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思いがけない外出

 翌日、張り切っていつもよりさらに早起きしたトリシャは、いつもの通りベッドで時間を潰してから身支度を整えた。ヘルマンは早朝から出掛けており、午前のうちに一度屋敷に戻ってきてくれることになっている。


 朝食が部屋に届くまでの時間、ベランダに出てヘルマンのことを探してみたが、見渡す中に彼の姿はなかった。


 けれど代わりにまたベランダの手すりを歩いている例の子猫を見つけた。


「猫ちゃん! また会えたわね」


 タキシード姿の黒猫はすとんと降り立ち、トリシャの足元にじゃれついた。膝をついて手を伸ばせば素直に抱き上げさせてくれる。


「あなたのことヘルマン様に聞くのを忘れていたわ。このお屋敷の猫ちゃんなの?」


 イエスともノーとも取れる鳴き声をあげて子猫がふわりとあくびする。


「そろそろ朝食をいただくのよ。あなたも一緒に食べる?」


 昨日は部屋へ入れようとすると飛び降りて逃げてしまった子猫だったが、今日は素直に抱き上げられたまま部屋に入ってくれるらしい。


 窓を閉じたタイミングでノックの音が響き、いつもの通り無言の朝食が届いた。今朝のメニューはオムレツとベーコンだ。廊下の奥にいる誰かに向かって礼を告げてから部屋へとトレイを運びこむと、匂いにつられたのか子猫が駆け寄ってきた。


「あら、あなたもお腹が空いていたの? 一緒にいただきましょうか」


 近くにあった小物入れの蓋を皿代わりにしてベーコンを分けてやれば、子猫ははぐはぐと勢いよく食べ始めた。


「うふふ。ここのお食事はおいしいでしょう? わたくしも大好きなのよ」


 ベーコンをまるっと一枚食べ切った子猫は、満足したのか窓の方へと歩き出した。先の白い前脚で窓をカタカタと叩く。


「わかったわ。お外に出たいのね」


 トリシャが窓を開ければ、子猫は器用にベランダの手すりに飛び上がり、しっぽをくるっと回して「にゃあ」と礼を述べた。ずいぶん礼儀正しい子のようだ。


「お礼は結構よ。よければお昼もどうぞ。夜はヘルマン様がご一緒の日もあるから、中に入れてあげられないかも」


 そう声をかければ子猫は再びにぁあと返事して、優雅な足取りで去っていった。





 トリシャの外出用に、ヘルマンはわざわざ馬車を用意してくれた。子爵家の紋章まで入った二頭立ての立派な馬車だ。


「トリシャ嬢は馬には乗れないと聞いたので、こちらを用意しました」

「まぁ! わたくし、歩いて外出するのかと思っていましたわ」


 今日のトリシャの装いはデイドレスでなく、歩きやすいワンピースだ。ヒール靴でなくブーツを合わせている。少しでも足手纏いにならないようにと自分なりに考えた結果だ。


「この辺りは王都のように道が舗装されているわけではありませんので、慣れていない方には大変なところもあるかと思います」


 そう言われてしまえば反論のしようがない。おまけにヘルマンが御者を勤めるのだという。ということは道中会話をすることもできない。これではデートというより、単なる子爵夫人のおでかけだ。


 だがせっかく準備してもらえたものを無碍にするわけにもいかない。トリシャは務めて明るく礼を述べて馬車に乗り込んだ。


 馬車は高台にあるお屋敷をゆっくりと下って大通りへと入っていく。開け放していた窓から、出歩いていた領民たちと目が合うたびに笑顔で手を振った。あちこちから「え、あれがヘルマン様の奥様!?」と驚きの声が上がる。声はどんどん伝播して、子どもたちが馬車を追いかけて走ってくる気配まであった。


「トリシャ嬢、まずは中央地区の穀物庫の方にまいります」


 御者席に通じる小窓を通してヘルマンがそう声をかけてくれた。リドル領はお屋敷がある中央地区を真ん中に、東と西の地区に分かれている。お屋敷のベランダから見えた丘陵地のさらに奥が東地区、反対側が嫁入りの際にも通ってきた西地区だ。大通りと呼ばれる一本道でつながっており、端から端まで移動しようとすると馬車で1日がかりになるほどの広さだと言う。


 今日は時間的な制約もあって中央地区のみの見回りだ。ヘルマンは仕事も兼ねており、あまり見どころなどを紹介できないことを詫びられたが、トリシャはただただ領地を見て回れることに満足していた。


