部屋の中はファンヒーターのタイマーがしっかりと作動しており、起きる頃にはそこそこ暖まっている。まだ布団のぬくもりを名残惜しんではいるものの、昨日や一昨日のように「うわっ、寒っ!」と叫びながら起きる必要がないだけでもかなり楽だ。遥(はるか)は「よし、今日も頑張ろう」と、自分に言い聞かせるように布団をめくり、床に足を下ろした。
洗面所に向かうため、居間から廊下へ出ると、お決まりのように「うわっ…」と息をのむ。ファンヒーターの暖気が届いていない廊下と洗面所は、相変わらず冷蔵庫並みの冷え込みだ。氷のように冷たい水で顔を洗うと、一瞬で目は覚めるものの、あまりの寒さに頬がピリピリと痛む。東京ではここまでの温度差を日常的に体験したことはなかったが、最近は少し慣れ始めているのも事実。結局この地域に住むなら、この程度の寒暖差は当たり前なのだろう。
支度を終え、ちょっと早めに部屋を出る。今日はついに、雪国で初めての本格的な通勤だ。東京なら電車やバスを乗り継いでいた距離でも、ここではバスの本数が少ない上、駅までも微妙に遠い。結局、会社まで歩いていくことにしたのだが、雪道の不安は拭えない。アパートの玄関扉を開けると、容赦ない冷気が頬を刺し、さらに足元には除雪で固められた雪の壁がそびえている。
「よし、行くか……」
小さく気合を入れ、歩き出す。夜のうちに除雪車が通ったようで、道路は一応アスファルトが見えているが、両脇には高さを増した雪の壁が並ぶ。この風景にも少しだけ慣れてきたが、それでも圧迫感がすごい。空は曇り気味で、光が反射するほどの眩しさはないにせよ、ところどころ路面がテカっているのが見える。これが噂の「ブラックバーン状態」であれば、滑らないように慎重に歩かなければならない。
山下から教わった「小股で、できるだけ重心を前にかける」「焦らずゆっくり」を思い出し、意識しながら足を進める。都会育ちの性分で、つい急ぎ気味になってしまいそうだが、下手にスピードを出して転倒したら元も子もない。何度か足が空転しそうになってヒヤリとしながら、ゆっくりと坂道を下る。普段なら何の苦労もない距離が、雪で何倍にも大変になるのだから、やはり雪国は侮れない。
そうこうしているうちに、道沿いにコンビニが見えてきた。建物の扉のそばで、サラリーマンらしき人がコーヒーを片手に出てくるのが見える。正直、寒いなかを歩いてここまで来ただけで体力を使い果たしそうだ。今朝は部屋で軽くパンを食べただけだから、暖かい飲み物で一息つきたい……そう思った遥は迷わずコンビニの自動ドアをくぐった。
扉が閉まると同時に、暖房の効いた空気が体を包み込む。足元からじわっとぬくもりが伝わってきて、「ああ、極楽だ……」と思わずため息をつく。店内にはおでんや揚げ物の匂いが漂い、レジの電子音がかすかに聞こえる。東京でもおなじみのコンビニの光景なのに、なぜか今はまるでオアシスに来たような解放感がある。
迷わずホットコーヒーのマシンへ向かい、カップをセット。「Lサイズでいいかな……」と、たっぷり注いでレジへ向かう。会計を済ませ、どこか店内をうろうろしてしまうのは、外の寒さに戻るのが嫌だからだと自分でもわかっている。お弁当コーナーをちらりと見ては「朝ごはんもう一度食べちゃおうかな」などと思うが、さすがにそれは行き過ぎだ。
ふと、ここにずっと居座ったらどうなるだろう。暖かい店内、食べ物と飲み物が豊富に揃っていて、雑誌まである。外はあんなに寒くて、ツルツル滑る雪道……。ふいに、「もうここで暮らす?」という変な考えが頭をよぎる。もちろんそんなことは不可能だけれど、「このまま外に出るのやだな……」と弱音を吐きたくなる気持ちも確かにある。
「いやいや、冗談冗談!」
