トリシャを乗せた馬車は、ゆっくりの速度で来た道を引き返していった。ヘルマンに釘を刺されたためか行きよりもさらに遅い歩みで、トンボでも止まってしまいそうな速度だ。
時間をかけて屋敷に戻れば、とっくにお昼の時刻を過ぎていた。下男と思しき男性が近づいてきて御者に話しかけた。
「ハリー、おまえが馬車を扱ってたのか。さっきヘルマン様が大通りを馬で駆けていったから何かあったのかと思ってはいたが……」
「あぁ、ヘルマン様に馬車と、それに……奥様を頼まれてしまって。俺も西地区に戻らなくちゃいけないからこのまま馬を借りていくぞ。だからおまえは奥様を頼んだ」
「えぇ!? 俺がかい?」
「おまえ、この家の使用人だろう。頼んだぞ」
「そ、そうだけど……」
何やら下男と押し問答しているのを聞きながら、トリシャは馬車の扉が開かれるのを待った。高貴な貴婦人は自分から扉を開けないものである。自分の信条とは合わないが、子爵夫人としてここにいる以上、きちんと守らなければまた奇異な目で見られてしまう。
ようやく話し合いがついたのか扉が開かれたので、トリシャは笑顔で御者に礼を告げた。
「ハリーだったわね、ここまでありがとう。ヘルマン様によろしく伝えてくれる?」
彼は下げていた頭の角度をまた一段と深くした。屋敷の使用人たちと同じ無言のままだ。目線を上げた先には下男と思しき男性が玄関扉を開けて待ち構えている。
彼にも声をかけたが、返事はない。しきりと恐縮するように目線も合わせてくれない。これがここの使用人たちのスタイルなのかもしれないが、やはり寂しい気もする。
ヘルマンとともに戻るつもりが、緊急事態のためひとりで戻ることになってしまった。昼食の時間にもすでに遅れている。スケジュールの変更をカミラに告げた方がいいだろうと、厨房に寄るために歩き出せば、廊下の先から話し声がした。
「ミーナ、ちょうど良かった、これ、リネン室の担当から預かってたんだよ」
「なに? カミラさん。……あぁ、いつもの奥様のメッセージね。わかったわ、私が預かる」
「すまないね。……はぁ」
「どうしたの、カミラさん」
「いやね、こういうことされてもさ……。はぁ、困った話だよ」
「仕方ないわよ。奥様は何もご存知ないんだし」
「そうだけどねぇ」
会話の主は若いメイドのミーナと厨房担当のカミラだった。二人が受け渡ししているのは、今朝トリシャが洗濯物と一緒に残したお礼のメッセージカードのようだ。リネン担当者からカミラの手に渡り、今ミーナに預けられたらしい。
自分の送ったカードがどのように扱われたとしても何かを言うつもりなどなかったが、問題は今ほどの彼女たちの発言だった。
(今、カミラはカードについて“困った話だ”って言っていたわよね。もしかしてカードをもらうことが困るということなの……?)
メッセージを残し始めたのは、食事のお礼を伝えることでもっと彼女たちと仲良くなりたかったからだ。直接の返事はなかったものの、トリシャが褒めた料理が再びメニューに組み込まれたり、ソースのレシピを教えてもらえたり、伝わっている感触は十分に感じていた。
だからこそ今しがたのカミラの発言が信じられなかった。
(あのカードは、もしかして迷惑だと思われていた……?)
青ざめるトリシャが物陰にいるとも知らず、二人はさらに会話を続けた。
「カミラさんは今からお昼の準備?」
「まだヘルマン様と奥様がお戻りじゃないからね、待機しているところだよ。あんたは今日は掃除担当かい?」
「えぇ、今から“青の方”のところに行ってくるわ」
掃除道具を掲げながらミーナが口にした言葉に、はっとした。
(今、“青の方”って言った?)
