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思いがけない目覚め

 まどろむ意識の中で、ふと冷たいものが自分に触れた気がした。


 それは額に触れた後、撫でるように頬へと移っていく。大きなものにすっぽり包まれているような感覚。とても気持ちがいいのに離れていこうとするものだから、つい追ってしまった。手は動かせない、身体も重くていうことをきかない。


 だから顎を反らせて、乾いた唇を震わせて。


「……ダメ、行かない、で」


 まるでガラスを引っ掻くような弱々しい声。自分はなぜこんな声しか出せないのだろう。王都で人気の歌姫のようにとまではいかなくとも、普通の女性らしい声をしていたはずなのに。


 ひどく掠れた声に、けれど去りかけた感触はまた頬に戻ってきた。よかった。大きくて冷たくて気持ちがいい。けれど徐々に温度が上がって、今では自分の頬と同じくらい熱くなっている。それでもいい。熱くても冷たくても関係ないくらい、安心できる感触だから。


「……リシャ」


 今、名前を呼ばれた気がする。トリシャ、と。反応しようと開いた唇を、けれどそっと閉じる。その名を呼ぶ者がここにいるはずないのだ。トリシャをトリシャと呼び捨てにするのは血のつながった家族だけ。皆、王都か遠いノーマン領にいる。嫁いだ先の夫は他人行儀に「トリシャ嬢」と呼んでいた。自分の妻とは認めぬと言わんばかりに。


(彼の愛する人は、なんて呼ばれているんだろう……)


 朦朧とする意識の中、寂しくなってうっすらと目を開ければ、琥珀色の瞳を歪めてこちらを見下ろしている人がいた。アッシュブラウンの髪がいつもより乱れている。かきあげて整えた髪も、無造作に下ろした前髪も、どちらも素敵なことを知っている。優しい色合いの瞳も、下がった眉尻も、すでに見慣れた姿。


 トリシャが好きになった人。でも、好きにはなってもらえなかった人。


 彼の薄い唇が聞き慣れた何かを紡いだ。——いいえ、そんなはずはない。彼は自分のことを伯爵令嬢のままに置いている。


 ただの「トリシャ」と、呼んでくれることはないのだ。





 そうして見開いた目の先に、ヘルマンの姿はあった。


「ここは……」

「……リシャ! あ、いや、トリシャ嬢、気がついたのですね!?」

「……ヘルマン様」

「よかった……! あなたはもう三日も意識を失っていたのです。ひどい熱で」

「熱……」


 言われてみれば身体がだるい。かろうじて口は動かせるが、それ以外は指一本たりとも動いてくれそうにない。


「わたくし、なぜ、熱なんて」

「堀に落ちてしまったのですよ、通り沿いの。憶えていらっしゃいませんか? 助けるのが遅くなってしまい、身体が冷えたようです」


 そう説明されて、ぼんやりしていた記憶がはっきりしてきた。


「そうだわ。郵便夫を追いかけて、それで、王都に……」


 王都に、クレア妃に届いてしまう前に手紙を回収しようと外に飛び出したのだった。思い出したことを口にすれば、自分を見ていたヘルマンが顔を大きく歪ませた。


「……郵便夫は、郵便を届けるのが仕事です。人は、運んでくれませんよ」

「え……?」


 視線を動かせば彼はすでに顔を背けていた。それは何度も見た、口元を抑えて顔だけ逸らせるあの仕草ではない。なぜなら彼の耳は赤く染まってはいなかった。


「ヘルマ……」

「医者がもうすぐ来る時間です。毎日往診してもらっているので。気分がよろしければ何か召し上がってください。この三日間、水分はとらせましたが、何も食べていないのです。カミラに準備させますから」


 言い終わらぬうちに立ち上がった彼は、視線を合わさぬまま大股で扉の方へと歩いていった。呼び止めようとしたが喉が引き攣って、子猫の鳴き声のような掠れた声しか出てこない。


 そんなトリシャの呼び声が届くはずもなく、ヘルマンは部屋を出て行ってしまった。首をわずかに動かしてその後ろ姿を目で追いながら、ここが屋敷の二階の夫婦の寝室だとようやく気づいた。





