なんでも言ってほしいという勧めを受け、トリシャはおずおずと切り出した。
「あの、わたくしの残したメッセージカードが、みなさんを困らせていたのではないかと」
「メッセージカード、ですか?」
「はい。いつも美味しいお食事を用意してくれたり、部屋を掃除してくれたりすることへの感謝の気持ちを、直接伝える機会がなかなかないので、メッセージを残すようにしたんです」
はじめは使用人たちと意思疎通がはかれたようで嬉しかったものだが、あるときカミラとミーナが、“こんなことをされても困る”と話しているのを聞いてしまった。
そこまで告げるのは気が引けて曖昧に伝えれば、ヘルマンが眉根を寄せた。
「メッセージとはどのようなものを?」
「簡単なものです。今日の夕食のトマトソースが美味しかったのでレシピが知りたいとか、寝室の花の香りがよくてよく眠れたとか。一度ヘルマン様からソースのレシピを頂いたので、伝わっていたのだとは思いますが……」
そう聞いて思い出したのだろう、ヘルマンがカミラの方を向いた。だがカミラは今にも泣きそうな顔をしたまま俯いてしまった。
「そういうことか」
眉根を指で揉みほぐしたヘルマンが、申し訳なさそうにトリシャに向き直った。
「トリシャ嬢。カミラは……文字が読めません」
「え……?」
「カミラだけではない、この屋敷の使用人たちのほとんどが、読み書きができません。だからカードをもらっても、中身を知ることができなかったんだと思います」
「そんな、でも、じゃあどうして」
中身が伝わっていなかったとしたら、レシピが届けられることも、同じ花が寝室に飾られることもなかったはずだ。
トリシャの疑問は、「あの……」と恐縮そうに声を上げたミーナが解決してくれた。
「奥様のメッセージは、私が預かってみんなに内容を伝えていました」
「ミーナは隣の伯爵領の商家の娘なんです。幼い頃から一通りの教育を受けてきたので、読み書きや計算ができます。リドル領には読み書きができる者がほとんどいないので、ミーナには領政の一部も手伝ってもらっています。新しく発布された制作案を領民に伝えたりだとか、そうした簡単なものばかりですが」
そう説明されて、ふとヘルマンと訪れた粉挽き小屋での出来事を思い出した。あのとき領民のひとりが小麦の改定価格に関する資料を持って、ヘルマンに質問をしてきた。彼は「今週はミーナが来ていないので」と言っていたが、あれは彼女がいないために資料を読んでもらえないという意味だったのだろう。
「その、奥様のメッセージを迷惑だとか、そんなことはまったく思っていませんっ」
「そうです。あのとき、“困った話”と言ったのは、せっかく奥様のご厚意をいただいたのに、それを解するだけの学が自分になくて申し訳ない、という意味でして……」
つまり、文字を解せない自分のことが”困った存在”だと、そう言い表していたということだ。
数々の勘違いはすべてトリシャの無鉄砲な思い込みからきたものだったが、その中でもこれが一番、やってはならないことだと思った。
「ごめんなさい! 知らなかったとはいえ、なんて失礼なことを……っ」
文字が読めないことが申し訳ないと、カミラたちにそう思わせてしまった。自分の思いつきの行動がどれだけ相手に無礼だったことか。これはただの誤解や勘違いではすまされない、彼女たちを侮辱する行為と取られてもおかしくなかった。今すぐ過去に戻って、あのときの自分を引っぱたいてでもやめさせたい気持ちでいっぱいだ。
思えば嫁入り前に父からも、“自分の常識を通そうとしてはいけない”と諭されたのだった。思い込みからくる勝手な言動で顰蹙を買ってしまうことを、自分をよく知る父は心配していたのかもしれない。
ソファに座ったまま、膝に頭をこすりつける勢いで謝罪すれば、カミラとミーナが慌てて首を振った。
「奥様、私どもに頭を下げるなんて、そんなことはなさらないでくださいな」
「そうです。あのメッセージ、みんなとても喜んでいて、カードはいつも取り合いだったんですよ」
彼女たちの慰めも、気を遣わせてしまっているように思えて、なかなか頭が上げられない。
そんなトリシャの頭上で、またしてもクレアが「でも、それっておかしいんじゃない?」と口にした。
「トリシャさんが使用人たちに感謝の気持ちを伝えたいなら、専属のメイドに直接言えばよかったじゃない。ミーナが専属になったのではなかったの? そのためにわざわざうちに働きに来てもらったのよね?」
「あぁ、そのことなんだが、トリシャ嬢の専属はまだ決めていなかったんだ。日替わりでメイドたちに担当させて、気の合う者を選んでもらおうと思ってな」
「毎日変わるにしたって、誰かにお礼を伝えるくらいのことはできるでしょう。それとも、何か伝えられない事情でもあったのかしら」
