なぜクレアがその便箋を持っているのか、答えは明白だ。トリシャが手紙を回収できなかったがために彼女の元まで届いてしまったということだろう。
あの手紙を読まれたと知れて、顔から完全に血の気が引いた。
(終わった……。なにもかも、終わってしまったわ)
王家が整えてくれた縁談をまともに遂行することもできず、あろうことか不満を王子妃にぶちまけた。ことはトリシャひとりの問題に留まらず、実家のノーマン家にも類が及ぶことになるかもしれない
「なぜ、こんなに早く……」
しばらく寝込んでいたとはいえ、手紙を投函してからまだ一週間ほどしか経っていない。王都にそれが届き、驚いたクレアがこちらに向かったとして、移動時間を考えると辻褄が合わなかった。
「リドル家から私宛の手紙はすべて早馬で届けられることになっているの。逆も然りよ。トリシャさんが最初にくださった手紙も三日後には届いていたわ」
クレアが王子妃となったことでそのような特権が許され、専用の郵便システムが構築されたのだという。ということは自分がまだ目覚めぬうちに手紙は彼女の元に届いていたということになる。
クレアは大きく息をつきながら便箋を揺らした。
「中を見れば大層なことが書かれているじゃない。手紙のやりとりじゃまだるっこしいから直接確かめに来ることにしたのよ。馬で」
「「馬!?」」
驚いて反応したのはトリシャだけではなかった。
「馬って、おまえ、まさか馬車を使わずにここまで来たのか!?」
「馬車じゃどんなに急がせても一週間はかかるでしょう。馬の方が早いもの。それにリドル領はもう初雪を迎えていそうだったから、馬車じゃ足止めされちゃうし」
「だからって王子妃が馬でここまで駆けてきたっていうのか!? はっ! もしや一階でハリーがくたばっていたのは……っ」
「雪の中を馬で進むのは危ないから犬ぞりに乗り換えたのよ、ハリーのところで。彼、久々の操縦だからか腕がずいぶん落ちてたみたい。もたもた走るものだからイライラして途中から
「おまえがまた引きずり倒す勢いで走らせたんだろうが!」
「途中で落としてこなかっただけありがたく思ってほしいわ」
ハリーという名前には聞き覚えがあった。西地区に住まう若い猟師の青年だ。馬や猟犬を飼っている彼なら犬ぞりを所有していてもおかしくはない。
ひとまずクレアが最速でこの地にやってこられた事情は理解できた。応酬するヘルマンの態度を見るに、納得していいことかどうかはわからない。
だがその事情が知れたところで、トリシャの顔色が回復することはなかった。自分が書き殴った手紙を受け取ったクレアが内容に驚き、新婚旅行の予定を変更してまでここに来た。
あまりに恐縮なその裏事情が申しわけなさすぎて、クレアに対し必死に詫びた。謝罪程度で詫びになるとは思えないが、何もせずにはいられなかった。
「クレア様、大変申し訳ありませんでした。あの……その手紙は間違って届けられたもので、真実ではないのです」
「真実ではない? でも、これはあなたの筆跡よね、トリシャさん」
「それはその……はい、そうなのですが、でも、書いた内容が……」
「うちの愚兄が浮気をしているというのは真実ではなかったと?」
「うわっ、浮気だと!? そんな馬鹿なっ!」
「兄さんは黙ってて! トリシャさんとお話しをしているの!」
翻る扇を避けようと後ずさったヘルマンが、バランスを崩してそのまま尻餅をついた。廊下の向こうから「ヘルマン様!?」と誰かの声がする。
「ヘルマン様、いったいどうしたって……え、えぇ!? クレアちゃん?」
「あらカミラ。お久しぶりね。ミーナも元気かしら」
「え、えぇ、それはもちろん……っ! でもなんでクレアちゃんがここにいるんだい? お城から戻ってきたのかい?」
「それは後で話すわ。それよりミーナはどこ? 呼んでほしいんだけど」
「今、下でハリーの介抱をしているよ。玄関でひっくり返ってたんだけど、もしかしてクレアちゃんがまた何かしたのかい?」
「ハリーが軟弱なだけで、私は何もしてないわ」
「してるだろうが!」
カミラとの再会を喜ぶ牧歌的な会話に、ヘルマンが割り込んだ。尻餅をついたままの彼に向かって、クレアは畳んだ扇を鋭く差し向けた。
「さて、兄さんの結婚にあたって、私からお願いをしたわよね。王国中の条件の合うご令嬢の中からこの人ならばと私が選りすぐった花嫁を、丁重にもてなし、生涯大事にするようにと。憶えてらして?」
「そ、それはもちろん……」
「ならこの現状は何? どうして輿入れして一ヶ月も経たない花嫁から涙に濡れた手紙が届くの? 内容が真実ではないとトリシャさんは言ったけれど、この涙の跡までが嘘だとは思えない」
言いながらクレアは手紙の一部をずいっと掲げた。そこにはあの日トリシャが流した涙で滲んだ文字が残されていた。
「ねぇ、兄さん。天地神明にかけて、トリシャさんに隠し事をしてないって誓えるかしら」
「そ、それは……っ」
妹に突き詰められ、あからさまに狼狽えたヘルマンは、何度か口を開け閉めしたあと、大きく顔をしかめた
