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思いがけない結末

 重ねた誤解がすべて解け、トリシャとヘルマンの間にあった溝が綺麗に埋め立てられた三ヶ月後。


 まだまだ雪深いリドル領の領主館の厨房で、大量のミートパイが焼き上がった。余熱をとったパイにナイフを入れたトリシャは、断面から焼き加減を確認して満面の笑みを浮かべた。


「よかった! 今回はうまくいったわ。カミラ、見てちょうだい」

「どれ、あぁ、これはおいしそうですね。きちんと焼けています」

「ようやくここのオーブンと仲良くなれた気がするわ。最初は黒焦げだったし、二回目は生焼けで」


 オーブンの使い勝手は各家庭でかなり違う。リドル家の厨房で三度目の正直とばかりに挑んだ今回のパイは、表はこんがりと、中はしっとりと完璧に焼き上がった。


「これでようやくみんなにもご馳走できるわ。カミラ、手伝ってくれてありがとう」

「いえいえ、私は材料を用意しただけで、すべて奥様のお手柄ですよ。それにしてもいい匂いですねぇ。なんだか小腹が空いてきました」

「たくさん用意したから、賄いでぜひふるまってちょうだい」

「ありがとうございます。使用人たちもみな喜びますよ」


 朗らかに会話を交わしていると、厨房の入り口に見知った影が現れた。


「やぁ、すごくうまそうな匂いだな」

「ヘルマン様! 見てくださいな、ちょうどミートパイが焼き上がったんですの。今回こそは自信作ですわ!」


 味見用にと皿に取り分けた一品を掲げてみせれば、ヘルマンが破顔した。


「では、待ちに待ったトリシャの手作りのパイにありつけるんですね」

「えぇ。なにぶんここのオーブンときたら、コツを掴むのが大変で。カミラにも手伝ってもらって、なんとか完成しましたわ。今味見をしようとしていたところですの」

「ちょうとよかった、少しお腹がすいてしまって、ついつい匂いにつられてここまで来てしまいました。今頂いても?」

「もちろんです! お茶も準備しますね」

「いや、待てそうにないから、これをもらいます」


 するとヘルマンは、トリシャが味見しようとフォークに突き刺していた一切れをぱくりと食べてしまった。


「へ、ヘルマン様……!」

「うん、うまい。さすがトリシャの自信作ですね」

「もう、お行儀が悪いですわ」

「もう一口もらってもいいですか?」

「え、えぇ、もちろん」


 さくりとパイにフォークを入れて準備すれば、またしてもヘルマンが食いついた。それを二、三度繰り返しているうちに、いつの間にか手の空いたメイドたちが集まってきた。


「おやおや、仲のよろしいことは結構ですが、できればお部屋でやってくださいな。若い子たちには目に毒ですよ」


 くつくつと笑うカミラの発言にはっと顔を上げれば、まだ年若いメイドたちが真っ赤になって二人のやりとりを見守っていた。


「なっ! いいえ、わたくしたちは別に……っ」

「ほら、トリシャも食べてみてください」

「え……」


 目の前に差し出された一口を反射的にぱくりと食べてしまう。食べてから、それがヘルマンに食べさせていた同じフォークからのものだったことに気づいた。


 今度はトリシャの頬が赤くなる。


「あの、あのっ、このミートパイですけど、お肉がメインではなくて、野菜をたくさん使っていますの! それも人参の皮とか、キャベツの芯とか、玉ねぎの根本のところとか、普通なら捨ててしまうところを余すことなく使っていますので、安上がりなのですわ」


 ごまかすようにレシピを捲し立てれば、ヘルマンは琥珀色の瞳を細めた。


「そうなんですね。私の奥さんは倹約的で、実に好ましい。あなたの好きなところがまたひとつ見つかりました」

「な……っ!」


 ごまかすどころかドツボにはめられて、思わず口を開け閉めすれば、ヘルマンが「失礼」と言いながら指でトリシャの口元を拭った。


「パイのかけらがついていますね。……ん、ごちそうさま」


 拭ったかけらをペロリと舐めてふっと微笑む夫を見て、トリシャの顔がぼん!と音を立てて沸騰した。


「わ、わ、わ、わたくし、パイの差し入れに行ってきますので!」


 カミラが箱詰めしてくれていたパイの箱を抱え、逃げるように厨房をあとにした。


 外出の支度をするために一度部屋に戻ったトリシャは、自分がエプロンをつけたままだったことを思い出した。この格好で階段を駆けあがってきたのかと思うと、いかに自分が慌てていたのかがよくわかる。


 エプロンを外して外套を羽織り、雪用のブーツに履き替える。もう一度廊下に出れば、「にゃあ」という鳴き声が聞こえた。


「あら、ここにいたのね」


 元気よく駆けてきた黒猫がトリシャの足にしっぽをこすりつける。どうやらこちらも腹ペコのようだ。


「これは野菜がたっぷりのミートパイだから、あなたには無理よ。台所にカミラがいるから、そこで何かわけてもらって?」


 かがんで頭を撫でてやれば、またひと鳴きした子猫が勢いよく階段を降りていった。階下で荷物を運んでいた二人のメイドが、駆けてきた猫に驚いて声を上げる。


「アネット。シーラも、ご苦労様。厨房でパイが焼き上がったからぜひ食べてちょうだい」

「奥様、いつもありがとうございます。お出かけですか?」

「えぇ、教会へパイの差し入れに」

「雪かきはすんでますが、足元がぬかるんでいますのでお気をつけて」

「大丈夫よ、すぐ隣だもの」


 玄関扉を開けてくれた彼女たちに礼を行って、トリシャは外に出た。目指すは領主館のすぐ隣にある小さな教会だ。ただし神父は駐在していない。リドル家には彼らを要請できるだけの財力がなく、長らく無人の状態が続いていたが、ここに来て神父を招聘する計画を急ピッチで進めていた。春の作付けの季節には間に合わないが、夏までにはお迎えできそうだ。領民たちの拠り所ができるのはとても喜ばしいことだった。