自分で突っ込みを入れ、心の中の叫びを断ち切るように足早に出口へ向かう。自動ドアが開いた瞬間、あの冷たい空気が容赦なく襲ってきた。ホットコーヒーを手にしているとはいえ、外気との温度差があまりにも激しい。思わずのけぞるようにして「くぅ~、寒い!」と声を上げつつも、背中を丸めて店を出る。
外に一歩踏み出してしまえば、あとは意を決して歩くしかない。ホットコーヒーのカップを握りしめながら、小股でそろりそろりと雪道を進む。先ほどの暖かい店内を思い出して「戻りたい……」と一瞬だけ思うが、「もうここで暮らすのは無理だろう」という当然の結論に、苦笑いしてしまう。
しばらく進むと、少し勾配のある坂道を下りきったところに横断歩道があり、その先には会社のビルが見える。朝の通勤時間帯なのか、通りを歩く人もちらほら増えているが、皆が当たり前のように滑らずに歩いているように見えて、雪国の底力を感じるばかりだ。どこかの高校生らしきグループが、雪を蹴散らしながら楽しそうに声をあげているのを横目に、「自分もこんなふうに余裕を持って歩けるようになるのかな」と思う。
そして、ついに会社のビルの玄関が目の前。朝のラッシュでごった返す東京の駅とはまるで違う光景だけれど、氷点下の街を歩いてここまでたどり着く達成感は、想像以上に大きい。息をひとつ整えて自動ドアを開けると、中からは暖房の暖かい空気が流れ出し、緊張していた体が一気に緩む。
「おはようございます。」
ロビーにいる受付スタッフに軽く会釈する。雪道を乗り越えたおかげで、すでに軽い疲労感を覚えるが、何とか気力を振り絞ってエレベーターへ向かう。東京時代なら、まだ朝8時台にもなっていないのに「疲れた」なんて思うことは滅多になかった。ここでは雪かきや慣れない道のりでエネルギーを使ってしまうのだろう。だが、その分「やりきった感」が強く、自分の中に小さな自信も芽生えている気がする。
デスクに荷物を置き、コーヒーをひと口飲む。外で凍えそうになっていた頃よりは温度が下がったものの、まだ十分に温かい。「コンビニで暮らしたい」なんて突拍子もない考えが脳裏をよぎったことを思い出し、苦笑いが漏れる。いくら店舗が暖かくて便利でも、そんなわけにはいかない。やはり自分の生活基盤はここにあるし、会社に行かなくては仕事もできないのだ。
「でもなあ、あのコンビニのぬくもりは本当に天国だった……」
誰に聞かせるわけでもなく、ひとりごちてみる。すると、朝のミーティングが始まる時間になり、同僚の菜摘や先輩たちが続々とやってきた。みんな普通に「おはよう」と声を掛け合い、当たり前の顔をしている。きっと雪道も含め、これが日常なので、わざわざ大騒ぎするほどのことでもないのだろう。そんな中、遥だけが「コンビニに住みたい」だの「外気が冷蔵庫レベル」だのと心の叫びを抱えている。
それでも、その心の叫びを振り切って外に出る勇気を振り絞り、きちんと出勤している自分に、わずかながら誇らしさを感じる。雪国での暮らしはまだ始まったばかり。いつかはコンビニの暖かさより、家のこたつやファンヒーターの居心地を大切に思う日が来るかもしれない。だが、当面は「外寒すぎ→コンビニ天国→でも出るしかない」というこの繰り返しを積み重ね、少しずつ慣れていくのだろう。
同僚と挨拶を交わし、パソコンを立ち上げる。外は相変わらず雲が多いようだが、これからどうなるのか。午後にはまた雪が降るという予報を山下が昨日言っていたことを思い出す。こんな寒さがいつまで続くのか考えるだけでも大変だが、とにかく今は目の前の仕事に集中すべきか。コンビニで暮らしたいという、わけのわからない夢を振り払いながら、「よし、頑張ろう」と自分に言い聞かせる。
こうして、遥の通勤は無事に成功——と呼んでいいのかは微妙だが、少なくとも大きな転倒やハプニングは起こさずに済んだ。だが、この地の長い冬はまだまだ続く。明日はまた別のルートを試すか、もしくは時間帯を変えてみようか……そんなことを考えながら、遥はゆっくりとキーボードを打ち始めるのだった。