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思いがけない幸せ

 新婚旅行に向かったはずのクレアが、ひとりでリドル家を襲撃したあの日。


 執務室で互いの気持ちを確認しあったトリシャとヘルマンが応接室に戻れば、クレアとミーナとカミラは三人でお茶をしていた。二人が戻ってきた途端、ミーナたちは慌てて立ち上がり、ソファの後ろへと控えた。


「どうやら関係の修復はできたみたいね?」


 つながれた二人の手に視線をやったクレアが、優雅に扇をはためかせた。


「あぁ、もう大丈夫だ」


 しっかりと頷いたヘルマンは、立ったままクレアに頭を下げた。


「我が家のいざこざにおまえを巻き込んでしまって申し訳なかった。ジュリアス殿下にも、国王陛下にもお詫びのしようがない。簡単に許してもらえるとは思えないが、これからはトリシャと二人でこのリドル領を盛り立てて、おまえに……いや、クレア妃殿下と王家に忠誠を誓うことを約束いたします」


 礼節をわきまえたヘルマンの隣で、トリシャもまた頭を下げた。今回の騒動は元はと言えば自分が書き損じた手紙を送ってしまったことに端を発している。クレアの機転のおかげですべて丸く収まったが、王家に嫁いだ方をこのように振り回すなど、本来は許されることではない。


 もしクレアに“ヘルマンの妻として相応しくない”と断罪されれば、とても辛いことだけれど受け入れなくてはならない。そう覚悟して彼女の沙汰を待った。


「そうねぇ。結果としては丸く収まって、私のメンツも保たれたわけだからいいと言えばいいのだけど、さすがに誰もお咎めなしとはいかないわね。ひとりで南部に旅立ったジュリアスへの報告も必要だし。だから……」


 扇をぴしゃりと閉じたクレアは、立ったままのトリシャたちを順番に見回した。


「今回の騒動で、一番罪が重い人に責任をとってもらうことにしましょう。まずはトリシャさん」

「は、はい!」


 凛とした声に自然と背筋が伸びる。いつもは自分に優しいクレアの青い瞳が、突き抜けるような鋭さを孕んでいた。


「突然の王命結婚と輿入れで大変だったことは認めましょう。ですが、置かれた状況について不自然さを感じたにも関わらず、誰にも確かめずに自分の中で結論づけようとした、その行動はいささか短絡的だったと言わざるをえないわ」

「はい……」


 自分でも散々反省したことではあったが、面と向かって指摘されるとその事実が重くのしかかった。やはりクレアは簡単に見逃してはくれないのだと、胃の辺りがきゅっと痛くなる。


「ただ、兄さんは仕事ばかりであなたを放置していたし、使用人たちも誤解させるような振る舞いをしていたから、仕方なかったとも言えるわ。よってトリシャさんは不問としましょう」

「あ、ありがとうございます……」


 ひとまず自分が離縁されることは免れたのだろうか。だが、まだすべてが解決したわけではない。


「続いてミーナ」


 名前を呼ばれて、控えていた彼女がびくりと肩を震わせた。


「小説に影響されて使用人たちを扇動し、皆で嫌がらせともとれる対応をトリシャさんにしたことはやっぱり許されないわ。さっきも言った通り、このままメイドとして置くことはできないわね」

「はい……」


 消え入りそうな声で頷く彼女の肩に、カミラがそっと手を添える。その状況を見たヘルマンが口を挟んだ。


「わかった。ミーナには悪いが、やはり解雇する方向で……」

「ただし! 今回の騒動において、ミーナよりもさらに悪どい人間がいるわ。王家の肝煎りである婚姻を蔑ろにし、あまつさえ逆らおうとした不届き者を罰せずに、ミーナだけを罰するのはあまりに理不尽」

