馬車は粉挽きの作業所からさらに登って丘陵地へと向かった。リドル領では酪農もさかんだ。平地では麦作を行い、それを囲む丘陵地では牛や羊の放牧が行われている。
「数日のうちに雪になりそうですから、この光景も見納めですね」
牛たちが草を喰む様子を見つめながらヘルマンが呟いた。冬の間は放牧はできないため、動物たちは小屋の中で越冬しながら春を待つことになる。
「家畜の世話は冬も続けますが、この辺りでは冬は羊毛を使った内職も盛んなんです」
「羊毛って羊の毛ですか?」
「えぇ。毎年夏前に領民総出で毛刈りを行います。ほとんどは毛糸に加工して出荷するんですが、一部を残しておいて冬の間に女性たちが毛織物を作ります。行商たちがいい値で買い取ってくれるので、領民たちにとっては貴重な収入源なんです」
「そうなのですね。リドル領の女性たちは器用な方が多いのですね」
先ほどマギーが抱きしめていた人形も、ごく簡単な作りではあったが人形らしく加工されていた。子どものうちからああいった手作業に慣れているのだろう。
「羊の毛刈りの光景は毎年見もののひとつですよ。逃げ回る羊を捕まえるために馬乗りになることもあります。妹などはよくロデオを……んっ、ごほん! いえ、毎年楽しみにしていました」
「まぁ! そうなんですのね。わたくしも次の季節には見られるかしら」
ノーマン領では羊までは飼っていなかったので、トリシャには馴染みのない話だった。毛刈りは例年、夏前に行われるのだと言う。まだ見ぬ季節に思いを馳せていると、ヘルマンが丘陵地の外れに目をやった。
「失礼、周辺の柵の様子を確認したいので、あちらに移動してもいいでしょうか」
「えぇ、もちろん。柵があるのですね。動物たちが逃げてしまわないようにということでしょうか」
「それもありますが、すぐ裏が山になっているんです。野生の獣が時折やってきて家畜を襲うことがありますので、自衛の意味もありますね」
田舎道で転んでしまわないように気をつけながら、トリシャは彼の後をついていった。端までいくと丘陵地をぐるりと囲む長い柵が続いている様子がよく見えた。
かんぬきを外したヘルマンが柵の外へと出て、そのまま周辺を巡回する。仕事中のヘルマンの横顔を見ながら、トリシャはひとりご満悦だった。今の自分たちは領地を散歩するカップルに見えるのではないだろうか。それに冷たい空気の中、時折牛の鳴き声が響くだけの静かな環境は、相談事をするにももってこいだ。
たとえば毎晩の寝室の部屋割りについて。
ずっと気になっていた件を話題にするべく、トリシャは彼の腕を引いた。
「あの、ヘルマン様っ」
二人きりの外出に、少々浮かれていたバチが当たったのだろうか。トリシャの踏み出した一歩が思いもかけずずるりと滑ってしまった。
「きゃあ!」
「トリシャ嬢!!」
幸い今回はすぐ隣にヘルマンがいたので無我夢中でしがみつくことができた。彼の腕も咄嗟に伸びてきたこともあり、またしても転倒を免れた。
「ご、ごめんなさい! わたくしったらまた……」
「いえ、私が声をかけ忘れていました。この辺は日陰なので、霜が降りたまま乾きが悪いのです。サトウカエデの落ち葉で滑ってしまったみたいですね」
足元に目を落とすと、露を含んだ大きな葉が地面にぺたりと張り付いていた。赤やオレンジに色づいた落ち葉はまるで鮮やかな絵画のようだ。
「とても綺麗な落ち葉ですね。踏んでしまうのがもったいないくらい」
「この辺りの名産でもあるんです」
「この木がですか?」
「えぇ、山の手前はサトウカエデの林になっていまして」
ヘルマンが指差した先には、すっかり葉を落としたカエデの木が連なっていた。彼の腕に身体を預けて林に足を踏み入れると、折り重なった落ち葉が絨毯のようにどこまでも続いていた。
「厳しい冬を越える間に、カエデの木の中で蜜が熟成されます。春になればメープルシロップ作りが盛んです。砂糖が手に入りにくいこの領では貴重な甘味となります。甘いものに目がない妹などは瓶ごと抱えて食べていましたね」
「まぁ! シロップまでとれるんですのね。知りませんでした」
「出荷できるほどの量ではないので、領内と近隣に分け与えるほどにしかなりませんから、あまり知られていないんです」
