「離縁、だと……?」
「はい」
とうとう口にしてしまったと、その事実に指先が震えた。けれど意外にもトリシャの心は凪いでいた。ヘルマンの見開いた琥珀色の瞳が相変わらず綺麗だなと思えるくらい、彼女は冷静だった。
一方のヘルマンは目に見えて動揺していたが、すぐさま落ち着きを取り戻した。
「いったい何を……。いや、確かに私たちの対応にはひどいものがありました。すべて私の責任です。心から謝罪をさせてください。これからはこんなことが起きないよう努めますので」
「ずっと考えておりました。でも、王命による結婚ですからそう簡単に覆せません。ですが、幸いここには今、クレア様がいらっしゃいます。私の落ち度を実際に見られたクレア様が口添えくだされば、話は違ってくるかと思います」
ヘルマンの隣に座ったクレアをちらりと見る。感情豊かな彼女の青い瞳は、物事を冷静にジャッジする目でもある。王族の一員たる彼女の助言があれば、一度結ばれた王命結婚も覆せる可能性があった。そもそもがリドル家が悪い縁を持たないようにと整えられた婚姻だ。当のトリシャが不適合とわかれば、離縁させるのもやぶさかではないだろう。
クレアもそれをわかっているのか、トリシャの提案に「そうね」と答えた。
「すでに入籍を済ませているから簡単ではないけれど、二人が望むなら、私から国王陛下にかけあうことはできなくはないわ」
「待ってくれ、クレア」
「もともと私が第三王子であるジュリアスと結婚したために、二人には無理を言ったようなものだもの。私とジュリアスにも責任があるから、今すぐ城に戻って手続きを……」
「だから待ってくれ!」
声を荒げたヘルマンが立ち上がり、対面に座っていたトリシャの腕をつかんだ。つられて立ち上がったトリシャを、そのまま扉の方へと引っ張っていく。
「あの、ヘルマン様っ」
「これは当事者同士の問題です。外野は置いておいて、二人で話すべきでしょう」
「でも……」
振り返ればそこには崩れ落ちたままのミーナがいた。彼女たちの処遇も中途半端なまま、ヘルマンはトリシャを部屋から連れ出そうとしている。この場を収めるには当主である彼の存在が不可欠なはずだ。何より、妹とはいえ王子妃となった客人を放置するのも無礼な話だ。
だが彼は腕を引く力を緩めなかった。
「誰もついてこないでくれ」
応接室の扉に手をかけたまま低い声でそう告げ、ヘルマンはトリシャを外へと連れ出した。
向かった先は執務室だった。暖炉には火が燃え、執務机には書類がやや乱雑に散らばっている。クレアが到着するまで仕事中だったようだ。
ソファにトリシャを座らせたあと、なぜか対面でなく隣に座ったヘルマンは、前髪を乱暴にかき上げた。
「あの、ヘルマン様」
「なんですか」
「手を、離していただけると……」
座ってもなお彼の左手はトリシャの腕を掴んだままだった。
「離したら……あなたが出ていってしまいそうで。あのときも……熱を出されたあとも、ここを出ていきたいと、そうおっしゃっていましたから」
彼の言葉に、かつて自分が打ち明けた別居の話を思い出した。あのときは離縁は不可能だと思っていたから、猟師小屋にでも住まわせてほしいと訴え、にべもなく断られたのだった。
「猟師小屋に住みたいとは、もう言いません」
クレアの口添えで離縁が叶えば、もうそんな必要はない。ヘルマンが整えたリドル領での暮らしをもっと味わってみたかったが、彼との縁がなくなればここに居続けるわけにもいかない。自分と違って当主の彼は、この先再婚することになるだろう。そうなれば彼の新しい奥さんにも失礼な話だ。
話に聞いていた雪遊びも、カエデの蜜作りやベリー摘みも、羊の毛刈りも、何一つ経験することなくここを立ち去るのは残念だが、仕方ない。
ヘルマンの恋人のことも、トリシャを追い出したいと思っていることも、使用人たちの不自然な態度や嫌がらせも、すべてが誤解だとわかった。
だが、勘違いや誤解ではない、厳然たる事実がほかにもあった。
自分たちは寝室を共にしておらず、白い結婚のままだ。結婚式のキスすら振りで終わらされた。ヘルマンが頑なに仮眠室で寝泊まりしているのはなぜなのか。“青の方”がいないのならトリシャを避ける理由がない。キスをしなかった説明もつかない。
それでも白い結婚を貫く理由は、ただひとつ。
(わたくしのことが、お気に召さないからではないの?)
