ミーナの誘導を先頭に、トリシャはクレアと並んで三階へと上がった。後ろからヘルマンがうめき声を上げながらついてくる。膝を庇いながらも、気になるからとカミラも続いていた。
「三階にくるのは久しぶりね。三年前は屋敷の痛みがひどすぎて、足を踏み入れることもできなかったから」
三年前というのはクレアがまだリドル領で暮らしていた頃のことを指すのだろう。当時多額の負債を抱えていたリドル家は、部屋数の多い屋敷を管理することにも苦労していた。クレアが女官になるために王都へ出向いた理由も、もとは借金返済のためだったと聞く。
だが今は修繕を終え、三階の廊下は綺麗になっていた。階下に比べれば埃っぽい気もするが、使う人がほとんどいないとなればこんなものだろう。「雨漏りしていて危ないところがあるから」と以前ヘルマンが言ったことを思い出す。またひとつ彼の嘘を見つけてしまい、心が沈んだ。
問題の部屋は三階の一番奥にあった。
「この部屋よ……、じゃなかった、この部屋です」
クレアとずいぶん気安い話し方をしていたミーナが、トリシャの存在を思い出したのか、そう言い直した。自分ひとりを相手にしているときは口数も少なくしきりに恐縮している彼女だが、今は見知った顔に囲まれているためか、いつもより明るい。
そんなミーナが鍵を開け、扉を引く。まずクレアが入室し、自分も後に続いた。
(ここが”青の方“のお部屋……いいえ、もう彼女は出産を終えて引っ越しているのかしら。でも、いったいどこに?)
緊張しながら恐る恐る足を踏み入れたトリシャは、すぐさま「え……?」と口元を抑えることになった。
昼間だというのに薄暗いそこは、6畳ほどの広さしかない手狭な部屋だった。暗いのは小窓がひとつしかないためで、しかもその窓には分厚い布が目張りされており、わずかな日の光さえ遮断されている。
居室というより物置のような小さな部屋に、人の気配はまるでなかった。床は綺麗に掃き清められており、壁一面には本棚が作り付けられ、数冊の本のほかに大量の紙の束がぎゅうぎゅうに押し込められていた。
「ここは、いったい……」
「あら、もしかしてこれ、私の本じゃない?」
呆然とするトリシャの呟きにクレアの言葉が重なった。本棚に近づいたクレアが紙の束を引っ張り出す。よく見ればそれは紐で閉じられた冊子の形をしていた。
「やっぱり! 懐かしいわ。これ、私が八歳のときに写したものじゃない。あ、こっちは十三歳のときに教会の暗算大会で優勝して貰った賞品の希少本! 決勝戦は八桁の掛け算だったのよね。さすがの私も間違えるんじゃないかってひやひやしたわ」
「クレア様の本、ですか?」
つられて彼女の手元を覗き込めば、まだつたない文字で、“だつぜいのしくみ”と書いてあった。冊子を持つのとは反対の手がなぞる背表紙には、“横領の歴史〜国が潰れたゆゆしき金の流れ〜”という文字がある。
「……え、脱税? 横領??」
目を白黒させるトリシャをよそに、クレアは嬉々として本棚を物色し始めた。
「あ! これ、文字を覚えたての三歳のときの写本だわ。“れんきんじゅつのすすめ〜無からおかねをうみだすほうほう〜”。私ったら、“無”なんて単語、よく綴れたわねぇ。こっちは……あぁ、“㊙︎相続税対策全集”じゃない! 兄さんが生前襲爵するときに役に立ったのよ。それにこれと……こっちも! お城に持っていきたかったヤツ!」
弾んだ声で取り出したのは、“離婚訴訟〜夫に制裁を加えた女たち第1巻〜”と、“実録保険金殺人〜夫を⚫︎して第二の人生を掴むまで〜”の二冊だった。朗々とタイトルを読み上げるクレアの声を聞いて、それまで生ける屍状態だったヘルマンがかっと目を見開いた。
「やめろ! おまえの黒歴史を城に持ち込むな! 王家や殿下に二心どころか百心も千心もあることがバレたらリドル家はおしまいだ!!」
「いやぁね、何言ってるの、兄さん。二心なんて抱くわけないじゃない」
「そんな台詞は今握りしめている“国庫の着服”の写本を捨ててから言え!」