乳製品と小麦がリドル領の主産業だとばかり思っていたが、今日一日で新たに知れた側面にトリシャはとても満足していた。いつの間にか丘陵地の外れまで来ていたこともあり、振り返ればなだらかなリドル領の晩秋の景色がよく見渡せた。
「これがうちの領のすべてです。……がっかりされたのではないですか?」
「え?」
「主産業は昔に比べて収益を上げつつありますが、そもそも小麦も乳製品も、取り立てて珍しいものではありません。羊毛やシロップ、夏場になると採れるベリーなどは供給量そのものが少なく、産業にもなりづらい。王都で長くお暮らしだったトリシャ嬢からすれば、平凡で面白みのない場所に見えるのではないかと……」
「まさか、そんなことはありませんわ!」
慌てて首を振るトリシャに対し、ヘルマンはますます恐縮したように告げた。
「今回の縁組は、元を辿れば妹が恐れ多くも王家に縁づいたことに端を発しています。あなたはいわば、我が家の事情に巻き込まれたようなものです。王命まで発せられて断ることもできず、華やかな王都からこのような鄙びた土地におひとりで移住せざるを得なかったことを、大変申し訳なく思っています。ですが……」
一度言葉を切ったヘルマンは顔を上げ、丘陵地から平原を見下ろした。
「私にはこのリドル領がすべてなのです。この地を未来へと残していけるよう、領民たちの生活が少しでもよくなるよう、身を粉にして働くことこそが自分の使命だと思っています」
強く言い切るその横顔には一切の迷いがなかった。彼の瞳が注がれる大地は秋の名残を湛えたまま、静かに次の季節を待っている。人々が手を入れて耕し、種を蒔き、整備をしてきたからこそ、厳しい冬を乗り越えていけるのだ。
こんなにも日常が丁寧に移り変わる様を、トリシャは知らずに生きてきた。物心ついたときから王城に勤める父について王都で暮らしてきた彼女にとって、ノーマン領も亡き母の実家も、自分が住まう土地ではなく、たまに行ってほんの少し滞在する場所に過ぎなかった。貧乏な身での王都暮らしも決して楽ではなかったが、こなすべきは自分たちの日々の暮らしを支えることであって、領民たちを支える必要性にまで考えが及ばなかった。
もちろん、領地に根を張って頑張る兄家族のためになればと、父の給与やトリシャの内職で稼いだお金を仕送りするなど、精一杯寄り添ってきたつもりだ。けれど領民たちの生活に責任を負うことに関しては、どこか他人事のように感じていたのも事実だった。
トリシャの兄やヘルマンにとっては決して他人事ではいられない。彼らの双肩には何百何千という領民たちの生活と領の未来がかかっている。
そう思えばヘルマンの横顔はただ厳しいだけでなく、揺るぎない決意と強さに満ちているかのようだった。そんな彼に寄り添う女性に求められるものは何か——経験の少ないトリシャにも少しだけ見えてきた気がした。
「だいぶ冷えてしまいましたね。そこの猟師小屋で少し休憩しましょう。領民たちが自由に使えるようにしている小屋ですが、お茶くらいでしたら出せます」
ヘルマンが視線を向けたサトウカエデの林の奥に、不揃いに石を積み上げた簡素な作りの建物があった。足元に気をつけながら小屋へと案内され、やや建て付けの悪い木戸を潜る。中は人が五、六人も入ればいっぱいという広さで、中央には薪ストーブがあった。
ヘルマンが手早くストーブに火を入れて、棚にあった茶器を物色し始める。外套を脱いで丁寧に畳んだトリシャは彼の元に駆け寄った。
「ヘルマン様、お茶ならわたくしが淹れますわ。どうぞ休憩なさってください」
「しかし、あなたにそんなことをさせるのは……」
「わたくし、お茶を淹れるのは得意なんですの」
特に自分で乾燥させた庭の薬草茶は……と続けそうになった言葉を飲み込む。紅茶を淹れることは貴族女性の趣味として大きく外れるわけではない。女学校でもみっちり習ったから、技術としても問題ないはずだ。
ヘルマンは恐縮しながらもトリシャに仕事を譲ってくれた。
(旦那様のためにお茶を淹れるなんて、まるで本物の妻みたいだわ)
すでに籍を入れているので本物の妻であることは間違いないのだが、初夜はまだなされておらず、女主人らしく屋敷を取り仕切ってもいない。やったのは結婚式の礼状書きの仕事だけ。食事だって未だ部屋でとっている身としては、妻と名乗るのがなんだかおこがましく気が引けていた。
(そういえばダイニングは改修中だって言っていたけれど、まだ終わらないのかしら)