恋人や好きな人がいないからといって、政略で押し付けられた妻を好きになれるかといえば、そんなことはない。人の気持ちを操作することなど、できるはずもないのだから。
自分は彼のお眼鏡にかなわなかった。だがクレアの口添えで王命が覆せるなら、ヘルマンは自由になって、今度こそ本当に好きな人を見つけることができる。
それが彼にとっての最善とわかっているのに、言葉で勧めるだけの勇気は湧いてこなかった。むしろすべてが誤解だったとわかった今、彼への気持ちはますます膨れ上がって溢れんばかりだ。
どうかすると「このままここにいさせてもらえませんか?」と口から飛び出しそうになるのを防ぎたくて、トリシャはぐっと唇を噛み締めた。
沈黙する彼女のすぐ横で、ヘルマンが低い声を上げた。
「……それが、あなたの望みなんですね」
違う、と口走ってしまいそうになるのを必死で推し留めて、こくりと頷く。ちらりと彼の横顔を伺うも、視線が合うことはない。どこを見てるのかと辿れば、握りしめたトリシャの腕をじっと見つめていた。
「あの、ヘルマン様、そろそろ」
腕を離してもらえないかともう一度頼んでみる。しかしヘルマンの視線は逸れることなく、手に込めた力を緩めることもなかった。痛いということはなかったが、身体の一部に彼が触れているのがどうにもいたたまれない。
「ヘルマン様……」
「クレアの迎えがそのうち到着するでしょう。雪で足止めされたとはいえ、天気もいいですから、訓練された護衛たちなら馬でたどり着けるはずです。彼らが一緒というなら、あなたをお預けできます。郵便夫と違って」
「郵便夫、ですか?」
なぜか突然出てきた名称に首を傾げれば、ヘルマンは小さく呟いた。
「以前あなたは、郵便夫と一緒に王都に戻ろうとなさったのでしょう?」
「……は?」
郵便夫と言えば三日に一度リドル領を訪れ、配達や集荷をしていく係のことを指すはずだ。各地域で雇われた役人のようなものだが、トリシャはこの地域の郵便夫に会ったことはない。
「わたくしが、郵便夫と一緒に王都に戻るんですの? そんなこと、できるんですか?」
「いや、できませんよ。だから私も止めたじゃないですか」
「ですわよね」
いくら思い込みが激しいからといって、郵便夫が人まで運ぶものではないことくらい、トリシャも知っている。思い込みどうこうの前に、ずいぶん非常識な話だ。
さすがにどうかと思って、ヘルマンに掴まれた腕を引いた。ずっと腕に行っていた彼の目線が、ようやくトリシャを捉えた。
「わたくしだってそれくらい知っていますわ。いつそんな突拍子もないことを言ったのでしょうか」
「直接聞いたというか、ミーナに聞いて……待てよ」
はっと琥珀色の瞳が見開かれたかと思うと、トリシャの腕がまたしても引っ張られた。
「あなたが郵便夫を追いかけて屋敷を飛び出したと、ミーナから聞いたんです。“郵便夫を追いかけて、王都に戻る“と、そう言ってから身支度を整えて出ていったと」
「わたくしがそんなことを?」
言われて記憶を遡る。自分ひとりで屋敷を飛び出したのは過去にも一度きり、クレア宛に誤った手紙を投函してしまったあのときだ。執務室の郵便ボックスに手紙はすでになく、通りがかったミーナに「郵便夫はもう来たのか」と尋ねた。回収された後と聞いて、焦って外へ飛び出そうとした。
あのとき自分が口走ったのは確か「郵便夫に会わなくちゃ。それで王都に……」だった。
「誤解です!」
「え?」
弾かれたように叫んだトリシャは、ヘルマンの手をぐいっと引き寄せた。
「あれは、王都に戻ると言いたかったわけではありません。“王都に手紙が届いてしまう前に、回収しなくては”と言いたかっただけです」
中途半端に止めたトリシャのセリフ。それをミーナがその逞しい想像力であらぬ方向に補ってしまったのだろう。
「わたくし、ただあの手紙を取り戻したかっただけで、ここを出て行きたかったわけではありません」
「そういうことか……」
