数学は、わたしがこの世界で一番に愛するものだ。
数学は少年だったわたしの魂を震わせ、自分の人生のすべてをこれに捧げるのだと幼心に誓わせた。
わたしはそのうち屋敷の使用人のひとりに数学の面白さを問われた。あまりにわたしが熱中しているので興味を持ったのだという。
わたしは純粋に嬉しかった。使用人であっても学ぶことが許されないはずはない。わたしが話して聞かせてやったいくつかの数学の奇跡に、彼女は目を輝かせた。
使用人でありながらも、彼女には並外れた感性と聡明さの色があった。そう気付いた私は、やがて彼女の微笑みにさえ心を惹かれるようになっていったが――わたしが寮での学生生活に移ることとなった後に彼女は家庭の事情で職を辞した。
その後わたしが数学者として成功し、一角の大学教授となった頃。
彼女が再びわたしの前に現れた。新聞でわたしのことを見たので、それを頼りにして来たのだ。しかしその身体はぼろぼろで精神にも傷を負っており、とてもかつての輝きを持った彼女とは思われなかった。
理由を問うと、次に勤めた貴族の屋敷でひどい差別と虐待とに晒された結果だという。あまりに残酷な仕打ちに、わたしは胸を潰される思いがした。
わたしは自覚していた愛情から彼女に求婚したが、彼女はそれを拒絶した。今や著名な数学者であるわたしの汚点になりたくないというのだ。そして彼女は言った――代わりに子を成し、その子をわたしに愛してもらいたいと。
馬鹿げた提案だった。わたしはそれをこそ拒絶した。わたしは彼女を愛したのだ。そんな子供が生まれてくるよりも共にあってほしいと伝えたが、彼女は決して肯かなかった。
彼女の命は儚く、わたしはついに彼女の望みを聞き入れた。彼女は衰弱しながらも子を命懸けで産み、そして死んだ。
わたしは彼女を傷つけた貴族を、悪人を憎んだ。今まで数学に熱中してきた自らの頭脳を、これからは悪を自らの手で糺すため――ひいては世の秩序のために使わなければならないと思った。それが実行できるだけの頭脳が自分にはあり、それが残された自分の使命なのだと。
産まれたのは娘だった。
娘の瞳の輝きは彼女の母によく似ていた。あの微笑みに宿っていた光。崇高な精神の煌めきを、確かに彼女は受け継いだのだ。
わたしは自分自身の厳しい使命を達成するため、この善良な娘のことは所謂貴族の嫡男である兄の子として育てることに決めた。
娘には生来の聴覚障碍があったが、それを知ったわたしは愛した女性を傷つけた世界について再考した。
この醜悪な世界。
聞かなくてもいいようなことを聞かずに済むのなら、それはむしろ救いではないだろうか。ついそんな風に思うほどわたしは世界に失望していた。
そうだ、たとえ娘がどうあれ――これからのわたしを見て愛してくれるのか、憎むかにさえかかわらず――あの愛情は、この愛は、決してわたしの人生から失われない。一度は生まれてくることを拒んだ娘を、二度と誰にも傷つけさせない。
こうして数学は、わたしが世界で二番目に愛するものとなった。