「嫌よ! これもう禁書になってるんだから貴重よ、貴重。写しておいてよかったわぁ。国庫なんて一生縁がないだろうからいらないかと思ったんだけど、十二歳の私ってばずいぶん先見の明があったのね!」
大事に懐に写本を抱えるクレアの前で、ヘルマンは事切れたようにがくりと膝を落とした。「終わった……何もかも終わってしまった」とうめきながら頭を抱えている。
そんな彼を見下ろしたクレアは、不思議そうに小首を傾げた。
「そういえば、どうして私が自分の部屋に置いていった大事なコレクションが、ここに移されているの?」
その問いに答えたのは崩れ落ちるヘルマンでなく、ことの成り行きを見守っていたミーナとカミラだった。
「それが、奥様が輿入れしてくる前にここに全部隠すようにって、ヘルマン様が」
「奥様が何かの拍子にクレアちゃんの部屋を覗いてこれらを見つけたら、誤解されるかもしれないからって言ってたかねぇ」
「誤解? 何を誤解するっていうの? 趣味と実益を兼ねて書き写した、ただの写本よ? 別に兄さんの女性遍歴を記しているわけでもなし」
「頼むからありもしないものをでっちあげないでくれ! トリシャ嬢が私のことまで誤解してしまったらどうするんだっ! これを隠したのは、こんな怪しげな本を所蔵する家だとトリシャ嬢に思われたくなかったからだ。そもそも私は処分したかったのに、おまえが絶対許さんと言い張るから……っ」
「処分なんて冗談でも言わないでよ。本を買えるだけの余裕がなかった子ども時代に必死で書き写したのよ? 読み書きを教えてくれていた教会の神父様の弱みを握って、これだけどストライクな書物を集めさせるの、結構な苦労だったんだから」
「だから物騒なことをこれ以上言ってくれるな!」
がばりと復活したヘルマンの額には汗が浮かんでいた。忙しく立ち働いていたときでさえ、これほど焦っている姿は見たことがない。いや、一度だけ見たことがあった。自分がお堀の穴に落ちてしまったときだ。熱と寒さで朦朧としていた瞳に映った彼もまた、こんな表情をしていた気がする。
「あの……このお部屋が、ミーナがいつも掃除していた部屋なの?」
「あ、はい! そうです! クレアの大事な写本が置いてあるから、虫に食われたりしないように埃には注意して……あの、日光で紙が焼けるといけないから、窓もつぶして」
クレアに応対していたときとは一転、緊張が高まったミーナに、トリシャはさらに質問を重ねた。
「では、“青の方”はどこにいらっしゃるのかしら。出産を終えて、ここを出ていかれたの?」
トリシャが発した“青の方”という言葉を聞いた途端、ミーナが驚いたように悲鳴をあげた。
「いけない! 私ったら、クレアはもう王子妃なんだった! あのっ、申し訳ありません! 久々に仲良しの友達に会えて嬉しくて、つい敬語が抜けてしまって……」
「それを言うなら私もだよ。クレアちゃん、だなんて昔みたいにうっかり呼んでしまわないよう、違う名前をつけて呼ぶ練習してたってのに、このザマで」
恐縮してクレアに頭を下げる二人を背後に、立ち上がったヘルマンが厳かに告げた。
「……“青の方”というのは、クレアの別称です。妹の青い瞳になぞらえてつけました」
「え……えぇ!? クレア様のこと、ですの??」
トリシャの悲鳴のような驚きが、小さな部屋に響いた。
一階の応接室に場所を移し、カミラが入れてくれた紅茶を優雅に飲みながら、クレアが「なるほどねぇ」と呟いた。
「王子妃になった私を、今まで通り気安く呼べば不敬罪になる。かといって長年の習慣からクレア“様”と呼ぶのも定着しにくい。いっそのこと違う名前にしてしまえば呼び間違うことも不敬になることもなくなって一石二鳥、と。なんというか……安易ね」
「うるさいっ。もとはといえばおまえが普段からちゃんと子爵令嬢っぽくしていたらこんなことはせずにすんだんだ。苦肉の策だ。……はぁ、どこの世界に領民に呼び捨てにされる令嬢がいるっていうんだ」
前髪をくしゃりと潰したヘルマンが深いため息をつく。