 やがて馬車が止まり、ヘルマンが差し出した手を借りて地面に降り立った。ここが中央地区最大の穀物庫らしい。すぐ隣には大きな風車がゆったりと回っている。


「まぁ、この風車、ベランダからもよく見えましたわ。こんなに大きかったのですね」

「今は粉挽きの最終盤です。領民たちが中で作業していますが、見られますか?」

「ぜひ!」


 嬉しくなったトリシャはついヘルマンよりも先に建物へと駆け出そうとした。ところが足元が滑ってバランスを崩しかけた。


「危ない!」


 咄嗟に腰に回された腕に力強く抱えられる。


 気づけばトリシャの身体はふわりと宙に浮いていた。


「え……?」


 突然重みをなくした己の身体のことを不思議に思う。背中に当たる熱くて逞しい感触も未知のものだ。


 何が起きたのかわからず一瞬呆けてしまったトリシャの耳に、子どもの甲高い声が聞こえてきた。


「見ろよ! 領主様が女の人と抱き合ってるぜ!」

「俺知ってるぞ! こういうのラブシーンで言うんだよな!」

「うわぁ、領主様、やるなぁ!」


 囃し立てる子どもたちに対して、「ばっ! 馬鹿なこと言うんじゃない!」と怒鳴る声があった。そしてその声はトリシャの背後から聞こえてきた。


「へ、ヘルマン様……」


 さすがのトリシャも今がどういう状況にあるのかを悟った。足を滑らせた自分をヘルマンが背後から抱き止めて助けてくれたのだ。


 トリシャの蚊の鳴くような呼びかけに、怒鳴ったヘルマンもはっと我に返った。


「すすすすすみません! いえっ、決して邪な気持ちだったわけではなくっ!」

「いえ、あのっ! わたくしの不注意ですわ。その、もう大丈夫ですので」


 自分の身体が軽かったのは、窪みに落ちかけたところを彼が咄嗟に抱き上げてくれたからだった。


 女性にしては背が高い自分をいつまでも抱えていては大柄なヘルマンといえども大変だろう。下ろしてくれるよう頼めば、まるで壊れ物でも扱うかのように優しくトリシャを解放した。


「お伝えし忘れていました。実は大通りの両側に灌漑用の堀を作ったんです。毎年雪解け水のせいで通りが荒れて物流が滞ってしまうのを改善するためなのですが、場所によっては女性や子どもの背丈以上の深さになっているところもありますので、通りに出る際には気をつけてください」

「まぁ、そうだったのですね。教えてくださってありがとうございます」


 言われて昨日ベランダから見たヘルマンたちの作業を思い出した。大通り沿いでスコップを持って何やら穴を掘る作業を進めていたが、あれはこの堀を作っていたのだろう。


 改めて落ちかけた場所を見れば、なるほど、通りに沿って掘られた堀が遠くまで続いていた。ところどころに橋のような板が渡してある。この付近は自分の膝程度の深さしかないが、落ちていれば足を挫くくらいのことはしていたかもしれない。


「わたくしったら、ついはしゃぎすぎてしまいましたわ。ごめんなさい」

「いえ、お怪我がなくてよかったです。ではまいりましょうか」


 再びヘルマンが差し出した手を取れば、またしても子どもたちが面白おかしく叫びだした。


「あれ、もう行っちゃうの? まだキスシーン終わってないよ?」

「そうだよ。ねぇ、キスは? キスはしないの!?」

「……おまえたち、さっさと自分の仕事に戻れ。さもないと親に言いつけるぞ」


 呻くようにヘルマンが額を抱えれば、子どもたちはきゃあきゃあと騒ぎながら蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


「……子どもたちが大変失礼をしました」

「いえ、その、大丈夫ですわ」


 つられてトリシャも俯くが、頭の中では子どもたちが囃したてる声がぐるぐると響いていた。


(そういえば初夜どころか、キスもしたことないんだわ)


 結婚式の場で、彼は誓いのキスをフリだけにとどめた。そのことを問いただす間もなくここまで来てしまっている。


「トリシャ嬢? 大丈夫ですか」

「は、はい!」


 そうだった、今は視察にきているのだったと思い直す。余計な思考を頭の片隅に追いやって、トリシャは建物の中へと入った。





「やぁ、みんな。作業は捗ってるかい?」

「おぉ、ヘルマン様かい。わざわざすまな……」


 領民の代表がいつものように気軽に声を返そうとして固まった。


「その、なんだ、今日は、つ、つ、つつつつつ妻が皆の作業を見たいと言ってだな」

「つ、妻ってことは、その方が……」


 作業中の領民たちは一斉に押し黙った。粉砕機が粉を挽く音だけがやけに大きく響いている。


「皆様初めまして。トリシャ・ノー……いえ、トリシャ・リドルと申します」


 そう言えば誰かにリドルの名前を名乗るのは初めてだったと、口にしてから少し照れる。顔には出ていないことを祈りつつ、領民たちに向かって微笑んだ。


「そ、その、ヘルマン様、こんなむさ苦しいところに、こんなお方をお連れになるなんて」


 何やらもごもごと口にした代表の男は、さっと背後の民を振り返った。


「おい! ぼさっとしてないで椅子を持ってこい! いや、そんなおんぼろのじゃなくて、ほら、奥の作業室にゴアじいさんが作った革張りのソファがあっただろう! あれだ!」

