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思いがけない訪問客

「わたくし、このお屋敷にはもういられません」


 ベッドサイドに座るヘルマンにそう申し出たのは、意識が戻ってから二日後のことだった。


 ミーナの看病のおかげもあって熱も下がり、自力で食事がとれるようになったトリシャは、心に秘めた決意を打ち明けねばと、ヘルマンが部屋を訪ねてくるたび口を開こうとしたが、彼の沈んだ声や表情を前にすると怖くなって、なかなか言い出すことができなかった。


 自分が悩んでいる間にも“青の方”の産み月が近づいていることだろう。早く身を引くべきだと思うのに、うまく言葉がまとまらない。


 結局心を決めるのに二日もかかってしまった。あれほど悩んだというのにいざ口にしてしまえばあまりに呆気なく、言葉足らずになっているのではと不安が増した。


「それは……どういうことでしょう」


 ヘルマンの低い声が地を這う。その目を見ることができず、トリシャは自身の固く握りしめた手だけを見つめていた。


「ここを、出ていきたいと思っています」

「出て、どこに行こうというのです? 王都に帰るおつもりですか」

「王都には戻れません。父や兄夫婦に迷惑がかかりますから」


 王命に逆らって出戻ってくる娘を受け入れられるだけの力はノーマン家にはない。だから自身の今後の境遇について、家族に知らせるつもりは一切なかった。


「わたくしたちの結婚は王命です。離婚はできませんし、別居していることが知られるのは双方のためにもなりません。ですからリドル領のどこかに住まわせていただけたらと思います。もちろん豪華な家でなくてかまいません。領民の皆さんが暮らすような空き家とか、あの、猟師小屋でも十分ですから、いさせていただけないでしょうか」


 以前ヘルマンに案内してもらった森の中にある猟師小屋は、ストーブも備えてあってなかなか快適だった。手狭ではあるがトリシャひとりの生活であれば十分だ。それにあそこなら人里離れているから、領民たちと顔を合わせることも少なそうだ。


 ただの思いつきで口にした話だったが、案外良案ではないだろうか。


そう思っていたのだが、ヘルマンは苛立たしさを露わにした。


「以前お連れした猟師小屋のことですか? あそこで暮らしたいと? できるはずないでしょう。冬場も狩りをする者がいるので多少頑丈には作ってありますが、そもそも人が滅多に立ち寄る場所でもありません。そんなところであなたひとりどうやって生活するというのですか。メイドたちを通わせると?」

「わたくし、ひとりで生活できますわ! 掃除も洗濯も、料理だってできますもの。それに毛織物だって、教われば作れると思います。薪とか食材はわけてもらわなければなりませんけど……でも春になったら畑だって自分で作ります。メイプルシロップ作りもベリー摘みもきっとできます」


 何もできない穀潰しだと思っているのはヘルマンだけだ。自分の家事歴は十年を越えるし、貧乏暮らしだって板についている。ちょっとやそっとで根を上げるようなやわな体質ではないと言い返せば、ヘルマンは呆気にとられたような顔をした。


「掃除も洗濯も、料理も、できる……? いや、まさか」

「嘘だとお思いならお見せしましょうか」

「え? いえ、いいえ! そんな必要はありません!」


 慌てて首を振った彼は、再び表情を引き締めた。


「とにかく、一人暮らしは認められません。あなたはリドル領の冬を知らなさすぎる。ひとたび雪嵐となれば数週間は家に閉じ込められることもあると説明したでしょう。そんな状況でひとりにさせるなんて、絶対にできません」

「ならば春になればかまわないということでしょうか」

「それは……」


 雪国での暮らしを知らない自分がいきなりの一人暮らしは確かに無謀だ。現に道をまっすぐ歩くこともできずに堀に落ちてしまった経歴もある。ひと冬越すためにどれだけの備蓄が必要なのかもわからないし、ほかにも不測のことが起きそうだ。


 けれど春になれば気候の問題は解決する。そのときになれば出ていけるだろうか。


 そう望みをつなごうとすれば、ヘルマンは顔をしかめてため息をついた。


「……ひとまず、あなたはまだ本調子ではありません。今は身体のことだけ考えて養生してください。失礼、私は仕事がありますので」

「あ、ヘルマン様……っ」


 慌ただしく立ち上がった彼はトリシャに一瞥もくれず、そのまま部屋を出ていってしまった。


「どうしましょう、怒らせてしまったみたい……」


 ひとりで暮らせるという自分の認識の甘さが彼の怒りに触れてしまったのか。けれど屋敷を出ていく以外にどんな提案ができただろう。居座っていることを嫌がられ、出ていくことも止められて、どうするのが正解なのかわからない。


(こんな気持ちのまま春まで過ごさなくてはいけないなんて……)


 顔を上げれば窓から見えるのは冬の空。曇天から今にも雪が落ちてきそうな天気だ。


 ここに来るまでは雪が楽しみだった。クレア妃から聞いた雪遊びも犬ぞりも全部試してみたいと思っていた。けれど今は早く溶けてほしいと願ってしまう。部屋はこんなに暖かいのに、心は凍えそうなほどに寒々しい。


(春になったら……きっと明るい太陽が見られるんだわ)