トリシャが嫁入りしてきて一週間以上が経過している。昼間は執務室で作業することが多かったが、工事をしている気配も人が出入りをしている気配も感じなかった。
ヘルマンに尋ねてみようと思った矢先、やかんが音を立ててお湯が沸いたことを知らせてくれた。まずはおいしい紅茶を淹れることに集中しようと、茶葉を手に取る。
ポットとマグカップを温めていると、ヘルマンが小屋の奥から瓶を持ってきた。
「まぁ! それはベリーのジャムですね」
「トリシャ嬢が気に入ってくださったようなので。ここには万が一のために保存食も置いてあるのですよ。自由に食べていいことにしています」
言いながらヘルマンはトリシャが淹れた紅茶にベリーのジャムを追加した。
「甘くて美味しいわ」
さっそく口をつけてそう微笑めば、ヘルマンはまたしても顔を逸らして口元を押さえるあの仕草をした。
そのまま何かの衝撃に耐えるかように俯いていたが、ふとマグカップを見つめる琥珀色の瞳を細めた。
「妹はリドル領を守るために、借金を精算してくれるような人の元に嫁ぐのだと言って女官になりました。結果的にジュリアス殿下とご縁があり、いろいろあったようですが今では幸せに暮らしています。ですが住み慣れた領地を離れた当初は寂しい思いもしたそうです。あの活発な妹ですらそうだったのですから、あなたが抱えているものはいかばかりかと、そう思わずにいられません」
顔を上げたヘルマンの眉尻がぐっと下がる。
「私は自分がこの土地を離れることなど、考えたこともありませんでした。王都に進学こそしていましたが、それもいずれ領地に戻り盛り立てていくための手段だと割り切っていました。ですが女性はそういうわけにはいかない。大切な家族と別れ、住み慣れた場所を離れて、一から新たな生活を築くことは並大抵のことではないでしょう。あなたがこの土地で快適に過ごせるよう、私も精一杯務めるつもりです。ですから何かあれば遠慮なくおっしゃってください。それくらいしか、あなたにしてあげられることはないと思いますので……」
「ヘルマン様……」
自分の境遇など、下位貴族の身分から王子妃となったクレア妃殿下とは比べるべくもない。トリシャはそこまで重たいものを背負わされてはいない。それでも、大切な妹と同じ境遇をトリシャに当てはめて考えてくれるヘルマンの優しさが、ベリージャムの甘さと同じくらい心に染みた。
女性が結婚して実家を出て婚家に入ることはごく当たり前のこと。けれど彼はそんな当たり前のことに、こんなにも気を遣ってくれる。
手にしたカップの熱を感じながら、トリシャの胸にもじんわりと広がるものがあった。
(どうしましょう、わたくし、ヘルマン様のことが……とても好きだわ)
二十四にもなる、持参金すら用意できない行き遅れの花嫁を掴まされてしまった彼こそ不幸であろう。子爵家当主で、王子妃の兄でもある彼には、もっといい縁が望めたはずだ。トリシャの実家が伯爵家とは名ばかりの貧乏一家と知ることなく、今でもこんなに気にかけてくれる。
これで好きにならないはずがない。
結婚など、実家のためになる縁を結べればそれでいいと思っていた。二度の災害で借金まみれになった家のためにトリシャにできる、唯一にして最大の助力という以外に、意味など見出してはいなかった。
だから相手に求めることはお金持ちであるということだけで、見た目も性格も境遇もすべて二の次でよかったはずなのに。
(わたくしもう、ヘルマン様でないと嫌だわ。他の方がお相手だなんて考えられない)
かつて見た求婚者たちの絵姿を思い出す。髪がなく歯もなく、二重顎で太鼓腹で高齢で……そんな人が自分の夫になっていたかもしれないと思うとぞっとする。
(でも、もしヘルマン様がそんなお姿だったとしたら……不思議ね、ちっとも悪くないわ)
眉尻を下げたままこちらを見ている美丈夫の髪を想像で薄くしてみる。微笑む口元の歯を欠けさせ、全体的に肉付きをたっぷりと良くして歳をとらせ、ついでに水虫に困っているところまで想像してみたが……少しも嫌だと思えなかった。
きっとどんな姿をしていても、トリシャは彼に恋をしたことだろう。そのことに改めて気づくと、たちまち頬に熱が上るのを感じた。
(ど、どしましょう……! 今ヘルマン様のお顔をまっすぐ見られないわ!)