「あの、おかまいなく。わたくし、皆様の作業を拝見したいのと、ご挨拶がしたかっただけなんです。よければ少し見て回ってもよいでしょうか」

「いや、しかし、こんなところにいては汚れてしまうので……へ、ヘルマン様!」


 大の男が泣き言を言うかのようにヘルマンに迫った。


「大丈夫だ。皆に迷惑はかけないから。いつも通り作業してくれ」

「はぁ……」


 領民の肩を二、三度叩いて安心させたヘルマンは、再びトリシャの手を取った。


「トリシャ嬢は風車の中をご覧になるの初めてですか」

「はい。ノーマン領にもありましたが、わたくしは王都育ちが長くて見る機会がありませんでしたの」

「さほど面白いものでもありませんが……あんなふうに風の力でこの粉砕機を動かしています。あそこにあるシャフトというところに回転の力が加わって……」


 そうしてヘルマンが建物の中を案内してくれるのを、背後で領民たちがそわそわと伺っていた。あちこちから「あれが領主様の……」「意外だねぇ」とトリシャを評する囁きが聞こえてくる。


(できれば彼らともお話ししてみたいのだけど……)


 丁寧に説明をしてくれるヘルマンにそれを切り出すのもしのびなく、どうしたものかと思ったとき。


「あの、ヘルマン様。小麦の卸価格の改訂のことでちょっと確認したいことがあるのですが」


 若い男性が紙の束を持ってヘルマンに近づいてきた。


「あぁ、それなら確かこの間、作業室に資料を置いていったと思うが」

「それが、今週はミーナの手伝いもないんで……」

「あぁそうか。では私が行こう。トリシャ嬢、少し失礼しても?」

「もちろんですわ」


 そして二人は建物の奥にあるという作業室に入っていった。


(今、ミーナって言ってたわよね。お屋敷のメイドのミーナのことかしら)


 赤毛の三つ編みを巻き付けた、素朴な女性のことを思い出す。トリシャが食膳を自分で下げようと玄関をうろうろしていたときに会った、掃除道具を取り落としたあの彼女だ。


 リドル家専属の使用人だと思っていたが、粉挽きの作業も手伝っているのだろうか。


 後でヘルマンに聞いてみようと思いながら顔をあげると、建物の隅で座り込んでいる小さな女の子と目が合った。手には麦わらを抱えている。


「こんにちは。そこで何をしているの?」


 トリシャが声をかければ、女の子はびくっとしたように身体を揺らした。


「それは何を持っているのかしら」


 彼女の手元を覗き込もうとすれば、持っていた藁の束をさっと背中に隠されてしまった。なんだか泣きそうな表情をしている。驚かせてしまっただろうかと焦っていると、別の年上らしい少女が慌てて駆けてきた。


「マギー、奥様にお見せしなさい」

「や! マギーのだもん!」

「奥様はそんな藁くずに興味なんてないから大丈夫よ」

「藁くずじゃないもん! マギーの大事なお人形さんだもん!」

「マギー!」


 姉らしき少女が妹の背後に周り、彼女が隠していたものを取り上げようとした。


「マギーってば!」

「やなの! マギーのなの!」

「あの、えっと、マギー? ごめんなさい。お姉さんの言うとおり、取ったりしないわ。大丈夫だから、ね?」


 二人のやりとりから少女が何を恐れているのか察した。さっきの麦の束は人形で、それをトリシャが取り上げようとしたと勘違いしたのだろう。


「それはマギーが作ったお人形なの?」


 優しく問いかけると、涙目だった少女が首を横に振った。


「お姉ちゃんが作ってくれたの。マギーの誕生日に」

「まぁ、ではあなたの手作りなの?」


 顔立ちのよく似た年上の少女にそう声をかければ、彼女は真っ赤になって頷いた。


「あのっ、人形とか、そんな立派なものじゃなくて。麦わらだから全然かわいくないし」

「かわいいもん! マギーがかわいくしたもん!」

「あんたは黙ってて!」


 姉妹のやりとりに思わず笑みがこぼれる。


「お姉さんが作ってくれたお人形だから、マギーにとっては大切なものなのよね」

「うん!」


 人形を褒められて嬉しかったのか、マギーは背に隠していたそれを見せてくれた。三つの束ねた藁を組み合わせて手足と頭の形にした人形に、薄汚れた布が被せてある。きっとワンピースのつもりなのだろう。そのワンピースの腕の部分にはピンクの布の切れ端が巻き付けてあった。