天井を仰いだヘルマンは、自由な方の手で目を覆った。
「いや、先ほどからの流れで、勘違いをするような言動を繰り返していたことがわかったので、もしやこれもと思ったのですが……そうか、これもミーナの誤解だったのか。ははっ、よかった……」
そのまま背もたれに体重をどさりと預けたヘルマンは、乾いた笑いを繰り返した。
「ミーナから聞いたとき、あなたはここの暮らしが嫌で、出て行きたがったのかと」
「そんなこと、あるはずありませんわ。だってわたくし、まだ知らないことがいっぱいありますもの。雪遊びもしていませんし、毛織物の作り方も習っていません。カエデの蜜取りもベリー摘みも、羊の毛刈りだって、全部楽しみだったのです」
ヘルマンに向かって、トリシャはありったけの思いをこめて伝えた。
「でも、こんな私の姿勢もよくなかったのですよね。リドル領のみなさんにとって、雪は楽しむものではなく生活を困難にするものですし、その他の作業だって生きていくためにやらなければならないことです。わたくしのように“楽しみ”と言っているうちは、覚悟が足りていなかったのだと気づきました」
雪が積もる中、堀に落ちてしまったトリシャは命の危険を感じた。雪は決して楽しむだけのものでなく、命を脅かすものだと今なら知っている。そのほかのことについても、楽しみと思っているうちは、まだお客さん気分が抜けきれない余所者にすぎなかった。ヘルマンから他人行儀にトリシャ嬢と呼ばれるのも、仕方のないことだ。
己のいたらなさに落ち込こんでいると、腕を掴んでいたヘルマンの手が下へと降りてきた。そのままふわりと互いの手が重なる。
目線を上げれば、彼の真摯な表情とぶつかった。咎めるのではない、何かを乞うような色に、トリシャの心臓がとくりと音を立てる。
「トリシャ嬢、私たちはずいぶんと誤解を重ねてしまったようです。なので一度明確にしておきたいのですが、あなたは今回の王命による結婚を、不満に思っているのではないですか?」
「まさか、そんなことありません」
「輿入れしてきて、想像と違うと、逃げ出したくなったことは?」
「それもありません。むしろ私も早く仕事を覚えて、みなさんと同じようにできるようになりたいと思っていました」
「我々が重ねたたくさんの失礼も……その、使用人の非礼だとか、屋敷のごたごたなんかを腹立たしく思ったりは」
「すべて勘違いだったことがわかったので、今はなんとも思っていませんわ。思えば使用人のみなさんには、輿入れしてきたときからとてもよくしていただきました」
トリシャが褒めた料理が繰り返し出てきたり、食欲を落とした次の日の朝食が豪華だったり、タイミングを測ったように朝の支度やお茶が運ばれてきたりといった流れが、カミラやミーナたちの心遣いによるものだったと、今ならわかる。
真摯にそう答えれば、ヘルマンは言いあぐねるように軽く咳払いした。
「その、私のことを……夫として相応しくないと思ったりは」
「それこそありませんわ。初めてお姿を見たときから、わたくしよりも背が高い方だわと好ましく思っていました。ここへ来る道中も、わたくしのつまらない話を穏やかに聞いてくださって、とても優しい方だなと感激したのです。使用人たちの仕事ぶりを見ても素晴らしくて、きっと主人であるヘルマン様のお人柄が伝わっているのだろうと思いました。領民たちから慕われているところも頼もしく思いますし、わたくしが堀に落ちてしまったときも助けてくださって、とても頼り甲斐のある方だと……あの、ヘルマン様?」
必死で彼の良いところを訴えているのに、なぜか彼は顔を横に逸らしてしまった。耳がひくひくと赤くなっているところは、久々に見る彼のあの癖だ。
「あの、よくわかりました。もう十分ですので……」
「そうですか? まだほかにも……」
ヘルマンの素敵なところなど一晩中だって語れるのにと思いながら、自分の手元に視線を落とせば、トリシャの手を包むようにして置かれた彼の手もまた、熱を帯びているかのように赤かった。