「不届き者だと? いったい誰のことだ?」

「あんたのことに決まってるでしょうが!!」


 仁王立ちになったクレアはびしりと扇をヘルマンに突きつけた。


「わ、私がか!? いったいなんだってそんなことを……」

「ときに兄さん、あなた、今どこで寝泊まりしているのかしら」


 クレアに迫られ、ヘルマンは及び腰になりながら扇を避けた。


「寝泊まりって、それは、執務室で……」

「トリシャさんは寝室を使っているのに? 兄さんは執務室と。どうしてかしらね。花嫁が輿入れしてきて一ヶ月近く経つというのに、未だ寝室を分けている理由をぜひとも教えてもらいましょうか」

「そ、それは、トリシャ嬢がここの暮らしに慣れるまでは、無理をさせないでいようと」

「すでに入籍もしているのに彼女を令嬢扱いしている理由も、説明してもらいたいわねぇ」

「いや、それは、その……」


 顔を逸らせる実の兄を剣呑な目で追い詰めたトリシャは、彼の鼻先にぴたりと扇を差し向けた。


「王家の婚姻を蔑ろにして遂行せず、なんの落ち度もない花嫁に白い結婚を強いたアンタが一番の極悪人よ! このバカ兄!!」


 叫んだクレアが扇を翻し、渾身の力でヘルマンの額を叩きつけた。





 ヘルマンの形のいい額に棒状の赤い跡がくっきりと刻まれたその後。


 すべての収拾をつけたクレアは、ほうほうの程で迎えにきた護衛たちを引き連れ、ハリーの尻を叩きながら颯爽と帰っていった。帰りの足ももちろん犬ぞりだ。


 クレアが下した沙汰は、一番罪が重いのがヘルマンであり、彼の下で働いていたミーナには情状酌量を与えるというものだった。トリシャだけが無罪放免だ。重罪人とされたヘルマンと、屋敷を解雇となったミーナには、罰として奉仕活動が命じられた。


それが、“リドル領に読み書きが学べる場を整えること”だ。


すでにある教会の手入れをして神父を招聘し、教育体系を構築する。そこには、立派な働き手とされる子どもたちが仕事を休んででも通えるよう、親たちを納得させる条件を整えることまで含まれる。


 とはいえ一朝一夕で進められる話でもない。そこで当面は臨時教師としてミーナが教会で指導にあたることになった。メイドの職を解雇された彼女は教師として、領民たちの教育を担うこととなった。


 一度は崩れ落ちたミーナが、泣き笑いの顔でクレアと抱き合う光景を見て、トリシャもまたもらい泣きしてしまった。叱責されるかもしれないことを恐れながら、それでも寝ついた自分を懸命に看病してくれた彼女の優しさは、勘違いを重ねて疲弊しきっていたあのときのトリシャを確かに救ってくれた。解雇を取り消してやることはできなかったが、新たな職務を得られた彼女は、今もこうして笑顔で働いてくれている。


「みんな、お勉強よく頑張ったわね。奥様がパイを差し入れしてくれたわよ!」

「やったぁ!」

「奥様、ありがとう!」

「ありがとう!」


 リドル領の古びた小さな教会に、子どもたちの元気な声が響き渡った。





 ミーナたちに別れを告げて、ひとり来た道を戻る。奥様旗の横を通り過ぎて、屋敷への坂道をゆっくり登って行くと、道の半ばでヘルマンが待っていた。


「ヘルマン様、どうなさいましたの?」

「雪が降りそうだったので迎えに来たんです」

「雪ですか? でも今日はお天気がよかったはず……」


 言いかけたトリシャの目の前に、ふわりと白いものが舞い降りた。


「あ……」


 先ほどまで晴天だった空は鈍色に変わり、空からひらひらと雪が舞い降りる。


「冬の天気が変わりやすいというのは本当ですのね」

「それもまた、この地の醍醐味ですね。雪が降れば家にこもるよりほかないですから」


 教会から駆け出す子どもたちの姿が、白い景色の向こうに見えた。本格的に降り出す前に今日は解散となったようだ。転げるように走り出す子どもたちは、皆一目散に家路を目指す。家に帰れば暖かな暖炉と、彼らの帰りを待っている家族の笑顔がある。


