民たちが作業に勤しんでいる。
目を凝らしてみると、少し離れた麦畑へと続く農道にヘルマンの姿があった。領民たちが作業する様子を覗き込んでいる。やがて上着を脱いだ彼は自分もスコップを借りて農道の脇へと降りていった。領民たちと一緒になって土や落ち葉を掻き出していく。いったい何をしているのだろう。雪が降る前に水路の点検を急ピッチで進めていると聞いていたが、その作業だろうか。王都暮らしが長いトリシャには農作業などほとんどわからないが、それでもヘルマンが携わっている姿を見ることで、その光景がなんだか身近に感じられた。
(領民たちと一緒になって働いているというのは本当だったのね)
結婚前に父から聞いた彼の人となりを思い出す。作業しながら笑い声まで上がっている様子を見るに、ヘルマンと領民たちの距離はずいぶん近そうだ。
「でも、それならわたくしだって、みんなと同じことをしてもいいはずよね」
領主自らスコップを持って働くことが普通なら、領主夫人が台所に立つことだって普通ではないのか。お礼状を書くことも大切な仕事だから異存はまったくないのだが、ほかの作業だってやってみたいと思う。
残念ながら未だそれをヘルマンに相談する時間はとれていない。彼と食事がともにできるのは二日に一度がせいぜい。夕食よりも帰宅が遅くなった日は、就寝前のトリシャを訪ねてきて、一日代わりなかったか、必要なものはないかなど御用聞をしてくれるのが日課だ。
とても親切にしてもらっていると思う。けれど。
(……寝室はまだ別々のままなのよね)
未だ初夜がなされていないことに引っ掛かりを覚えるも、さすがにそれを自分から尋ねる勇気はない。戻ってからも執務室で仕事をしているらしい彼にこれ以上の負担をかけたくない。
ヘルマンだけでなく、使用人たちも食事や部屋の掃除などとても気にかけてくれている。相変わらず顔を合わせようとはしない風習にも少しは慣れてきた。それでも。
こんなによくしてもらっているのに不満を感じてしまうのは、我儘なのだろうか——。
吐いた息に白いものが混ざるのをなんとはなしに見ていると、すぐ近くでガサリと物音がした。
驚いて音がした方を振り向くと、一匹の子猫がすたっとベランダに降り立った。
「まぁ! 猫ちゃん!」
灰色の目を丸くしたトリシャはしゃがみこんで子猫と向かい合った。思いがけないこの珍客は、どうやらバルコニーの手すりを伝ってやってきたらしい。黒い毛並みに足先と喉元だけが白いという独特な柄で、まるでタキシードを着ているようだ。
「うふふ、ずいぶんとおしゃれさんなのね。いったいどこから来たの、子猫ちゃん?」
そっと手を差し出すと子猫の方からするりと顔を寄せてきた。人馴れをしているようだ。そのままベランダに膝をつけば、子猫が勢いよくトリシャの膝の上に飛びついた。
「なんてかわいいの! でもあなた、ずいぶん冷えているわね。一緒にお部屋に入る?」
自分も少し長居をしすぎたようで、足元から立ち上る寒さにぶるりと身体が震えた。抱き上げた子猫を二、三度撫でてから移動しようとすれば、子猫は部屋に入る直前、するりとトリシャの腕から逃げ出した。
「あ……っ」
声を上げるも、黒猫はすたん、とバルコニーの手すりに飛び乗り、「にゃあ」と一声鳴いた後、尻尾を揺らしながら隣の手すりへと移動していった。行き先が気になって身を乗り出してみると、端の部屋まで行った後、目の前の木の枝に向かってジャンプし、するすると地面まで降りていった。
「うふふ。ずいぶんかわいいお客様だったわね。もしかしてここで飼っている猫かしら。あとでヘルマン様に聞いてみましょう」
まるで「ちょっと挨拶に寄っただけだよ」と言わんばかりのかわいらしい珍客の登場に、沈んでいたトリシャの胸も少しだけ弾むのだった。
執務室に移動して最後のお礼状をしたため終えたトリシャは、おもいきり伸びをした。凝り固まった背中がぽきりと音を立てて気持ちがいい。