ヘルマンの大きな、ごつごつした手。結婚式の会場でトリシャに差し出されたあの手の感触を覚えたとき、トリシャの心が音を立てたのだ。働き詰めだった自分の手と似ている気がして。
「……ヘルマン様は、どうなのですか」
「え?」
「こんな早とちりばかりの軽はずみな妻なんて、お気に召さないのではないですか?」
「まさか、そんなことありませんよ! むしろ私には過ぎた方だと思っています」
かぶりを振るヘルマンを見つめる。よく動く形のいい眉と、穏やかな琥珀色の瞳。出会ってから信頼を重ねて、最終的には恋に落ちたこの瞳は、今も自分に向いているようで、それでいてつかめない。
「でも、本当はお気に召さなかったのですよね。だってわたくしたちは……白い結婚ですもの」
ここに連れ込まれる前に振り絞った分で、トリシャの勇気は品切れだ。ひくつく喉のせいで声が震えてしまう。
けれど「白い結婚」という言葉はごまかすことができない事実だった。使用人たちはとっくに気づいているだろうし、クレアにも知られてしまうことだろう。
「ヘルマン様はわたくしに寝室を案内してくださいましたけれど、一度だってそういう意味で訪ねてはこられませんでした。それは、この結婚がご不満だったからではないのですか?」
「待ってください、違います!」
「いえ、いいのです。人の好みはどうこうできるものでもありませんもの。いろいろ誤解は解けましたけれど、結婚の継続が困難というのなら、わたくしは……」
「違うんです、トリシャ嬢! だから私が寝室に行かなかったのはネズミのせいなんです!」
「は……?」
ネズミとははて?と考えを巡らせる。食堂にネズミが現れたことで、自分を夕食に誘えなかった話は先ほど聞いた。ほかにもネズミが出てきたかしらと振り返るが、思い当たる節がない。
「もしや寝室にもネズミが出たのですか? わたくし気づきませんでしたけれど……あ、それが怖くてヘルマン様はおいでになりませんでしたの? ということはヘルマン様が苦手なのは猫ではなくネズミ……?」
「それも違います。猫もネズミも平気です。その、食事すら一緒に取れないのに寝室だけ共にするのは、あまりにもあからさまというか……あなたに失礼な気がして、それでネズミ騒動が落ち着くまでは自重しようと」
もはや耳や手だけでなく目元まで真っ赤にしたヘルマンが、伏目がちにそう告げた。
「でも、結婚式でキスをなさいませんでした」
「あれは緊張しすぎて……。その、どこにキスするのか打ち合わせもしていませんでしたし、初対面でいきなり唇にするのも失礼かとか、いろいろ考えていたら、ベールをめくったあなたと目が合って。こ、こ、こんな人が自分の妻になるのかと思ったら」
「がっかりなさった、と」
「違います! 逆です、逆! こんな綺麗な人が妻だなんて、いったいなんの奇跡かと。もしやクレアの仕込んだ壮大などっきりで、キスをする直前に、“残念でした〜!”と笑いながら囃し立ててくるんじゃないかとか、そんなことを考えていたら力加減を誤ってしまって……気がついたら触れないままで終わってしまいました」
あれほど猛烈に後悔したことはないと唸るヘルマンは、もう片方の手でぐしゃぐしゃと前髪をかき混ぜた。片方の手は変わらずトリシャの手を包んだままだ。
思いもかけぬ裏事情にトリシャもまた言葉を失った。どちらも彼の壮大な遠慮深さからくる行動だった。
となれば、トリシャの胸にひっかかっていた最後の謎も、事情があってのことなのだろうか。
「ヘルマン様は、わたくしのことがお嫌いなのではない?」
「もちろんです。あなたのような方が妻になってくださって、こんな幸せがあっていいものかと思っています」
「それならどうして……わたくしのことをトリシャ嬢と呼ばれますの? わたくし嫁いできてもうひと月近く経ちますのに」