クレアの視線が自分に戻ってくる。どこまで話すべきかと考えあぐねたが、彼女の微笑みながらも強い圧を感じさせる態度に飲まれて、ぽつぽつと事情を打ち明けた。
「その、伝える隙がなかったんです。彼女たちとは言葉をかわす機会もなくて。いつも食事やお茶は部屋の外のサイドテーブルに置いてあって、ノックはしてくれますけど、ドアを開けたら誰もいないので」
「は……?」
「あの、それがこちらのお屋敷の習慣なのですよね? 使用人は主人とはなるべく距離を保つですとか、会話もせずに目線も合わせないっていうのが。でも、それだと少し寂しいなと感じてしまって、それでつい、カードを……」
説明しながら言葉が尻すぼみになっていったのは、クレアの顔から表情が削げ落ちていったせいだった。思うことはなんでも話してほしいと二人から言われて打ち明けはしたものの、これではリドル家のやり方に文句をつけているようなものだ。
失言を少しでも挽回したくて、慌てて付け足した。
「あの、わたくし、要領が良い方ではなくて、慣れるのに時間がかかってしまいますが、こちらのやり方が不満というわけでは決してなくて……」
だがトリシャの言葉はすぐに遮られた。
「兄さん、どういうことなの?」
「待て、私も知らない、今初めて知ったんだ。ミーナたちから、専属を決めるのはもう少しあとにしてほしいとは言われたが、直接話すなだとか、そんな指示は出していないぞ。だよな? カミラ、ミーナ」
ヘルマンの声かけに二人はぴくりと肩を震わせた。
「あの、えっと……」
「その、なんていうか……」
言葉を濁す二人を見逃すクレアではなかった。
「あなたたち、トリシャさんに何かしたの? 集団で……嫁いびりとか?」
「嫁いびりだなんて……! 私らがそんなことするわけないだろう」
「カミラさんの言う通りよ。ただちょっと、本物の貴族の奥様にどう接したらいいのかわからなくて、それで、小説を参考にしただけっていうか……」
「小説ですって?」
クレアに睨まれて、ミーナは胸に抱えていたロマンス小説をさっと後ろ手に隠した。
「いえ、あの、ね。ヘルマン様の奥様は伯爵令嬢だって聞いてたから……もしかして、小説に出てくる悪役令嬢みたいな人がくるんじゃないかって思っちゃって」
「悪役令嬢だと? なんだそれは」
ヘルマンの問いにクレアが「ミーナの好きなあの本よ」と説明した。
「物語のヒロインをあの手この手でいじめ抜く悪役のことをそう呼んでいるらしいわ。私もちゃんと読んだことがないからよくは知らないけど。それで? その悪役とトリシャさんと、どういう関係があるっていうの?」
「このシリーズの悪役令嬢が伯爵家のお嬢様なの。高慢で性格が悪くて、使用人をちょっとしたことで折檻する意地悪なお嬢様で……それで、もしかしたらそういう人がお嫁にいらっしゃるんじゃないかって、そう思っちゃって」
「もしかして、だからトリシャさんと話さず、食事すらまともに受け渡ししなかったっていうの? 彼女が悪役令嬢だと思ったから!?」
「だ、だって、クレアのことを呼び捨てにするだけで、ふ、不敬罪ってことになるんでしょう? だから奥様には失礼がないようにしなきゃって、みんなで話し合ったのよ。そうしたら、“失礼なことをしてしまう機会をなるべくなくせばいい”って誰かが言い出して、それで、お食事を渡したりお出迎えしたりするときも、なるべく目線を合わさずに話もしないようにって……」
「それをお屋敷中のみんながやったのね。トリシャさんに対して」
「えっと、あの、お屋敷の中だけっていうか」
「まだあるの?」
「領民たちにも広めました……」
最後の方は背中を丸めて小さくなったミーナの告白を聞きながら、なぜ使用人や領民たちに遠巻きにされていたのかがようやくわかった。自分は彼らを相手に居丈高に振る舞う高慢なご令嬢だと思われていたのだ。そんな自分の逆鱗に触れないよう、彼らがとった対策が、“なるべく関わらない”というものだった。目線を合わせず、口も聞かなければ、失礼な言葉も飛び出さないと、彼らは判断したのだ。
わかってしまえばこちらもなんてことはない事情だった。思い込みが誤解を呼んで、それがさらなる勘違いを生んだという、さっきと同じ流れだ。
真相がわかったのと同時に、心の底からほっとした。彼らに嫌われているものとばかり思っていたが、そうではなかったことが判明した。
「よかった、わたくし、嫌われているのではなかったのね……。あ、でも、未だにみなさんの対応が変わってないってことは、やっぱり嫌われて……」
「いいえ! 奥様、そんなことないです! 奥様がとても優しい方だって、みんなもう知ってます!」
「そうですよ。ヘルマン様のお嫁さんにどんな方がくるのか、はじめはびくびくしてましたけど、私なんかが作るお料理まで丁寧にほめてくださったのが、本当にありがたくて。ほかの使用人だって、みんな奥様のために働けること、嬉しく思ってますよ」