 たとえどんなに吹雪いても、家に閉じ込められても、ひとりっきりではない。皆で肩を寄せ合い、笑い合って、冬という季節を乗り越えていく。それが、辛く厳しいだけではないリドル領の、温かな冬の過ごし方だ。


 子どもたちを見送るトリシャの頬に、ヘルマンの指が触れた。


「ずいぶん冷たくなっていますね。早く戻りましょう」

「……はい」


 降りてきた彼の大きな手に、手袋をした自分の手が包まれる。手を引かれて導かれながら、目の前の大きな屋敷を目指して歩き出す。


 なぜならここがトリシャの家で、隣にいる大好きな人がトリシャの大切な家族だから。


 帰ったら何をしよう。夕食の準備にはまだ時間がある。みんなパイは食べてくれただろうか。休憩時間がまだあるなら、メイドたちの文字の練習の続きをしてもいい。トリシャがかつて彼女たちに送ったメッセージカード、あの返信をしたいのだとカミラが言い出したことをきっかけに、リドル家でも読み書きの教室が始まった。講師はトリシャだ。お返しにと、カミラからは毛織物の織り方を教えてもらっている。ヘルマンの祖母が使っていたという織り機が物置から出され、厨房の隣の部屋に運ばれた。


 慣れない織り機と格闘しながら、いつか自分も、寝室にあるようなリドル領の四季を描いた織物を作ってみたいと思う。でも今は、まだ見ぬ季節を寝物語に聞かせてくれる夫の横顔を眺めるのに忙しいから、当分先のことになりそうだ。


 歩きながら彼の大きな手をぎゅっと握り返せば、隣を行くヘルマンがぴくりと肩を揺らした。自分よりも背が高い彼の横顔を見上げると、剥き出しの耳が赤くなっていた。


 久々に取り出した真っ白な便箋を心の中に広げてみれば、そこにはもう、余白がないほどにびっしりと、ヘルマンやリドル領のいいところが書き込まれている。


 郵便夫が来る前に、また手紙を書こうと思った。王都にいる父と、遠いノーマン領にいる兄夫婦と、そろそろ新婚旅行から戻ってくるクレア宛に。自分が今どれほど幸せで、インクと便箋がどれだけ足りないくらいなのか、溢れんばかりに訴えよう。


 そう思いながら、温かい我が家の門を潜れば——。


「ヘルマン様、奥様! 大変です、ネズミが出ましたぁ!」


 箒を持ったカミラが玄関で右往左往していた。


「ネズミは冬眠しているはずだろう、なんだって今更……っ」

「わかりません、あ! 今あそこを走った!」

「絶対に捕まえろ! っていうか猫はどうした!?」


 青い顔をしたヘルマンが叫べば、メイドのシーラが「ストーブの前でお昼寝中です」とおずおずと答えた。どうやらおやつをもらって満腹になり、ご満悦で眠ってしまったようだ。


「本当にあいつは碌に仕事しないな! お貴族様のつもりかっ。くそっ! おい、ネズミは一匹だろうな。もし番だったら……子どもができる前になんとしてでも追い出すぞ!」


 言いながらヘルマンがカミラから箒を奪い取る。その光景を見て、自分が家事もできる元伯爵令嬢であることはすでに打ち明けたものの、ネズミが平気なことは伝えていなかったなと思い出した。


「あの、ヘルマン様……」

「大丈夫です、トリシャのことは私が守りますので!」


 力強いその言葉にきゅんとしてしまい、打ち明けるタイミングを失ったままヘルマンのあとを追いかける。


領主を筆頭に、使用人たち総出で始まった捕物劇の行く末は、はたしてどうなったのか——。


リドル家の冬は、まだ半ばだ。


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