「それは……あなたがここや私との生活に慣れるのを待とうと、そう思ってのことです。王命による結婚で、準備の時間すらほとんど与えられなかったでしょう。追い立てられるように向かった先は、王都とは似ても似つかない田舎で、貴族らしさとは無縁の領地です。私とだって初対面で。あまりに多くの変化があり過ぎて、あなたにご負担なのではないかと」
この話には聞き覚えがあった。秋の終わりの猟師小屋で、彼は自分を気遣ってそんなことを言ってくれた。女性が婚家に馴染むのは当たり前のことなのに、それすらも当たり前と流さずに捉えてくれる彼の優しさに、とても強く惹かれた。
「わたくし、ここの生活が好きですわ。その、まだ信用していただけないかもしれませんけれど」
「いえ、あなたのことを信用できないわけではありません。いや、違うな。私は、怖かったんだと思います。あなたに……拒絶されることが」
言いながらヘルマンは、親指でトリシャの手の甲をなぞった。
「あなたがここでの生活や私のことを嫌って、王都に帰りたいと言い出したら、そのときは快く送り出してやらねばと、そう思っていました。そのとき潔くこの手を離してさしあげるために、できるだけ距離をとっておこうと、そう考えてしまったんです」
どうせいつか手放さなければならないのなら、深入りしない方がいい。彼女は妻でなく一時的に預かった雲の上の伯爵令嬢だったと思えば、傷も浅いままで別れられると、自ら予防線を張った。
そんなことを告白しながら、「だが」とヘルマンは指の動きを止めた。
「あなたにひどいことをたくさんしておいて、こんなことを言うのは虫が良すぎるとわかっています。ですが、叶うならもう一度、一からやり直したいのです。結婚するつもりのなかった私の前に、奇跡のようなあなたが現れました。この縁をもたらしてくれたすべてのものに感謝したい気持ちですし、この手を離したくないと思っています」
トリシャの手を持ち上げたヘルマンは、そのまま口元に引き寄せた。今にも触れそうな距離で思いを告げる。
「トリシャ嬢、どうか、私の妻になっていただけませんか?」
それは、王命による政略結婚の二人の間では省略されていた、初めてのプロポーズ。
「わ、わたくし、勘違いばかりで……自分の思い込みで軽はずみな行動ばかりとってしまいます」
「トリシャ嬢のいいところならいくらでも思いつきますよ。ベールの下から出てきたあなたの美しさには呼吸が止まるかと思いました。道中も世話係がつかなかったのに、不満を言うどころか常に朗らかに過ごされて、なんて気配りのできる方なんだと感心しました。ついてからもゆっくりするどころか、仕事をしたいと言われて、その勤勉さを頼もしく思いました。あなたと出かけて、これが自分の妻だと領民たちに紹介できたのが大変誇らしかったですし、何よりあなたとの毎日の食事が楽しみで、いつもより冬支度もさくさく進みました。ほかにも……」
「あの、わかりましたわ! もう十分です」
顔に熱が集まるのを感じながら、これが誉め殺しというものかと気恥ずかしくなる。掴まれた指先までが赤くなっているように思えて引っ込めようとするも、ヘルマンは決して離そうとはしなかった。
「トリシャ嬢、どうかお返事をいただけないでしょうか」
「……トリシャと、そう呼んでいただければ答えます」
精一杯の抵抗でそう返事すれば、彼の息遣いを指先に感じた。
「どうか私と結婚してください……トリシャ」
「……はい」
小さく頷いた途端、ヘルマンのキスが指先に触れた。驚く間もなく引き寄せられ、彼の胸に抱きすくめられる。
じんじんとする指先の熱が逃げていかないうちにと、新たに湧いた勇気を振り絞って、トリシャは唇を開いた。
「ヘルマン様、その、キスをする場所が間違ってるのではないかと思うのですが」
指先に落とすキスも素敵だが、花嫁へのキスはもっと特別なものだ。そう思いながら顔を上げれば、ヘルマンの琥珀色の瞳に情熱の色が濃く灯った。
「……トリシャ」
呟きが先か、温かな熱が先か。触れ合う二人の先で、庭の木々に積もった雪がとさり、と落ちる音がした。