王家に嫁いだ妹クレアからヘルマン宛に結婚式の招待状が届いたのは、盛夏の頃だった。
開封して中を見れば日取りは二か月後。リドル領では晩秋とも言える季節で、冬支度の大詰めを迎える時期でもある。結婚式の会場は王都の歴史ある大聖堂。馬を飛ばしたとしても片道四日、往復となれば十日近くの旅程になる。
雪深いリドル領で冬支度はとても大事な作業だった。領主主体で行う、皆で命をつなぐための作業と言ってもいい。そんな大切な時期に領地を空けることの厳しさは、いくら破天荒な妹でもよく知っているはずだ。
にもかかわらずこのようなものを送ってきたということは、それだけ重要な人物の式であるということだろう。子爵家という下位貴族ながら王家に縁づいた妹の立場は、決して盤石とは言えない。この招待もどうしても断れないか、あるいはなんらかのしがらみが絡んだ重要な案件ということなのかもしれない。
妹が王城で安らかに過ごせるなら、この程度の強行はまったく苦ではない。領民たちには無理を強いることになりそうだが、皆「クレアちゃんのためなら」と喜んで理解してくれるはずだ。
そう思いながら、出席の返事をしたためねばとペンをとった矢先。
「ヘルマン様、お久しぶりです! クレアに頼まれて来ました。今日からよろしくお願いします!」
トランクを片手に、隣の伯爵領に住んでいるはずのミーナが訪ねてきた。
「ミーナ、いったいどうしたんだ?」
商家の娘でクレアと同級の彼女とは、教会で勉強を習っていた子どもの頃から面識があった。彼女たちとは歳が離れていることもあって、共に机を並べた期間は短いが、あの破天荒なクレアの言動に物おじせずついていくミーナは、平民とはいえクレアと気が合う貴重な友人で、たまに屋敷にも遊びに来ていた。
だがクレアが女官になるために王都に旅立ってからは、すっかり疎遠になっていた。結婚が決まったあと、少しだけ里帰りしたクレアと手を取り合ってぎゃあぎゃあ騒いでいたのが最後だったと記憶している。
そんなミーナがなぜ急にと、目を丸くするヘルマンの前で、彼女は首を傾げた。
「どうしたって、私、ここで雇ってもらえるんですよね? クレアが手紙でそう言ってきたんですけど。あ! そうだった、ご結婚おめでとうございます!」
「は? 雇う? 結婚? なんだそれは。誰か結婚したのか?」
「いやだ、そんな気の早い。花嫁さんはこれからいらっしゃるんでしょう? そのために私の力が必要だってクレアが……あ、もしかして!」
何かに気づいたかのように叫んだミーナは、一転、声を顰めた。
「もしかして、まだ秘密だったりしますか、ご結婚のこと。やだ、私ったら全然気がつかなくて」
「待て、いったいなんの話だ。秘密とか結婚とか……」
「大丈夫ですよ、ヘルマン様。クレアから全部聞いてますから、私には隠さなくても平気です。任せてください、ちゃんと小説で予習してきましたから。貴族のご婦人にお仕えするシミュレーションはばっちりです!」
意味不明に胸を張るミーナに、ヘルマンはますます疑問を深めた。若い娘の言うことは得てして不明なものだが、長年培われてきた彼の苦労センサーが、この疑問を無視してはいけないと警告した。
「ミーナ、順を追って説明してほしい。君はクレアに頼まれてここに来たと言ったな。いったい何を頼まれたんだ」
「だから、奥様のお世話をするメイドとしてリドル家で働いてほしいって、そう頼まれたんです」
奥様、というワードを頭の中で検索する。主人の妻のことをそう呼ぶものだが、リドル家の奥様と呼ばれたヘルマンの母親はすでに亡くなっている。
もしや商談と称してあちこち放浪している父が再婚したのだろうか。そんな話は聞いていないし、気苦労知らずのボンボン育ちだった気質はさておき、妻一筋で、連れ合いを亡くしてからも浮いた話の心配だけはせずに済んだあの父が、今更再婚などするだろうか。いや、王家の縁続きとなった我が家の婚姻は、すでに一存では決められないところに存在している。いくら父が元子爵とはいえ、個人の勝手で結婚することはできない。
だがもしクレアが了承したならありうる話でもある。そこまで考えて、ふと先ほど届いた結婚式の招待状のことを思い出した。気が逸れてしまったこともあって、誰の結婚式なのかを確認し忘れていた。
急ぎ執務室に戻って、招待状に書かれた新郎新婦の名前を確認した。見覚えのありすぎる氏名を十回は繰り返し読み、たっぷり十秒ほど沈黙したあと——彼は絶叫した。