つい先ほど人形を抱きしめたマギーの口から溢れたのと同じ名称を耳にして、ますます混乱する。
そんな自分の先で、カミラが「そうかい」と明るく相槌を打った。
「重たい掃除道具を持って三階まで上り下りするのはこの年ではきついから、あんたが引き受けてくれて助かるよ」
「大丈夫よ、任せて。なんと言っても私と“青の方”は大の仲良しなんだから。歳も一緒だしね」
「そうだね、きっとあの方も喜ばれるだろうよ。あぁ、今は大事な時期だから、とにかく丁寧にね」
「わかってるわ」
カミラとの会話を終えたミーナがこちらに歩いてくる気配を感じて、思わず玄関横のクロークに飛び込んだ。こっそり様子を伺う自分の前を通り過ぎたミーナは、掃除道具を持ったまま階段を登っていく。
ミーナの姿が見えなくなってからクロークを出たトリシャは、自分も足音を殺してそっと二階へと向かった。ミーナは軽い足取りのまま三階へと上がっていく。
この屋敷に輿入れしてきた際にヘルマンに案内されたのは、一階の執務室と図書室、それに二階の居室と芸術品を飾ったコレクタールームだけだった。厨房や使用人たちの居住部屋はなんとなく当たりをつけることができたので把握しているが、三階はすべて客間になっていて普段使用していないからと案内されなかった。
だが使用しない部屋を掃除するためにミーナは上がっていった。来客があるという話も聞いていないし、そもそも雪が降るかと言われている今の季節に人が訪ねてくるはずもない。
使用しなくとも定期的に掃除して綺麗にしておくのが常なのかもしれないが、もっとはきりした目的があるように思えてならない。
今ほどのミーナたちの会話を思い出す。
(ミーナは“青の方”のところに行ってくると言ったわ。カミラも“きっと喜ばれるだろう”と。それって……)
今からミーナが向かう場所に“青の方”が暮らしているということではないのか。
三階への階段を見上げながら、トリシャは一旦足を止めた。この先に自分の知らない誰かが住んでいる。ヘルマンの身内だろうか。けれど父親は商用で家を空け、母親はすでに亡く、妹のクレアは王城に住んでいる。その他の係累すべてを把握しているわけではないから、自分が知らない身内がいるのは何も不思議なことではない。
だが、仮にそういう人がいたとして、ヘルマンが何も教えてくれないのはおかしい。たとえば誰かが療養していて、三階の部屋で面倒を見ているのだと言われれば、トリシャとて「そうなのだ」と納得するだろう。
けれど自分は何も聞かされていない。それはトリシャの耳に入れる必要がないと判断されたからか、それとも——入れたくない事情があったからか。
ミーナは言っていた。”自分と青の方とは歳も同じだ”と。彼女の年齢は自分より少し下だろうか。そんな若い人がいるとするなら、どういう関係の人なのか。
そこまで考えたとき、三階の廊下をぱたぱたと走る音が近づいてきた。
「いけない! 忘れ物しちゃった!」
慌てたミーナが階段を降りてくる前に、二階の廊下に身を隠した。息を殺して気配を消せば、ミーナは気づくことなく一階へと降りていった。
心ここに在らずの状態で、トリシャは自室へと逃げ込んだ。着替えもせずソファにくたりと座り込み、思いがけず得ることになった情報を整理する。
マギーから聞いた“青の方”という言葉。それと同じ名称を口にしていたカミラとミーナ。しかもミーナは“青の方”の部屋を掃除すると言って三階へと上がっていった。
ここから導き出される、「三階に“青の方”と呼ばれる誰かが住んでいる」という結論。そしてその事情はなぜか自分には伏せられている。
ミーナはさらに「自分と“青の方”は仲良しで、同い年だ」と豪語しており、カミラも肯定していた。ということはトリシャが嫁入りしてくる前から、その人は部屋の住人であったということになる。
自分とは一切顔を合わせようとせず、会話すらしてくれない使用人が、“青の方”とは仲良くしている。その事実につきん、と胸が痛んだ。
(落ち着くのよ、トリシャ。まだそうと決まったわけではないわ。この件は一度、ヘルマン様に確認してみましょう)
今日の外出で彼との距離が縮まった気がする今なら、なんでも聞けそうな気がした。トラブルが改善されて彼の戻りが早いことを祈る。
ほう、と長い息をつけば、部屋にノックの音が響いた。開ければいつものサイドテーブルに昼食の膳が載せてある。自分が戻ったことが知られたようだ。ミーナを追いかけて三階に行かないでいて良かったと思いながら無言の食膳を受け取るも、いろいろ渦巻く胸の内が忙しいせいか、いつものような食欲が湧かない。
進みの悪い昼食をどうしようかと悩んでいると、窓ガラスをカタカタと引っ掻く音が聞こえた。顔を上げてみれば例の黒猫が「開けて」と言わんばかりに一声鳴いた。
「猫ちゃん、また来てくれたのね」
急いで窓を開けると、猫は優雅な足取りで部屋に入ってきた。子猫を抱き上げながら、昼食の膳と小さな珍客を見比べる。
「そうだわ、猫ちゃん、よろしければ昼食を一緒にいかが?」
ヘルマンには餌をやらないでほしいと言われていたが、せっかく用意してもらった食事を無碍にするのも躊躇われる。昼食は豚肉のソテーだから、子猫もきっと気に入るだろう。
朝と同じように小物入れの蓋に食事を分けてやると、子猫はよほどお腹が空いていたのか、豚肉一枚をペロリと平らげた。
「ありがとう、助かったわ」
満腹になって外へと出たがる子猫を見送り、自分はサラダとパンだけをなんとかお腹に収めた。食後にメッセージカードをしたためようとして、はたと手を止める。
(メッセージは……もう送らない方がいいのかもしれない)
カミラが溢した「困った」という言葉は、どう考えてもこのカードに向けられていたものだった。カミラだけでなく洗濯担当の誰かも持て余したカードを手放していたくらいだから、きっと自分の自己満足だったのだろう。迷惑がられていることがわかった上で続ける勇気はさすがにない。
(少しは仲良くなれたと思ったのだけど……)
微妙な距離感の使用人たちのことを思うと、不意に目頭が熱くなった。
(次に何かをするときは一度ヘルマン様に聞いてみましょう。これ以上……失敗したくないわ)
冬支度を手伝うこともできず、家のことを把握するのも未熟だが、今の自分はリドル夫人だ。
もっとしっかりしなければと目元を拭う。そのままソファで休んでいると、久々の外出の疲れが出てしまったのか、いつの間にか眠ってしまった。