「し、仕方がなかったんだ。まさかこんなことになるなんて思ってもおらず……。トリシャ嬢には申し訳ないことをしたと思っている。だが、それもすべて解決したんだ! わざわざおまえが出てくることなんてなかったんだぞ。今からでも遅くない、ハリーに送らせるから、急ぎジュリアス殿下の元へ行けばいい」
「ふうん。問題はすべて解決したの?」
「もちろんだ。なぁ、カミラ」
「え、えぇ。ヘルマン様のおっしゃる通り、何日か前にすべて片付きましたよ。私たちも胸のつかえがおりましたとも。クレアちゃんが心配することなんて何もないわ」
視線を交えて安堵し合う二人の姿を見て、トリシャは「そんな……」と呟いた。
「では、私が寝込んでいる間に出産は終わったのですね。その、お二人とも無事だったのでしょうか。赤ちゃんも、ヘルマン様の愛人の方も」
「は? 愛人だって!? トリシャ嬢、いったい何を言ってるんですか?」
眉根をきゅっと寄せるヘルマンに怯んで、思わず頭を下げた。
「ごめんなさい、愛人って言い方がよくありませんでした。えっと、ヘルマン様の恋人、ということでよろしいでしょうか」
「こ、恋人!?」
「はい、あの、三階にお住まいの方です。 “青の方”と呼ばれておられる……」
「“青の方”だと!?」
目を見開くヘルマンに、クレアがすかさず近づいた。
「へぇ、兄さんは三階に愛人を囲っていたと。しかも孕ませているとか」
「馬鹿なこと言うな! そんなわけあるか!」
「じゃあ三階には誰がいるの?」
「誰もいるわけないだろう! あそこには……っ」
言いかけたヘルマンがぱっと己の口を片手で塞いだ。何やらもごもごと唱えたのち、ふと目を泳がせた。
「何もないぞ。三階には何もない」
「あ、っそ。なら見てもかまわないわよね。カミラ、三階の部屋の鍵は?」
「それならミーナが持ってるよ。あの子が掃除係なんだ。だけど……いんですかい? ヘルマン様」
「まぁ、クレアが見る分には……」
「あら、当然トリシャさんも一緒に行くわよ。彼女は子爵夫人なのだもの。屋敷をくまなく見て回る資格があるわ」
「な……っ! それは駄目だ! クレアちょっと待て、事情を説明するから……!」
「ミーナ! ミーナ、いるんでしょ? ちょっと三階の鍵を貸してちょうだい!」
叫びながら廊下を戻っていくクレアを追いかけて、ヘルマンもバタバタと駆けていく。気になって後をついていけば、階段からミーナが上がってくるところだった。
「え、嘘でしょ!? なんでクレアがここにいるの? 聞いてないんだけど……あ! もしかして下でハリーが気を失ってるのって……」
「だからハリーのことはもういいでしょ、みんなして心配しすぎよ。それより三階の部屋の鍵を貸して。今から見にいくから」
「三階って、あの部屋? 大丈夫よ、私、ばっちり掃除してるんだから。チリひとつ落ちてないわ」
「なら急いで私とトリシャさんを案内してちょうだい」
「え、えぇ!? 奥様を? それはちょっとどうかと……」
泣きそうなミーナの瞳がヘルマンとクレアの顔を交互に見る。後ろにトリシャもいたのだが、焦る彼女には見えていないようだった。
迷うミーナにクレアがずいっと顔を近づけた。
「ミーナ、よく聞いて。兄さんと私、どっちに従うの?」
「ミーナ! 鍵を絶対渡すな! 君の雇い主は私だろう!」
兄妹に迫られたミーナはとうとう視線を彷徨わせ始めた。エプロンのポケットに鍵が入っているのか、しきりとそこをいじっている。
「え、えっと、クレアは友達だけど、今はヘルマン様にお給金をもらってるし……」
「わかったわ、ミーナ。お土産があるの。あなたが愛読しているロマンス小説シリーズの新作、ちゃんと買ってきたわよ」
「え! ほんと!?」
「もちろん。ほら」
そう言ってクレアはバッグから一冊の本を取り出した。しかしミーナが手を伸ばすより先にさっと裏に向ける。
「ところで……鍵はそのポケットの中よね」
ニヤリと笑うクレアにミーナが陥落したのは言うまでもないことだった。
「さぁ、これで三階に上がれるわ。行きましょう、トリシャさん」
「待てクレアぁ! トリシャ嬢も、お待ちください! 三階には本当に何もないんです!」
ヘルマンに咄嗟に腕を引かれ、思わず立ち止まる。しかしその手をクレアが払いのけた。
「何もないのかどうかを判断するのはトリシャさんでしょう。兄さんじゃない」
「しかしあそこは本当に……っ」
「ねぇトリシャさん、あなたはどうしたい?」
突然クレアに問われ、はっと顔を上げた。横でヘルマンが息を呑む音がする。
“青の方”の出産が終わったとして、彼女と赤ちゃんがどうしているのかも謎のままだ。赤子の鳴き声などついぞ聞こえてこないから、すでに部屋を出たあとなのだろう。それなのに何もないと言い張りながら、トリシャが出向くことを止めようとするヘルマンの行動には何か事情がありそうだった。
(確かめたい……)
こんな機会でもなければ、自分が三階に行くことはできないだろう。そこにどんな辛い現実が待っていたとしても、今より酷い状況になるとは思えない。
「行きたいです。クレア様、お供させてください」
ヘルマンの方は見ずに、クレアの真っ青な瞳だけを見つめて、そう答えた。