 道すがら行き交う下男にもご苦労様と声をかける。雪の中、薪小屋から新たな薪を運んでくれる彼を見送って振り向けば、屋根に雪を積もらせたリドル家の大きな屋敷が見えた。


 ヘルマンとの関係が改善されただけでなく、使用人たちとも以前よりずっと親しくなれている。全員の顔と名前を覚えたし、皆もまた、トリシャと目線を合わせて気さくに声をかけてくれる。


 だがその中に、赤毛のおさげ髪を巻き付けた年若いメイドの姿はない。熱を出したトリシャの看病をしてくれたミーナは、三ヶ月前、リドル家を去った。隣の伯爵領の商家の娘で、クレアの幼馴染でもあった彼女は、読み書きの教育を受けている点を評価されて、トリシャの専属メイド要員としてこの家に雇われた。その職分を果たせなかったとみなされ、メイドとしての仕事を解雇されることになった。


 貧しかったリドル家は子どもたちの家庭教師を雇うことができず、ヘルマンとクレアは、伯爵領の教会で無料で開かれている読み書きの教室に通っていたそうだ。ミーナもまたそこの生徒だった。リドル領よりも裕福な伯爵領では、平民の子どもたちの多くが教会で文字を覚えている。だが神父の常駐していないリドル領では、そうした教育体制を構築できずにいた。領民たちが読み書きができない事情がそれだ。


 トリシャの実家のノーマン家も災害に見舞われたことで借金を重ねていたが、親戚の援助もあって教会だけはなんとか維持できていた。少なくとも領都に近いところでは教育を施すことができている。それがどれだけ贅沢なことだったか、今ならよくわかる。


(でもきっと、これからろいろ変わっていくはずよ)


 さくさくと雪を踏み締めながら、箱を落とさないよう、しっかりと抱え直す。雪道歩きにもだいぶ慣れてきたとは思うが、油断は禁物だ。


 坂道を降りて大通りに出れば、まっすぐな道に轍がついていた。そこから外れないよう慎重に歩いていく。両隣にはところどころ赤い旗が立てられていた。そこが道の端であり、その先に堀があるという目印だ。トリシャが誤って堀に落ちてしまったことを受けて、ヘルマンが急ぎ簡易の措置をとってくれた結果だった。ちなみに領民たちの間で「奥様旗」と呼ばれており、その名前を聞くたびに恥ずかしさといたたまれなさで落ち込んでしまうのだが、ヘルマンは「これ以上誰も落ちてしまわないよう、必要な措置です。むしろその危険性を教えてもらえて助かりました」と大真面目に言ってくるし、領民たちも「子どもたちが遊んでいる最中にうっかり落ちてしまう危険が減って助かっている」と本気で喜んでいるのだから、トリシャとしても複雑な気持ちだ。


 そんな奥様旗に守られながら、教会へと到着した。箱を落とさないように注意しつつ扉を開ければ、中から暖かな空気と活気のある声が流れてきた。


「こんにちは。お邪魔しますね」

「あ! 奥様!!」


 トリシャを見つけて真っ先に駆け寄ってきたのはマギーだ。今日は人形を抱えておらず、小さな手には紙が握られていた。


「奥様、見て! マギーが書いたんだよ!」

「あら、とても上手に書けてるじゃない」

「もうひとりで書けるんだ。先生にもお姉ちゃんにも手伝ってもらわなくて大丈夫になったの!」

「まぁ、すごいわね」


 紙に書かれているのはマギーの名前。ところどころ線が飛び出していびつだが、三ヶ月前までは一文字も書けないでいたことから考えると大進歩だ。


「こら、マギー! 奥様、すみません」


 マギーの姉のヴィオラがやってきて、紙ごと妹を抱えた。


「いいのよ。ヴィオラも、文字の練習は進んでいる?」

「はい! 家族の名前はもう書けますし、絵本なら読めるようになりました!」

「すごいわ。上達が早いのね」

「絵本がすごく楽しくて。もっとたくさん読みたいです」


 きらきらと目を輝かせる姉妹を見て、紙やペンだけでなく本も取り寄せた方がよさそうだと算段をつける。紙はトリシャの母方の実家の特産なので安く譲ってもらえたが、本となると高価だから難しいかもしれない。


 何かいい入手方法はないものかと頭をひねるトリシャに、「奥様! 来てくださったんですね!」と元気な声がかけられた。


「あぁ、お待たせしてごめんなさい。パイを焼いていたものだから遅くなってしまって。子どもたちは真面目に取り組んでいるかしら」

「はい! みんなとってもやる気があって、あっという間に覚えちゃいます。計算を練習している子もいるんです」

「まぁ、それは素晴らしいわね。きっと先生の腕がいいのね」

「そ、そんなことありません! 先生と言っても私は奥様の指示通りにしているだけですもの。みんな奥様に褒めてもらいたくて頑張ってるんですよ。だから奥様のおかげです!」


 そう言いながら恐縮したように首を振るミーナの元に、「先生、計算終わったよ!」と男の子が駆け寄ってきた。



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