 精一杯のおしゃれをさせた藁の人形を見て、ふと子どもの頃に持っていたビスクドールのことを思い出した。トリシャの祖父が誕生日にプレゼントしてくれたそれは、自分と同じふわふわの金の髪をしたとても愛らしい人形だった。他国からの珍しい輸入物だったそうで、それなりな値がつく高級品でもあった。


 その人形はもう手元にはない。少しでも借金の返済になればと手放した。トリシャが十歳のときのことだ。


 もうお人形遊びなんて飽きたからいらないと父に押し付けた人形に、未練がなかったと言えば嘘になる。けれど後悔はしていない。祖父がトリシャのためにと買ってくれた思いや、自分が人形をかわいがった思い出までも売り飛ばしたわけではないのだから。


 姉が妹のためにと精一杯の気持ちを込めて作った人形にもまた、同じ思いがこめられているのだろう。誇らしげにそれを掲げる少女にとって、この人形こそが世界一の宝物だ。


「本当にかわいいわ。そうだ、こうしたらもっとかわいくなるんじゃないかしら」


 トリシャはポケットからハンカチを取り出した。薄紅色に染められたお気に入りの一枚だ。


 マギーから人形を借りて、ハンカチをスカーフのように巻きつけると、藁でできた人形が花びらをまとったかのように可憐になった。


「ほら、どうかしら」

「うわぁ! かわいい! お姫様みたい!」


 嬉しげに人形を受け取ったマギーは、それを抱きしめながらくるくると回り出した。まるで人形とダンスを踊っているかのようだ。


「お、奥様! あの、うちにはお金がなくて……」


 マギーの姉が青い顔で訴えてくるのを、トリシャは笑顔で制した。


「気にしないでちょうだい。素敵なものを見せてもらったお礼よ。あんなにかわいいお人形、初めてみたわ」

「え!? あれがかわいいんですか?」

「かわいいわ。だって、あなたがマギーのことを思って作ってあげたんでしょう?」


 そう微笑めば、年上の少女は頬を染めて俯いた。すると彼女たちの奥からひとりの女性がわたわたと飛び出してきた。


「あの、娘たちが大変失礼を……!」

「あら、あなたがお母様? ハンカチのことは本当に気にしないでくださいな。素敵なお嬢さん方への贈り物ですから」


 やたらと恐縮する母親の横で、マギーはひとしきり楽しんだのか、満足したように笑った。


「綺麗なお姉ちゃん、ありがとう!」

「これマギー! そんな失礼な呼び方するんじゃない! この方はご領主様の奥方様だよ!」

「ごりょうしゅさまのおくがたさま……?」


 たどたどしい口調で何度か呟く少女に、「無理に呼ばなくても大丈夫よ」と伝える。子どもにはわかりにくい肩書きかもしれない。


「それって、ヘルマン様の奥さんってこと? 貴族の方なの?」


 首を傾げながらそう問われ、“ヘルマン様の奥さん”という言葉になんだかむず痒い思いを感じながらも「そうね」と答えれば。


「そうなの? でも、“あおのかた”とは全然違うよ?」


 人形を抱きしめながら今後は反対側に首を傾げる少女の瞳は、どこまでいっても無邪気だ。


「あおの、かた? それはいったい……」

「これ! マギー!! 奥方様、大変失礼いたしました!」


 母親が娘を抱えるようにして頭を何度も下げ、そのまま姉の手も取って立ち去ろうとした。姉の方は何か言いたそうにしていたが、小さく礼をするのが精一杯で母親に引きずられていく。


 残されたトリシャが周囲を見回せば、目のあった何人かの女性たちは皆一様にふっと顔を逸らせてしまった。


(いったいどうしたのかしら? “あおのかた”ってなんのこと?)


 トリシャとは全然違うと呟いたマギーの言葉から察するに、誰かの呼び名だろうかと考える。


 そこへ作業室からヘルマンが戻ってきた。


「トリシャ嬢、お待たせしました。次は丘陵地の方をご案内します」

「あ、はい。お願いします」


 ヘルマンのエスコートを受けながらも、今し方聞いた呼び名に意識を取られてしまう。


(あおのかた、あおのかた……“青の方”って言うのが正しいのかしら?)


 それはまるで高貴な方の呼び名のようだ。そう、トリシャと同じ貴族階級に属するような。お方様という、どこかの奥方の別称さえも思わせる。


「今度こそ足元にご注意くださいね」


 ヘルマンに促され、はっと顔をあげる。そうだ、同じ場所で二度も転んでしまっては恥ずかしいどころの話ではない。


 今はまだ視察の最中だ。余計なことは考えない方がいい。足元の堀に落ちないように気をつけながら、再び馬車へと乗り込んだ。



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