二人の熱弁を聞いているうちに、込み上げてくるものがあった。こんなに温かい気持ちを返してもらったのは久しぶりだ。
だが感激で瞳を潤ませている自分とは違い、ヘルマンとクレアは実に冷静な目配せを交わした。
「誤解だったことがわかって何よりだけど、さすがにそれだけじゃすまされないわよ、兄さん」
「あぁ、わかっている。ミーナ」
ヘルマンが厳しい声音でミーナの名前を呼んだ。
「今日をもって、この屋敷を出ていってもらう」
「え……」
「ありもしない噂をばら撒き、女主人たるトリシャ嬢への嫌がらせともとれる対応を扇動した。その罪はどうしたって見逃せない」
「そんな……」
感激から一転、泣きそうな顔になったミーナは、縋るようにクレアを見た。だがクレアもまた首を横に振った。
「ミーナ、あなたは友達だけど、これはさすがに庇えない。兄さんとトリシャさんの結婚は王命によるもの。その関係に水を差したあなたを、これ以上ここには置けないわ。あなたを雇い続ければ、リドル家が王命を蔑ろにしたとされてしまう」
「そん、な……あの、私、そんなつもりじゃ」
愕然としたミーナがその場に崩れ落ちる。そんな彼女に手を差し伸べたカミラが、こちらも悲壮な顔で訴えた。
「ミーナのことばかり責めないでやっておくれよ。だって私らには、なんにもわからなかったんだ。私らが知ってる貴族といったら、ヘルマン様とクレアちゃん、それに大旦那様ご夫妻くらいなもんだ。みんな気さくで、私らが何を言っても怒らない、いい人たちばかりだよ。だけどさ、それが世間で言うところの貴族とは全然違うっていうことくらい、無学な私らでも知ってるさ。そんなところに、王都から本物の貴族の奥方様がいらっしゃると聞いて、私らだってどう対応していいかわからなかったんだ。本物の貴族の方のお世話なんて、誰もしたことないんだから」
牧歌的なリドル領で生まれ、そこで育った領民たちは、自分たちの小さな世界しか知らない。そこにいるヘルマンとクレアが、彼らが知る唯一の貴族だ。だがその二人はいい意味で貴族らしくない貴族だった。
「お屋敷が目に見えて綺麗に修繕されて、元は私ひとりしかいなかった使用人が一気に増やされて。だけど形だけ整えたって、中身まで取り繕えやしないもんだよ。私らのほとんどは農作業しかしたことない平民だ。だから、ミーナが教えてくれる情報が唯一、本物の貴族について知る機会だったんだ」
そのミーナとて、伯爵領の出身というだけで、実際に伯爵に仕えていたわけではない。貴族がなんたるかを知らない彼女がその情報を入手できるのは、お気に入りのロマンス小説だけだった。
「私らがミーナに、小説に出てくる貴族のことを教えて欲しいって頼んだんだ。ミーナは私らの頼みを聞いてくれただけさ。領民たちだって、うっかり奥様の逆鱗に触れちまうことを恐れていたから、屋敷ではこうしているって教えてあげたんだよ。決してわざとじゃないし、もしミーナがクビになるっていうんなら、私らも同じだよ」
カミラの捨て身の訴えが訥々と響く。それを聞きながらトリシャは鉛を飲み込んだような気持ちになった。
自分の身分は確かに元伯爵令嬢だが、世間一般の貴族の令嬢とはまったく違う生活を送ってきた。過去の自然災害のせいで領地経営は大赤字を出し、その煽りを受けて家計は火の車。貧乏生活の中、台所に立ち、庭仕事にも精を出す自分は、どう見たって普通の貴族令嬢からはかけ離れている。
その姿が一般的な令嬢らしくないからと、ここに来てからはずっと隠してきた。領民や使用人たちが描く理想の子爵夫人にならねばと、自分を偽り、取り繕ってきた。
もしはじめから本当の自分の姿を曝け出していれば、こんな誤解は生まなかったかもしれない。悪いのはカミラやミーナだけではなく、嘘を重ねてきた自分もだ。
だからミーナひとりが処分されるのは間違っている。カミラが連座させられるのも同じだ。
自分が残したメッセージのせいで、彼女たちを無駄に苦しめてしまった。失礼を働いた分、自分が彼女たちを守ることでお詫びとするべきだ。
意を決したトリシャは、毅然と顔を上げた。思えば何度もこの言葉が喉元まで出かかって、寸でのところで飲み込んできたのだった。
今ここで言うことになるなんて。言えなかった日々は、この日のための練習だったのではないかとさえ思えてしまう。
そんな感傷を押し込め、深く呼吸したトリシャは、ヘルマンの琥珀色の瞳をしっかりと見据えた。
「ヘルマン様、だったらわたくしも罪を犯しました。思い込みや勘違いで空回りした自分こそ、リドル家の女主人として相応しくありません。ですから……わたくしと離縁して、追放してくださいませ」
混沌とした応接室に、トリシャの揺るぎない声が響いた。