 それまで息を殺して、いるかいないかのように過ごそう。ヘルマンと“青の方”の迷惑に決してならないように。


 そう静かに目を閉じた日から、ヘルマンは部屋を訪ねてこなくなった。翌日も、翌々日も、部屋に姿を見せるのはメイドのミーナだけ。そんな彼女もトリシャが元気になったこともあり、最低限の用事だけを済ませて帰っていく。否、トリシャが彼女を追い返した。


(ミーナは“青の方”の世話も任されているみたいだから、わたくしが独占してはダメよ)


 床払いをした日に礼を告げつつ、もうこなくていいことを遠回しに伝えれば、ひどく苦しそうな顔をされた。最後まで仲良くできないまま春を迎えることになりそうだ。


 冬はあと何日で終わるのだろう。こんなにも太陽が恋しい——。


 閉じこもった暖かな部屋の中で、指折り数えながらまだ見ぬ春を待ち続けた。





 鬱々と時間をやり過ごしていたトリシャの前に、彼女が願った通りの強烈な輝きを持つ太陽が、疾風のような勢いで現れたのは、翌日のことだった。


「トリシャさん、お邪魔するわよ!」

「あなたは……クレア妃殿下!?」


 ノックに対して返事をする間もなく開け放たれた扉の向こう。威風堂々とした佇まいと物事の深淵を見通すような強い青の瞳。


 王城にいるはずのヘルマンの妹・クレアの姿がそこにはあった。


「久しぶりね。風邪をひいて寝ついているって下で聞いたのだけど、大丈夫?」

「は、はい! 恐れ多くも妃殿下にご心配をいただきまして、誠に恐悦至極……」

「そんな堅苦しい話はやめましょう。あなたと私の仲じゃない」

「で、でも……」


 尊い方相手に咄嗟に丁寧な返事が口を突いて出る程度には、自分もまだ淑女らしさを保てていたようだ。けれどなぜクレアがここにいるのかわからない。ここは彼女の実家だからいても許されるのかもしれないが、王子妃という身分でそう簡単に里帰りなどできるはずもない。


 目を白黒させる自分を前に、クレアはにっこりと笑ってみせた。


「細かいことは気にしなくていいわ。ここにいるのは新婚旅行のついでだから」

「新婚旅行ですか? でも、クレア様は南部に行かれるご予定だったのでは?」


 自身の結婚式の前に恐れ多くも王城に呼ばれ、クレアと面会する機会があった。三ヶ月前に成婚したばかりのクレアと第三王子殿下は、王城内での公務の関係ですぐには新婚旅行に行けず、すべて片付けてから温暖な南部地方に出かける予定だと話していた。北へ嫁入りする自分と逆ですねと笑い合ったことは記憶に新しい。


 それを思い出して問えば、クレアは鷹揚に頷いてみせた。


「そうなのよ。だから南部にはジュリアスを行かせてるわ」

「ジュリアスって、第三王子殿下、ですよね? え、新婚旅行で南部にはジュリアス殿下が行かれて、クレア様はリドル領にいらっしゃる?」


 なぜ夫婦が新婚旅行で別々の地にいるのだろう。ますます深まる疑問を、クレアはあっけらかんと笑い飛ばした。


「ほら、世の中は多様性の時代じゃない? 夫婦で別々に新婚旅行に行くのもアリだと思って」

「そ、そうなのですか?」

「そうそう。それに南部の旅行は絶対に外せなかったのよね。あそこの領主ども、何年も税金をちょろまかしている気配がぷんぷんあってね。本当は私が行きたかったんだけど、リドル領で緊急事態っていうじゃない? だからジュリアスに三日三晩不眠不休で手順を詰め込ませて派遣しといたわ。全取りまでは期待しないけど、七割くらいの成果はあげてもらいたいところね」

「はぁ……」


 早口で説明される国のきな臭い情報について問い返す前に、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。


「ク、クレア! なんでおまえがここにいるんだ!」

「お黙り浮気男」

「うわっ!?」


 駆け込んできたヘルマンは、入り口付近で佇んでいたクレアが翻した扇でぴしゃりと顔を叩かれた。勢いのまま二、三歩後ずさった彼は、部屋の様子を見てかっと目を見開いた。


「トリシャ嬢! 大丈夫ですか!? こいつに襲われたのでは……っ」

「黙れと言ったでしょうが浮気男!」


 またしても翻る扇。だが今度は素早い身のこなしで躱してみせたヘルマンに、クレアが思い切り舌打ちした。


「王子妃が舌打ちなんかするんじゃない! そもそもなんでおまえがここにいるんだ、クレア!」

「新婚旅行の途中で立ち寄ったのよ」

「新婚旅行だと? まさかジュリアス殿下もいらっしゃるのか!?」

「彼は南部地方に出かけてるわ」

「なんで新婚旅行先が別々なんだ!」


 あら、やっぱり別々の新婚旅行はアリではないのねと、己の中の常識を軌道修正していると、クレアがポケットから何かを取り出した。


「リドル領で緊急事態が発生したって聞いたのよ。さて、弁明を聞かせていただこうかしら、お兄様」


 二本の指で挟むようにヘルマンの鼻先に突きつけられたそれを見て、トリシャは思わず悲鳴をあげた。


「その手紙は……っ!」


 そう、あの日自分が感情にまかせて書き散らした手紙。誤って投函したまま回収できずにいた青い便箋がそこにはあった。





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