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思いがけない落下

 一階まで全速力で駆け降りたトリシャは、ノックもなしに執務室に飛び込んだ。入り口のすぐ横にある郵便ボックスを覗けば、そこは空だった。


 部屋にヘルマンの姿はないものの、空気は廊下よりも暖かい。つい先ほどまで暖炉に火が焚べられていたようだ。きっと彼は王都に送る書類仕事を終えてこの部屋を出ていったのだろう。


 執務室を飛び出してヘルマンを探そうとしたら、掃除中のミーナを見つけた。こんなところで自分と出くわすとは思ってもいなかったのか、飛び上がらんばかりに驚く彼女に容赦無く詰め寄った。


「ねぇ、ミーナ、ヘルマン様がどこにいるか知ってる?」

「あ、あの、えっと……先ほどおでかけになりました。ゆ、雪の重さでどこかの納屋が崩れたとかで、あの、見回りに……っ」

「郵便は? 確かあとで郵便夫がまたくるってさっき言ってたけれど、もう集荷したのかしら」

「はははははい! 先ほど尋ねてきたので、郵便ボックスにあったものをあっ、あず、預けましたっ」


 震えながら佇むミーナの答えを聞いて、目の前が真っ暗になった。だがここで倒れている場合ではない。


 あの手紙をクレアの目に入れるわけにはいかなかった。なんとかしなければ。それには郵便夫を捕まえて、直接手紙を回収するしかない。


 どうすべきかと必死で考えを巡らせていると、ふと思い出したことがあった。郵便の集荷・集配のシステムだ。リドル領は王都に近い方から西地区・中央地区・東地区に分かれている。郵便夫は西地区からやってきてリドル家のある中央地区を回り、最後に東地区へと向かう。そしてまた中央地区・西地区を下って王都方面へと戻っていくのだ。


 リドル領を行き来するための主要な道路は、屋敷を少し降りたところにある大通りしかない。つまりそこで待ち伏せしていれば、東地区での仕事を終えて戻ってくる郵便夫と出会えるはずだ。


「郵便夫に会わなくちゃ。それで王都に……」


 手紙が届いてしまう前に、なんとしてでも止めなければならない。思いついたトリシャは外へと走ろうとして、はたと足を止めた。今の自分は簡素なワンピース姿だ。冬仕様の厚手の生地とはいえ、これ一枚で外に出るのは厳しい。


 部屋にとって返す自分にミーナが「奥様……!」と声をかけてきたが、それどころではなかった。階段を駆け上がった勢いのままに部屋に飛び込み、クローゼットに直行して一番下にあった箱を引っ張り出す。


「あったわ。クレア様が“絶対必要になるから”って持たせてくれた、冬用のブーツ」


 トリシャが普段使用しているものよりも頑丈な造りで、靴底には雪道でも滑りにくい加工が施されている。見た目のオシャレさはないが実用的な一品だ。


 迷わずそれを履いて外套をまとい、今度こそ外へと駆け出した。すでに雪は降りやんでいるが、一晩で積もったとは思えぬほどの豪雪の跡がそこかしこに見られた。


(雪深いとは聞いていたけど、こんなにたくさん積もるのね)


 白い息を吐きながらも、屋敷の前の道を急ぎ足で降りていく。誰かが雪かきをしてくれたようで、道は示されていたが、雪解け水と混ざって足場はとても悪かった。とはいえゆっくりしていられる状況ではない。


 焦る気持ちと足元とのバランスをとりながら、ようやく大通りらしきところまでたどり着いた。「らしき」というのは、そこが大通りだと確信がもてなかったせいだ。道路は雪で完全に覆われており、かろうじて何かの轍が残っていたために通りであろうと判断できる状況だった。


「たしかこの向こうが東地区よね」


 郵便夫がまだ戻ってきていませんようにと願いながら、少しでも早く手紙を回収したくて東方面へと歩き出した。クレアのくれたブーツは歩きやすいといえば歩きやすいが、そもそも雪道に慣れていないトリシャには重たく、歩くだけでも重労働だ。少し歩いただけで汗が吹き出してきて息も上がる。気温は零度を下回っており、剥き出しになった頬がひび割れそうなほど寒いのに、身体の内だけが熱い。雪を踏み分けるというよりも、雪に沈み込みそうになる足を引っ張り上げながら、なんとか進んでいく。