ごまかすようにカップに口をつけてジャム入りの紅茶を一気飲みする。それでも波打つ己の心臓が収まることはない。
(いったいどうしたらいいの!? 何か、違うことを考えるか……あぁでも何も思いつかないわ)
目を閉じようものならヘルマンの顔を逸らせるあの仕草が思い出され、慌てて開ければ目の前に本物の彼がいる。
パニックになりかけたトリシャの耳に、何かが遠吠えするような鳴き声が聞こえた。
「あ、あら! 今何か動物の声が聞こえたような……!」
この際意識を逸らすことができるならなんでもよいと、必死に口を動かした。思い当たる節があったのだろう、ヘルマンは「あぁ」と顔を上げた。
「牧羊犬を飼っているんですよ。トリシャ嬢は犬は大丈夫ですか?」
「え、えぇ! わたくし動物は大好きですの。牛も馬も犬も猫も……あ、そうだわ!」
ずっとヘルマンに聞いてみなければと思っていたことを思い出し、ここぞとばかりに彼に尋ねた。
「そういえばお屋敷で子猫を見かけましたの。黒い毛並みに、首元と脚先だけが白い、まるでタキシードを着ているような子です。ヘルマン様はご存知ですか?」
「ぶわっふっ!!」
トリシャの問いかけに、静かにお茶を啜っていたはずのヘルマンが盛大に吹き出した。
「へ、ヘルマン様!? 大丈夫ですか?」
「え、えぇ! 平気です! 大変失礼いたしました!」
ポケットから出したハンカチで口元を拭きながら、まだ咽せている彼を気遣う。
落ち着きを取り戻したヘルマンは、瞳を彷徨わせながらしどろもどろに口を開いた。
「あ、あの黒猫ですね」
「まぁ! やはりヘルマン様もご存知だったのですね。お屋敷で飼っている猫ちゃんですか?」
「いいえ! うちでは飼っていませんよ! 猫を飼う必要などまったくもってありませんので!」
「あら、そうだったんですの。ずいぶん人慣れしている様子でしたから飼われているのかと思ったのですが……野良猫なのかしら」
「そそそそうですね、きっとそうでしょう!」
「では餌をあげるのは良くないのでしょうか」
「んんん……ごほんっ! そ、そうですね。居着かれても困るかもしれませんので、何もせずにいた方がいいかもしれませんね!」
ヘルマンにそう言われて、トリシャはそれ以上の口を噤んだ。今朝方子猫を部屋に入れてベーコンをわけてやったことは内緒にしていた方が良さそうだ。
(ヘルマン様の慌て振り……もしかして猫が苦手なのかしら)
だったら彼の目にあの子猫が入らないよう、注意をしてあげた方がいいかもしれない。子猫は実に堂々とお屋敷の手すりや木を渡り歩いていた。ほとんど屋敷にいないヘルマンだから、あそこまで馴染んでいることまだ気づいていなさそうだ。
そう考えながらカップを片付けようとしたとき、小屋の入り口から人の声がした。
「ヘルマン様! こちらにいらっしゃいますか!」
「あ、あぁ、その声はハリーか? どうかしたのか?」
「よかった。あっちでお屋敷の馬車を見つけたので、この近くにおいでかなと探していました」
木戸を開けた先には慌てた様子の領民の姿があった。
「ヘルマン様、実は西地区の風車に問題がありまして。どうやらシャフトが壊れてしまったようなんです」
「なんだと? 粉挽きの進み具合はどうなんだ?」
「冬の備蓄分は概ね終えていますが、万が一のこともあるんで、雪が降る前に直せるなら直したいところですね」
「わかった、私もすぐに向かおう。ええっと……トリシャ嬢」
「はい」
振り向いたヘルマンがまたしても申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「聞いての通り、西地区の風車に問題が出たようで……私はすぐにそちらに向かわねばなりません。おひとりで屋敷に戻っていただいても大丈夫でしょうか」
「えぇ、それはもちろんですわ」
ヘルマンについて領地を見て回るとはいえ、トラブルが発生した場にまでついて行っては間違いなく足手纏いだ。弁えたトリシャは深く頷いた。
「どうぞお気をつけてください。わたくしはこのまま屋敷に戻りますわ」
「急ぎなので馬で行ってきます。ハリー、おまえ馬で来たんだよな? それを貸してくれ。それから私の代わりに彼女を馬車で送ってやってくれないか」
「へ? お、俺がですかい!? でもこの方って……」
「必ず屋敷まで無事に送り届けてくれ。その後はうちの馬で西地区まで戻ってきてくれてかまわないから」
そう言っている間にもヘルマンが手早く火の後始末をしていく。トリシャも見よう見まねで片付けを手伝い、外套を着込む。
何やら青い顔をして小屋を出たハリーという領民だったが、馬に詳しいのは本当のようで、トリシャたちが戻る前には準備を整えて待っていた。
「トリシャ嬢、慌ただしくて申し訳ない。ハリーの腕は確かですからご安心を。ハリー、彼女は馬車にあまり慣れていないからゆっくり進んでやってくれ。おまえも急がなくていいから」
「は、はいぃ……」
トリシャが馬車に乗り込むのを見届けたヘルマンは、ハリーの馬を借りて颯爽と駆けていった。