「新郎ヘルマン・リドルって、私の名前じゃないか——っ!!」
父から生前襲爵した子爵とはいえ、リドル領のような貧乏領の領主ともなれば、優雅にふんぞり返っていられる身分でもない。自分と唯一の使用人であるカミラの食い扶持は己の手で稼がなければならぬほどの、吹けば飛ぶような立場。その上にのしかかる領民たちの生活。決して飢えさせてはならないと、近しい親族の中では唯一まともだった母方の祖父の教えを守り、日々汗水垂らして農作業や領地の改革に勤しんでいたヘルマンにとっては、まさしく寝耳に水の話。
そう、本日は彼の結婚式の日である。
あの衝撃的な招待状が届いてから、忙しさのために領地を離れることができず、王都に出てこられたのは昨晩のこと。花婿が全然見られない形ではダメだろうと、あれやこれやと身支度に揉まれ、碌に睡眠もとれず、迎えた今日の当日である。言葉が若干おかしいのは許してほしいと、切に願うヘルマンだった。
王都に出てくる時間は取れなかったが、妹と手紙のやりとりはかろうじてできた。だからなぜ自分が結婚しなければならいのかは理解している。貴族家の領主ともなれば、自身の都合だけで婚姻が成り立つわけではないことも。勝手に外堀が埋められたことに関して否やはない。
だが。
(何が悲しくて、自分の結婚式を自分宛の招待状で知らされなければならないんだ……)
ヘルマンが忙しいことをわかった上での、効率重視の時短だと、相手も会場も押さえてから知らせてきた妹に文句のひとつやふたつ、十や百言ってもバチは当たらないはずだ。
自身の結婚が決まってから二か月。ただでさえ忙しいヘルマンの日常にさらに拍車がかることになった。花嫁を迎えるために屋敷の最低限の体裁を整える必要がでてきたのだ。たとえば使用人。今まではカミラひとりで事足りたが、王都育ちのご令嬢が来るとなれば、専用のメイドは必須。三食きちんとお出しするためにカミラはキッチン専属にするとして、その他の家事を担う人員を確保せねばならなかった。急ぎ領内の若者を中心に声をかけ、なんとかかき集めたが、とはいえ全員、他家に勤めた経験などない者ばかり。
幸いミーナに話が通っていたこともあり、実家で通いのメイドを抱えていた経験持ちの彼女に、使用人たちの教育を一任することにした。足りないところは自分が補えばいいと、安直に考えてしまったのがヘルマンの第一の失敗。
加えて、あれほど女主人に仕えることを楽しみにしていたミーナが、花嫁の出自が伯爵令嬢だと聞いた途端、頬を引き攣らせた。
「え、奥様って伯爵令嬢なんですか? それって小説の悪役令嬢と同じ……いえ、あの、ヘルマン様、専属メイドの件なんですけど……」
専属は自分が務めるのでなく、花嫁に決めてもらった方がいいのではというミーナの進言を受け入れてしまったことが第二の失敗。
だが重大なミスを犯したことになど、気がつける状況ではなかった。ヘルマンは死ぬほど忙しかったし、何より……緊張していた。
(あのクレアが、“この人ならば”と推すご令嬢……いったいどんな方なのか)
考えれば考えるほど「類は友を呼ぶ」という言葉が浮かんでくる。クレアと非常に馬が合うミーナは、妹と比較すれば格段に素直だが、こうと決めたら突っ走る性格であることをヘルマンはよく知っていた。
仮にクレアそっくりの、破天荒で歩いた後にはペンペン草すら残らないようなご令嬢が来るとしたら……リドル領には似合いかもしれないが、ヘルマンの精神は無事ではないかもしれない。
この婚姻は王命。元より断る権利はない。何よりこの婚姻が、下級貴族の身で王家に嫁いだ妹を守ることになるなら、喜んで応じるくらいの気概はあった。
だが。
(結婚するつもりなんてなかったんだが……意外と夢を見ていたのかもしれないな)
亡くなった母は父の商才の無さも含めて、夫を深く愛していた。妹も第三王子に望まれて嫁いで行った。いつか自分が結婚するとするなら、思いあえる相手がいいと、心の奥底で願っていたのかもしれない。
——願わくば、リドル領と自分のことを好ましく思ってくれる相手であってほしい。贅沢はさせてやれないが、その分、自分は彼女の何倍もの思いを返すから。
バージンロードを歩いてくるウェディングドレス姿の女性を振り返って、ヘルマンが切に願ったこと。
そんな彼が、ヴェールの下から現れた美しい令嬢に見惚れて、誓いのキスを失敗するまで……あとわずか。