 どれくらい歩いたのだろう。跳ね上がった心臓の鼓動が苦しくて大きく息を吸い込めば、熱くなった胸に冷たい空気がどっと流れ込んで、寒暖差に激しく咳き込んだ。


 身体を折って前のめりになった瞬間、トリシャのブーツの踵がずぶりと雪の中にめり込んだ。驚く間もなく身体がずるずると落ちていく。


「え、えぇっ!?」


 遅れて上げた声もまた、なだれ込む雪と一緒に飲み込まれていく。気づけばトリシャは深い穴の中に尻餅をついていた。見上げれば白い壁の先のぽっかり空いた穴から、晴れ渡った青空が見える。


 どこかに落ちたのだということは理解できた。けれどいったいどこに?という疑問が湧き上がる。


「わたくし、通りを歩いていたはずよね。いったいどこに落ちてしまったというの?」


 以前馬車で走った大通りは一本道で、周囲には麦畑しかなかったはずだ。何が起きてしまったのか考えていると、ふとヘルマンから聞かされた話を思い出した。


「たしか、大通りの周囲に掘を作ったと言っていたわ。雪解け水を通すためのものって説明があったけれど」


 風車を案内してもらったとき、はしゃいだトリシャが足を踏み外しそうになったあの堀。場所によっては女性や子どもの背丈くらいの深さがあるから気をつけるようにと言われたのだった。


「まさか、その堀に落ちてしまった、の?」


 注意するようにと言われたのに、さっそくそこに落ちてしまう自分。あまりの間抜けさに「なんてこと……」と脱力してしまった。自分としてはまっすぐ通りを進んでいたつもりが、積もった雪のせいで方向感覚がわからなくなり、道を外れてしまったようだ。幸い雪がクッションとなって怪我は免れた。滑った足元も頑丈なブーツのおかげでしっかりと守られた上に、さすがはクレアのおすすめだけあって、雪が染みこんでくる様子もない。


 ただし周囲には雪の壁しかなく、それ以外の情報は何も得られそうになかった。這い上がれないかと試しに腕を伸ばしてみたら、雪がばさりと崩れてトリシャの頭に降りかかった。一部が首筋に入り込んで、冷たさにぶるりと震える。


「下手に動くと雪が崩れてしまいそうね」


 そうなれば自分は埋もれて窒息してしまうかもしれない。どくりと心臓が跳ねて、トリシャは身じろぎをやめた。


 そのまま大人しく雪の壁に身体を預けながら、深々とため息をついた。おかげで少し冷静になれたのか、焦る気持ちはおさまったが、次に湧き上がってきたのはあまりに間抜けな自分への苛立ちだった。


 誤った手紙を投函してしまったこと、雪に慣れていないにも関わらず外に飛び出してしまったこと、足元を誤って掘に落ちてしまったこと。ただでさえお荷物の自分なのに、この数時間でこれほど問題を重ねてしまうなんて、ヘルマンはこんな自分をいったいどう思うだろうか。


 そこまで考えてはっとなり、小さく首を振った。もとより彼には邪険にされていたのだと思い出す。それみたことかとまたトリシャに見えないところで苛立ちをぶつけるのかもしれない。使用人たちも困ったように相槌を打つ姿が想像できて、固く目を閉じた。


 動かなくなったことで体温が下がってきたのか、内に籠っていた熱が急速に引いていくのがわかった。吹き出していた汗は肌着に吸収され、それが冷たくなってトリシャの身体にまとわりつく。寒さまで立ち上ってきてぶるりと身体を震わせた。見上げる空は青いままだが、心なし太陽が翳ってきた気もする。北方に位置するリドル領の昼は短い。天候は変わりやすく、晴れていたと思ったら急に雪が降り出すこともしばしばだと聞いている。


 もし今ここで雪が降り出したら—— 。トリシャ一人分の雪の穴はあっという間に埋もれてしまうだろう。たった一晩でこれだけの雪が積もったのだ。そうなれば自分は外に出ることもできず、このまま生き埋めになってしまう。


 ようやく現実が見えてきたトリシャは、穴の中でなんとか立ち上がり大声を上げた。


「誰かぁ——! 助けてください! わたくし、ここにおりますわぁ!」


 小さな穴の中に自分の声がわんわんとこだまする。はたしてこれで外へ聞こえるものだろうか。だが叫ばないという選択はとれない。喉が痛くなるのも構わず声を上げ続ければ、慣れない大声に声帯が悲鳴をあげたのか声が掠れた。ごほごほと咳き込んでいると、目尻には生理的な涙が浮かんできて、ますます苦しくなった。


 雪深くなれば人は家にこもり、一日をやり過ごす。となれば道を行く人はいつもより少なくなるわけで、このまま誰も通らなければトリシャの声も届かない。


 それに——。


(届いたとしても、誰が助けてくれるの?)