下位貴族の家とはいえ、王家と縁戚となったリドル家だ。贈り物やお祝いのメッセージをすべて書き終えるのに三日も要してしまった。レターセットとメッセージカードはたっぷり持参したので在庫はあるが、しばらくペンは持ちたくない気分だ。
時計を見ればまだ夕方の四時。夕食には早いし、ヘルマンも当分戻ってこないだろう。さて何をしようかとトリシャは考える。せっかく頂いた結婚式の贈り物だ。目録を作って残しておくのもいいかもしれない。いずれ誰かが結婚するとなったとき、どういう物を贈ればいいのか参考にもなりそうだ。
次の仕事についてヘルマンに相談しようと考えながら、ぽきぽきと首肩を回していると、ふと隣へと続く小さな扉が目に映った。
(あちらはきっと仮眠室よね)
自室に戻るのが面倒で執務室の仮眠室を部屋にしていると、初日にヘルマンから説明があったときから、トリシャはその存在が気になっていた。輿入れして以降、主寝室でずっと独り寝の状態が続いている自分だが、それなら夫はどこで眠っているのかとなれば、思い当たるのはこの部屋しかない。
(ちょっとだけ覗いてみようかしら)
謁見行為かとも思ったが、夫が毎晩どこで眠っているのか知るのは妻の権利のはず。
そう思ったトリシャは意を決して仮眠室への扉をそっと押してみた。
広い執務室に反して、その部屋は驚くほど小さいものだった。小さめのベッドにキャビネット、ポールハンガーがひとつだけという簡素さだ。窓もない手狭な部屋だからか、昼間でも薄暗い。
ハンガーには見覚えのある上着と帽子がかかっていた。キャビネットの上には使いかけのカップがひとつ。ほかに家具もないこの部屋で、テーブル代わりに使用しているのだろう。ベッドは長さは十分だが幅が狭い造りで、無造作に畳まれた毛布もずいぶん使い込まれている。
生活感溢れるこの様子に、ヘルマンは間違いなくここで休んでいるのだと察した。
「こんな……寂しいところで」
自分に用意された豪華な居室や主寝室との落差にめまいがしそうだった。窓もなく日が差し込まない部屋では、キャビネットの上のランプだけが唯一の灯りのようだ。少し埃っぽいところを見るに、使用人を入れずに掃除なども自分でやっているのだろうと見当をつける。
冷たさと湿っぽさに思わずぶるりと身体が震えた。隣の執務室と違ってこの部屋には暖炉すらない。ここはただの仮眠室で人を迎え入れる用途はなく、豪華に設える必要はないからだとわかっているが、だからこそこんなところを根城にしていては疲れがとれるはずもない。
今朝方バルコニーから偶然見た彼の姿を思い出す。ただでさえ忙しいスケジュールの中、結婚式のため王都まで往復せざるを得なかったヘルマン。ひとりであれば単騎で数日で行き来できるところを、旅慣れないトリシャに合わせて十日近くかけて馬車でゆっくり移動してくれた。
その皺寄せから、今は目の回る忙しさなのだと理解している。ゆっくり眠ることも、初夜を迎えることも、すべて後回しにしている事情はよくわかっている。けれど。
(こんなところでいつまでもヘルマン様を休ませるわけにはいかないわ。どうにかして主寝室を使っていただく方法はないかしら)
トリシャがいることで主寝室が使えないのであれば、自分が移動すればいい。幸い子爵夫人用の居室には寝心地の良さそうな広いソファもある。
雪が降れば冬籠りの時期となり、忙しさもひと段落すると聞いている。その雪もあと数日で降るだろうとも。
冬支度の最後の追い込みの今だけでもヘルマンに寝室を使ってもらい、自分は自室で休むのでもいい。
自分が一緒にいたらゆっくり休めないだろうから——その事実に、少しだけつきんと胸が疼く。
結婚式を挙げて、輿入れまでしてきたのに、自分はまだ本当の妻になれていない。それは忙しさのせいだと察している。
でも、もしそうでないとしたら? ヘルマンが自分のことを妻にしたくない事情があって、そのために遠ざけられているとしたら? だってこの結婚は王命によるもので、彼が望んで得た縁ではないのだから。