「あら、別にいいじゃない。領民と仲良きことは良きことかな、よ」
「あぁその通りだよ。だが子どもにまで呼び捨てされ、年寄りにはちゃん付けで呼ばれ……許してきた私たちもなんだが、なんでもかんでも馴染みすぎなんだよ、おまえは」
「ほら、私ってば愛されキャラだから? 仕方ないじゃない。王妃様にもクレアちゃんって呼ばれてるし」
「まさか王妃様にもその物言いしてるんじゃないだろうな」
青い顔をしたヘルマンが思わず顔を上げれば、クレアは意味深に笑った。
「それにしても、“青の方”ってネーミングセンスはなかなかじゃない。気品溢れる私にぴったり」
「あ、それ私が考えたの! ロマンス小説に出てくる“赤の方”って貴婦人を参考にして」
クレアから賄賂として渡された小説を掲げて、ミーナが胸を張った。
「名付け親だから責任もって領民たちにも広げておいたわ。今じゃクレアを呼び捨てにしていた子どもたちみんな“青の方”って呼んでるわよ」
ミーナの説明を聞いて、風車の粉挽き小屋で会ったマギーのことを思い出した。たどたどしい口調ながらも確かに“あおのかた”と言っていた。
「それじゃ、マギーが言っていた“青の方と全然違う”というのは、“クレア様とわたくしが全然違う”ということだったのね……」
「え、マギーがそんなことを言ったんですか? そりゃ、クレアとトリシャ嬢はぺんぺん草と白百合くらい違いますよ。比べるべくもありません」
「兄さん、ぺんぺん草とは何よ」
「あぁ、すまない。言葉の綾だ。ぺんぺん草に失礼だった」
「なんですって?」
「ぺんぺん草は世にも怪しげな書物を集めて写本なんか作らないし、貴族の令嬢ながらガキ大将にもならない。その辺の子より粗野だと言われることもなければ、雪道をそりでかっ飛ばして大人を振るい落としたりもしない。とてもまっとうな草だ」
「よく言ったわ兄さん、久々に表に出ましょうか」
紅茶を置いたクレアが、実に剣呑な目をして指をぼきぼき鳴らし始めれば、「だからそういうところだぞ」とヘルマンが悪態づいた。
「トリシャ嬢を見ろ。これが本物の貴族のお嬢様だ。彼女がリドル家で生まれ育ったら、誰もが自然とトリシャ様と敬っただろうよ。私ですら皆敬称をつけてくれるというのに、おまえときたら……」
深々とため息を吐くヘルマンと、つん、と顎を逸らすクレア。そんな二人のやりとりを苦笑いで見ているミーナとカミラの話を総合すると。
クレアは小さな頃から破天荒な性格で、リドル領の子どもたちを従えるガキ大将だった。そんな彼女を領の大人たちはいい意味でお嬢様らしくないと、親しみをこめて「クレアちゃん」と呼び習わしていた。
そのままリドル領で過ごす分には何も問題なかったが、まさかの王子妃という雲の上の存在になってしまった。
さすがに王族を呼び捨てやちゃん付けでは呼べない。しかし長年の癖や習慣はなかなか抜けず、うっかり呼んでしまいそうになる。よそから来た人間に聞かれでもすれば、お城にまでその不敬が届いてしまうかもしれない。いっそのことまったく別の名前をつけてしまった方が、うっかりをなくせるのではないか。
そう考えたヘルマンはミーナに新たな名付けを頼み、領内に浸透させた。ロマンス小説好きのミーナが「小説みたいで素敵!」とはしゃいで徹底指導して回った結果、“青の方”の名前は子どもにまで広がり定着した。
紐解いてみれば実にあっけない真相。頬に両手を当てたトリシャは、自分の大いなる勘違いに真っ赤になった。
「わ、わ、わたくしってば、なんて勘違いを……」
三階にあったのはヘルマンが見られたくないと隠したクレアの写本。 “青の方”という第三者の姿など、初めから存在しなかった。
——だが。
かつて、食堂から漏れ聞こえてきた会話を思い出したトリシャは、目を見開いてヘルマンとクレアを交互に見た。
「ヘルマン様は……クレア様と結婚したかったのですか?」
「は……?」
兄と妹の応酬で賑やかだった応接室に、なんとも言えない沈黙が広がった。