 ヘルマンの思いも使用人の気持ちも、皆“青の方”へと向いている。領民たちもまた“青の方”とまったく違う自分を奇異な目で見て距離をとっていた。


 王命により決まった結婚を、ヘルマンは断ることができなかった。当然離婚も許されない。


 でももし自分の身に何かおきれば? 子爵夫人として務められないような状況に陥れば——話は変わる可能性がある。たとえば、自分が命を落としてしまうようなことになれば、ヘルマンは堂々と新しい妻を迎えることができるだろう。


 身体がガタガタと震えるのを抑えることができなかった。見上げた空はすっかり曇って鈍色へと変わっていた。首元から入り込む寒さを遮るように外套の襟を詰めれば、先ほど滑り込んだ雪が溶けたのか、ひやりと濡れた感触が走って思わず顔を顰めた。


 からからに乾いた喉がひくついて、呼吸すらもひっくり返りそうだった。どれだけ叫んでも誰もこない。だって自分は押し付けられた邪魔な妻だ。自分さえいなければ、ヘルマンはあのもの寂しい仮眠室から“青の方”が暮らす三階の部屋に移って、仲睦まじく過ごすことができる。彼女との間に生まれる子の成長を楽しみながら、ともに食卓を囲んで笑い合うことができるのだ。


 自分の結婚は、実家のためになるならどんなものでも構わないと思っていた。お飾りでも冷遇されてもいびられても、歯を食いしばってでも我慢するつもりだった。けれどヘルマンの妻となりリドル領に輿入れしてきてから、彼が自分にくれる気遣いと優しさにすっかり絆され、気づけば彼のことを好きになっていた。


 今こんなに辛いのは、ひとりぼっちで穴に落ちているからではない。自分が、愛する人の邪魔になっていると知ったからだ。


 だったらこのまま静かに眠るように死んでしまえば、彼のためになるだろうか。


 疲れて弱くなった心がそんなことを考え出す。指先は凍えるように冷たく、身体の震えはおさまる気配がない。


 そのままひとり寒さに震えていると、涙に濡れた瞼がゆっくりと上下し始めた。寒い上になんだか眠たい。先ほどたっぷり朝寝をしたはずなのに、いったいどういうことだろう。こんなふうではまたヘルマンに「碌に仕事もしないいいご身分」と皮肉を言われそうだ。


 それがわかっているというのに今思い出されるのは、あの冷たい怒りを孕んだ本音ではなく、眉尻を下げた優しげな琥珀色の瞳や、口元を押さえて目線を逸らした横顔だったりするのだから、自分も大概だなと思う。


 彼の豊かな表情が好きだった。丁寧な物言いが好きだった。叶うことなら仲良しの夫婦になりたかった。自分はなんて我儘な人間になってしまったのだろう。


 うっすらと遠くなりかける意識の中、ふと自分の名前が呼ばれた気がした。それもいつもの穏やかな「トリシャ嬢」という呼びかけでなく、焦ったような強い声だ。


「トリシャ! トリシャっ……っ! どこにいる!!」


 ざくざくと何かを踏み分けるような荒い音と、慌ただしい人の気配が近づいてくる。その中で一際響く、力強い呼び声。


「トリシャ! 聞こえたら返事をしてくれ、トリシャ——っ!」

「ヘルマン様っ!!」


 枯れた喉からこぼれたのは、ガラスをひっかくように無様な、声にもならぬ声。だがその声は確かに彼に届いた。


「トリシャ! そこにいるのか!」

「ヘルマン、様……っ。ここ、ですっ。げほっ」


 喉はとうとう限界を迎えて、咳しか出てこなくなった。けれど、鈍色の空にさらなる影が差し、トリシャが追い求めたその人の姿がようやく見えた。


「トリシャ! 捕まって!」


 彼が逆さまになりながら差し出してくれた手に自分のそれを重ねれば、手首をぐっと掴まれた。


「領主様! 大丈夫ですかい!」

「あぁ! 引き上げてくれっ」


 そのままずるずると引っ張り上げられたトリシャは、どうにか道の上まで戻ってくることができた。雪の壁一色だった視界が開け、人だかりが自分たちを囲んでいることに気がつく。中にはミーナやカミラの姿もあった。


 自分を心配して探しにきてくれたのかと思い礼を述べようとしたが、痛めた喉からは咳しか出てこなかった。寒さと妙な熱気で朦朧としかけていると、突如として視界が塞がれた。


「よかった……トリシャっ」


 何も見えなくなってしまったのは、ヘルマンの胸に強く抱きしめられたからだった。なぜこんなことに、と頭の中が大混乱を起こす中、人肌の温かさが身に染みて、トリシャの意識は何かに吸い取られるかのように失われていった。



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