薄暗い部屋で、彼が使っている毛布を手にしながら、そんな仄暗い思いに押しつぶされそうになる。
(……いいえ、ヘルマン様に限って、そんなことないはずよ)
彼が自分にどれだけ気を遣ってくれているか、それはここに来る道中でも、来てからも十分に示してもらっている。だからきっと自分の考えすぎだ。
この部屋の寂しげな雰囲気に呑まれて変なことを考えてしまったのかもしれない。そうに決まっているとかぶりを振りながら、手にした毛布をはたいて丁寧に畳みなおした。
その日の夕食にもヘルマンは間に合わなかった。部屋でひとり食事をとったトリシャの元に彼が訪ねてきたのは、就寝にも近い時間だった。
すでに湯浴みをすませ、夜着の上に暖かいガウンを羽織って出迎えたトリシャは、彼の目の下にくっきりとしたクマが刻まれていることに気がついた。
「ヘルマン様、ずいぶんお疲れの様子ですわ。こんなにクマが……」
「いえ、お気になさらず。おそらく後二、三日の忙しさです。毎年十一月の中旬には雪が降るのですが、今年は少々早まりそうですね。トリシャ嬢も暖かくしてお過ごしください」
「それはもちろん、あの、暖炉に火も入れてもらいましたし、大丈夫ですわ。でもヘルマン様のお部屋は……」
「そうだ、お礼状書きの仕事をありがとうございます。もう全部書き終えてくださったんですね。無理をされたのではありませんか?」
「いいえ、もともと手紙を書くのは好きなので、何も苦ではありませんでした。あぁ、そうだわ。せっかくですので、いただいた贈り物の目録を作っておこうかと思うのです。もしどなたかが結婚なさったとき、贈り物を選ぶ参考にもできそうですから」
「それはいいですね。でも、急いでやる必要はありませんよ。トリシャ嬢のご負担になっていないか心配です」
「わたくしはヘルマン様と違ってゆっくり過ごさせていただいているので大丈夫ですわ。今朝も少し寝坊してしまったくらいですもの。それで、あの、わたくしはどこでも眠れますので……」
「寝坊というほどのことはないでしょう。今朝もバルコニーに立って外を見ていらっしゃいましたよね」
ヘルマンを主寝室で眠らせよう作戦をどうにか成功させようと苦心していたトリシャは、彼の思いがけない発言に思わず目を丸くした。
「うそ……見ていらしたんですか? え? なぜ?」
リドル家の屋敷は丘陵地にあり、領地を見下ろすような立地になっている。上からはよく見下ろせるが、下から見上げるのは難しいはずだ。それに距離もかなりあった。
だがヘルマンは驚く自分を前にして、ふっと笑みを漏らした。
「これでも目はいい方なんです。昔からこれだけは妹にも負けませんでした」
なんということだろう。それでは今朝、トリシャがヘルマンの働きぶりに感動してぼーっと眺めていた姿が丸見えだったということだ。
「そのっ、お恥ずかしいかぎりですわ。まさか見られていたとは思わなくて……っ」
朝食後だったので身支度だけは済ませていたのがまだ幸いだ。何回か寝巻きのまま立ったこともあるのだが、二度としないでおこうと誓う。
恥ずかしさから頬が熱を帯びてくる。暖炉のおかげで部屋が暖かいことも今では災いとなって、なかなか熱が引かない。
いたたまれなさをごまかすかのように、トリシャは早口で捲し立てた。
「その、あと数日で冬になると聞いて、今の間に秋の様子を見ておこうと思ったんですの。そうしたらたまたまヘルマン様が領民の方々といらっしゃるのが見えて……。一緒に作業なさっている姿がとても頼もしいなと思って、あの、領民の方々にも慕われている様子も窺えて! 領主として立派にお勤めを果たしていらっしゃるのが素敵だなと思えたのです!」
自分が何を言っているのかよくわからないくらい緊張していた。熱を冷まそうと両手で頬を覆ってみたものの、手の温度も相俟ってますます全身がほてっていく。なぜだか瞳までうるうると緩んできて……とにかくどうしようもなく恥ずかしかった。