 その後ヘルマンの言った通り医者が訪ねてきた。リドル領に医者はおらず、隣の伯爵領からわざわざ来てくれたのだという。恐縮して礼を言うと「リドル領の雪道には慣れていますのでね」と穏やかに返された。まだ熱が下がり切っていないこと、寝込んだせいで体力が奪われていること、しばらく安静にして栄養のあるものをしっかり摂ること、峠は越えたので二日後にまた来ることなどを言い置いて帰っていった。


 医者の診察に同席していたのはミーナだった。言葉少なな彼女は、医者の帰宅後、薬と一緒にスープも運んでくれたが、トリシャの身体はひとりで起き上がることもできないほど衰弱していた。スープの美味しそうな匂いに惹かれたものの、口に運ぶ前にすべてこぼしてしまいそうだ。残念だが諦めるしかない。


「ごめんなさい、せっかくお部屋の中まで持ってきてもらったけど……食べられそうにないわ」


 食べられないとわかると余計に未練が募る。けれど自分と顔を合わせることすら嫌がる彼女に、身体を起こして食べさせてほしいとはとても言えない。逃げるように立ち去った夫を呼び戻すのも心苦しい。


 ゆっくりそう告げたのに、喉には長いセリフが負担だったのか、とうとう咳き込んでしまった。なけなしの体力がますます削られていく。


 先ほど医者が水分はとらせてくれたので喉は潤っている。もう一眠りしてしまおうかと瞳を閉じたとき、「お、お、お、奥様……」とか細い声が聞こえた。


「あの、お、お、恐れながら、わた、私が介助させて、いた、いただくことができます」

「……いいの?」


 首を動かして見あげれば、恐縮したように身体を丸めてエプロンを握りしめるミーナの姿があった。顔面は青いどころか紙のように白くなっており、とてもではないが大丈夫そうに見えない。


「無理はしなくていいわ」


 かわいそうになってそう返せば、ミーナはぶるぶると首を横に振った。


「そ、祖母の介護を長くしていまして、お世話には慣れ、慣れているつもりです。あ、あの、私の祖母と奥様を同じだと、そんなふうには全然! 全然思ってないのですがっ」


 語気が強くなったためか、白かった顔に赤みが戻った。榛色の瞳を懸命に開いて訴える彼女を見て、トリシャもふっと詰めていた息をはいた。


「お願いできると助かるわ。スープ、いい匂いね」

「は、はい! カミラさんが三日前から準備していました。いつ奥様が目覚めてもお出しできるようにと!」


 ヘルマンの指示でトリシャを冷遇するよう言われているはずなのに、こんな気遣いをしてもらえるなんてと、瞼の奥がつんとしてくる。


 自分は歓迎されていない女主人。でも振り返ってみれば、彼女たちにはとてもよくしてもらった。毎食美味しい食事が用意され、部屋は快適に保たれ、リネン類はいつも新品で、枕元には花が飾られた。


 ミーナの手を借りて身体を少しだけ起こせば、くらりとめまいがした。慣れているといった彼女の言葉に嘘はなく、背中に当てるクッションを調整して苦しくない角度に合わせてくれた。


 彼女の手から一匙ずつスープを運んでもらう。染み入るような温かさは、今まで食べたどんなスープよりも美味しかった。最後の一匙を飲み終えたトリシャを見て、ミーナが「良かった……っ」と安堵したように微笑んだ。


 ここに来て初めて目にする使用人の笑顔に、あぁもうこれで十分だと、幸せな気持ちが湧いてきた。


 綺麗なウェデイングドレスを着て、素敵な人の隣に立って、輿入れしてきた先で大切に扱ってもらって、初めて恋をして。貧乏で行き遅れていた自分には十分すぎるほどの贅沢な経験だった。


「少し、休みたいの……」


 久々の栄養に身体が満足したのか、それとも薬の副作用か。またしてもやってきた睡魔にトリシャは身を任せることにした。


 次に目覚めたらここを出ていくことを打ち明けようと、そう思いながら——。





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