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思いがけない盗み聞き

 カリカリと何かを引っ掻くような音で目を覚ましたトリシャは、一瞬自分がどこにいるのかを忘れてしまった。ぼんやりとする頭に手を当てていると、すでに日が暮れていることに気がついた。


「そうだわ、外出から戻って、メイドたちの話を聞いてしまって……」


 そのショックが癒えないままソファでうたた寝をしてしまったようだ。うたた寝というには明らかに時間が経ちすぎており、いい年をして長いお昼寝だなんてと恥ずかしくなる。


 暖炉の火はまだ消えておらず部屋は暖かいが、ぶるりと身震いしてしまったのは、ブランケットも何もないまま眠ってしまったからだろう。冬の足音も迫っているこの時期に少々うかつだったかもしれないとソファから立ち上がる。


 すると、先ほどから暗がりでしていたカリカリという音が鮮明になった。音は窓の方から聞こえてくる。


「もしかして……!」


 慌ててバルコニーに駆け寄れば、思った通り、例の黒猫が夕闇迫った背景の中、小さく震えていた。


「猫ちゃん! 大丈夫?」


 窓を開けて抱き上げると、子猫の身体はずいぶんと冷えていた。


「寒かったでしょう。中にどうぞ」


 トリシャの腕の中で安心しきったように「にゃあ」と鳴く子猫を抱いて暖炉の側に座る。ブランケットでくるみ温めてやると、ぶるぶるとしていた震えがようやく収まってきた。


「よかったわ。今日はこのままここで休んでいく? 外は寒いものね」


 ヘルマンはきっと夕食に間に合わないだろう。ということは彼がこの部屋に入ってくることもない。猫嫌いの彼には申し訳ないが、今夜一日だけでもこの子を預かってあげたい。


 ずいぶんと慣れた子猫に頬擦りすれば、子猫も嬉しげに声をあげてまどろんだ。生き物の温かさが今のトリシャには心地よく、つい涙腺も刺激される。


(使用人にも迷惑がられて、ヘルマン様もお忙しくて……今の私を慰めてくれるのはこの子だけだわ)


 子猫を抱きしめていれば、そのぬくもりに少しだけ心が軽くなる。


 結局、その日の夕食も子猫に手伝ってもらい、トリシャはヘルマンの帰りを待ち続けた。





 あたりが暗くなってからしばらくして、玄関に人の気配を感じた。


「ヘルマン様が帰ってきたのかしら」


 気づいたトリシャは部屋を飛び出した。どうしても彼に確認したいことがあった。


(“青の方”について聞いてみないと……気になって眠れないわ)


 屋敷の三階で暮らしていると思われる、青の方と呼ばれる若い女性。その人が誰なのか、ヘルマンとどういう縁がある人のなのか。自分には知る権利があるように思えた。


(だってわたくしはヘルマン様の妻。このお屋敷の女主人だもの)


 意を決して階段を降りていると、胸元でもぞりと動く気配を思い出した。


「いけない……! 私ったら子猫を連れてきてしまったわ!」


 夕食をたらふく食べてご満悦だった子猫は、そのままトリシャの胸の中で眠ってしまった。その温度や感触が気持ちよくてずっと抱っこしていたのだが、ヘルマンの帰りに気が急いて、うっかり連れてきてしまった。


「ヘルマン様は猫が苦手だから、連れていくのはよくないわね。一度部屋に戻って……」


 踵を返そうとした途端、ぴん!と耳を立てた猫が勢いよくトリシャの腕から飛び降りた。


「あ! ダメ!」


 ジャンプして階段を駆け上る子猫を追いかけるも、その素早さはトリシャの比ではなかった。たどり着いた二階の薄暗い廊下に子猫の姿はすでにない。


「猫ちゃん、どこに行ったの? 出てきてちょうだい」


 ヘルマンや使用人に見つかったら外に追い出されてしまうかもしれない。こんな寒空の下で過ごしては命にも関わる。とはいえ自分はヘルマンと話をするために部屋を出てきた。彼が休んでしまう前に会いたい気持ちもある。


 迷いながら廊下を進むも、子猫の姿が見当たらなかった。端まで行ったとき、廊下の窓が少しだけ開いていることに気がついた。ここから外に出てしまったのだろうか。


 窓からは冷たい風が吹き込んでいた。雪も近いリドル領の夜だ。子猫のことが心配ではあったが、賢い子だ、またトリシャの部屋のバルコニーに戻ってくるかもしれない。


「猫ちゃんのことは後にしましょう。まずはヘルマン様だわ」


 当初の予定通り夫に質問するべく、トリシャは一階へと降りていった。





 ヘルマンはてっきり執務室に向かったのだと思ったが、そこは無人だった。暖炉の火も消されたままだ。


 夫の姿を探して今度は厨房の方へと歩みを進めれば、奥の部屋から明かりが漏れているのが見えた。豪華な扉がほんの少しだけ開いている。トリシャはまだ入ったことがない部屋だ。


 人の声と気配を感じて近づくと、ダン!と何かを叩く音が響いた。


「クソっ、まだ居座っているのか!」


 開いた扉の隙間からちらりと中を覗けば、机に肘をついたヘルマンが頭を抱えているのが見えた。


「ヘルマン様、机を叩かないでくださいよ。お行儀の悪い」


 彼の前に食事が載ったトレイを置いたのはカミラだ。食膳を前にヘルマンは「はああぁぁ」と長い溜息をついた。


「叩きたくもなるだろう! このままじゃいつまで経ってもまともに夕食さえとれない。まったく、アイツもアイツだ! 碌に仕事もしないくせに優雅なもんだよ。王族かお貴族様のつもりかね」

「それはそうかもしれませんけど……」


 溜息とともに食事を流し込むヘルマンは、ふと思いついたようにカミラを見上げた。


「食事は毎回出しているのか?」

「えぇ、それはもちろん」

「減らすか抜くかしてみたらどうだ。そうすれば行動に移すかもしれん」

「それはさすがにかわいそうなんじゃ……」

「背に腹は変えられんだろう。出ていかなければいつまでもたってもこのままだぞ」


 そしてヘルマンは副菜の肉料理におもいきりフォークを突き刺した。


「子どもが生まれる前になんとしてでも追い出したい。引き続き対策をとってくれ」


 初めて目にするヘルマンの剣呑な様子に、息が止まりそうになった。そのまま気配を殺していると、やがてカトラリーを扱う音が落ち着いてきた。


 ひと心地ついたのか再びヘルマンが息をつく。


「……そもそも自分はこんな結婚をするつもりなんてなかったんだ」


 弱々しい彼の言葉に、カミラもまた困ったように返した。


「そうですよねぇ。ヘルマン様は“青の方”の方がいいって、ずっとおっしゃってましたものねぇ」

「そうだな。紛れもなく本心だ。今となっては……無理な話だがな」


 落ち込むように首を落としたヘルマンを、カミラがどう慰めたのかわからない。


 なぜならトリシャは 彼のそのセリフを最後に、その場から逃げ出してしまっていた。



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