先ほどまでトリシャとの会話を平然と続けていたヘルマンが、いつの間にか押し黙っていた。挙動不審な自分をさすがに呆れたのかと恐る恐る見上げてみれば。
彼はふいっと顔を逸らし、口元を手で押さえるあの仕草をしていた。眼前にさらされた彼の耳がほんのり赤くなっている。
この仕草が彼の癖なのだとトリシャはすでに知っていた。けれどどんな心境でいるのかまでは測れない。
「あの、ごめんなさい。わたくし、何か変なことを……」
言ったか、もしくはしでかしてしまったか。どれが彼にとって不満だったのかはわからないが、この沈黙はそういうことではないのかと、途端に不安が募る。
だがヘルマンは顔を背けたまま「いえ、大丈夫です」と言いながら咳払いした。
「その、私があなたに気づいて眺めていたせいで、領民たちにも気づかれてしまって。領主夫人のお披露目はいつになるのかとせっつかれていたんです。もう雪の季節になるので春になってからだとごまかしたのですが、それでは遅すぎると怒られてしまって。その、大袈裟なことはいらないから領地を回ることくらいできないのかと、とにかくいろいろ……」
「まぁ! それはぜひ! わたくしも領民の皆様にぜひともご挨拶したいですわ!」
思わぬ話の展開に、先ほどまで散々取り乱していたことも忘れてトリシャは声を上げた。
「こちらに来てからずっとお屋敷の中でしか過ごしていませんでしたし、わたくしぜひ領地を見てまわりたいです!」
リドル領の冬は長い。この機会を逃せば、彼らと交流できるのは次の春になってしまうだろう。忙しいヘルマンに頼み事をするのは気が引けるが、彼の後ろをついていくだけのことだ。絶対に邪魔をしないと誓える。
そう切に訴えればヘルマンはくぐもった声を漏らして「わかりました」と答えた。
「では明日誰かに案内……ダメだ、そんなことさせられな……っ。いえ、私がトリシャ嬢をご案内します」
「ありがとうございます! ヘルマン様!」
「その、朝早くなりますが……」
「大丈夫ですわ! 早起きは得意ですの!」
むしろ今だってあまり早く起きすぎては使用人たちにも迷惑だろうと、寝室で半刻ほど本を読みながら朝の支度を待っているほどだ。ヘルマンに合わせて準備することなどなんともない。
明日が楽しみすぎて気がせってしまったトリシャは、「念の為今日は早く寝ますね!」と就寝の挨拶を告げて自ら扉を閉じてしまった。
「嬉しいわ! ヘルマン様とお出かけよ。これはデートと言っていいのかしら」
弾む気持ちのままベッドにダイブしてから、はっと気がついた。
「いけない! 私ったら、今日はヘルマン様にこの寝室を使ってもらうつもりだったのに!」
喜びから一転、ざっと顔が青くなる。このままでは今日も疲れた表情のまま、暖炉もない仮眠室で夜を過ごすことになるのだ。そんなことはさせられないと、昼間思ったばかりなのに。
「今からでも遅くないわ、ヘルマン様を追いかけて……」
主寝室の扉を開けて廊下に出ようとした瞬間、足が止まった。自分の格好は夜着にガウンを羽織っただけの状態。こんな緩んだ格好のまま廊下をうろうろするのは子爵夫人のすることではない。メッセージカードのおかげでせっかく少しだけ距離が縮まった使用人たちに見つかれば呆れられてしまうことだろう。
今では食膳だけでなく、寝室のベッドメイクや湯浴みの準備、洗濯を請け負ってくれる者たちへもカードを残すようにしていた。湯浴みに使うアロマを褒めれば翌日にも同じものが使われていたり、ベッドサイドに置かれた切花にトリシャの好きな色があしらわれたり、声を交わすことはなくとも少しずつ通じ合っている気がしていたところだ。
その関係をここで崩したくはない。
「……ヘルマン様には明日こそ提案してみましょう」
何せ明日は日中ずっと一緒にいられるのだ。話をする時間はたくさんとれるはずと小さく拳を握りつつ、今日はいつも通りにこの部屋で眠ることにした。