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モリアーティ伯爵令嬢 01

 私の世界には、音がない。

 アザリー・グレイス・モリアーティ。モリアーティ伯爵家の一人娘だ。年は十二歳と十一ヶ月。

 持って生まれた性質で、「無音」の中で生きながらもう十二年が経った。けれどそれは私にとっては普通のことであって、この状態を病などという概念や「聞こえない」という否定の言葉で表すには違和感がある。

 家族の声。使用人たちの声。そもそも「声」とはどういったものなのか? そんなことさえ分からないのだから、それこそ幼児だった頃はさぞ家族を困らせただろうと思う。

 私のこの性質の原因は、亡くなったお母様からの遺伝ということだ。

 耳の内のほうの形成異常で、お母様が私を産んだ際に患っていた病によるらしい。症状は重く出てしまったようだけれども、もう少し成長すれば手術をすることができる。そうすれば今より聴力が回復する可能性も十分にあるそうだ。

 それならそれでいいとも思う。ただ今のところは、便利を知らないので不便とも思わない――といったところ。

 自分に与えられたアザリーという名前。これがどんな響きを持つのかも分からない。響き、とは何かも。

 とはいえ私には「聴力」が欠けているだけなのだから声を出すことはできるはずだった。

 生まれたときにもきっと産声をあげたことだろう。でも発したことさえ自覚できない自分の声は今のところ内心の恐怖をあおるだけで、どうにもままならない。

 一度。

 一度だけ、幼いころに声を出そうと試みたことがある。けれどそのとき何かが喉の奥に絡まり、息が詰まるような感覚に襲われた。そのときの恐怖は今でも鮮明に思い出せる。

 意識すれば声が出るというようにも、無意識のうちに声が出るというようにも、どうやらこの身体はなっていない。きっと喉が、私の「ためらい」が、未知の音を吐き出すのを拒否しているんだろうと思う。

 声を出さずに思考し続けてきたからか、大人びた子だと悲しげに言われてしまうこともある。

 でも障碍があるからといって、私は周囲の人と関わるのが嫌いな訳ではない。出来ることならば話をしたいし、屋敷にいる全ての人たちに感謝している。なぜなら私は両親に与えられた私自身を取り巻く環境を心から愛しているからだ。

 だって、私はお母様のことを恨む理由がない。お母様は私を産んだときに身体が回復せず亡くなった。そのことに対する罪悪感はもちろんあるけれども、私の心はいつでもお母様へ無条件の愛情を感じている。

 お父様は――お母様を失っても、私のことを大切に育ててくれている。お父様は高名な大学教授でロンドンの屋敷にはたまにしか帰ってこられないけれど、たびたび愛情に溢れた手紙をくれる。そして会えた時には、言葉少なに私のことを宝だと言って深く頷いてみせるのだ。

 この愛に報いず、私がどうして生きていかれるだろう?


「〈お嬢様〉」

 少し肌寒い日の、それでも午後の暖かい陽光が窓から差し込むころだった。家庭教師による授業の後、ルーシーが部屋に紅茶を運んできてくれた。

 ルーシーはお父様が特別に見つけてきてくれた、手話を扱うことのできるメイドだ。彼女は私が生まれた後でこの屋敷に雇われ、私が不自由なく暮らせるよう取り計らってくれている。

 お父様が手話に明るい家庭教師とルーシーを雇ってくれたおかげで、私は普通に生活できるのだった。

「〈今日は、数学を教わる日でしたね?〉」

「〈ええ! とても面白かったわ。やっぱり私、数学が大好き〉」

 貴族の子女が家庭教師から教わる内容は家の方針によるところが大きいけれど、数学まで教えるのは稀なことのようだ。

 これも、お父様の計らい。

 数学の権威であるお父様は娘の私にも数学の楽しさを教えてくれた。そして面白がる私をみとめて、専用の家庭教師までもを付けてくださったのだ。

 数学は楽しい。学んでいると大人になったような気分になれる。あらゆることへきちんと説明がつく、そんな完璧なところが大好きだ。誰かに話したくなるような美しさ。お父様とも話したいが、ルーシーにもわかってほしい。

 私は早速仕入れたばかりの知識をルーシーに伝え、彼女はそれを今日もいつも通りの笑顔で受け取ってくれた。

 そして私がひととおり話し終えて満足した頃、彼女は手話でこう語りかけてきた。

「〈そういえば、お嬢様。本日の夜、ラインハルト様から大切なお話があるということですよ〉」

「〈お義父様が?〉」

 ラインハルト様――〈お義父様〉。

 このロンドンの屋敷で私と共に生活してくださっている私の「父」、お父様の兄にあたる方だ。

 お父様は私が生まれる時にお母様を亡くしたため、私を「何の問題もない」伯爵嫡男の子女として育てるために、すでに結婚していた兄に私の「親」となってくれるよう頼んだのだという。お二人は私への同情から、快く申し出を受けてくださったと聞いている。

 今の私からすれば、過ぎた気遣い。

 おかげで私は表向き、自分の屋敷の中でさえラインハルト様の実の娘として――そう、「伯爵家嫡男の子女」として生きることになった。とても仲の良いご兄弟である二人ともを実質父親と思って育てられたし、今やそういうものなのだと納得している。

 けれど、貴族としての体面などよりお父様の娘だと胸を張っていたい気持ちだって確かに持っている。

 しかしお父様は私が妻のない大学教授の娘としてではなく、一人の伯爵令嬢として生きていくべきだと譲らなかったのだ。

 私に文句を言う資格はない。だって私はそれで貴族の娘としての恩恵を存分に受けているのだから。本当ならお父様は自分が本当の父であることさえ隠したかったらしいのだが(なんて残酷なことだろう)、ラインハルト様がそこまでの不義理は絶対に許さなかったそうだ。

 父として振る舞え、父なのだから、と、固く言われたとか。

 ラインハルト様はそういう、誠実で真摯な方だ。本当の父親と思ってくれて構わないと言い、いつも優しく接してくれる。とてもありがたい。だから私はラインハルト様を「お義父様」と呼べるのだ。

 こちらも、罪悪感を内々に抱えつつ。

「〈はい。夜になりましたらお部屋までお送りいたしますね〉」

「〈お義父様のお話って、なんだと思う?〉」

「〈私には、想像もつきませんが……〉」

 ――お義父様の奥様は、私がこの家に引き取られてすぐ、不慮の事故で亡くなられてしまっていた。

 だから私は、奥様とは一度も言葉を交わすことができなかった。お義父様は私という存在が残ってくれてよかったと言ってくれたけれど、そのときの私は恐ろしくて仕方なかった。私が来たからこんなことになってしまったんじゃないかと考えないわけにはいかなかったからだ。

 私が来たことで奥様をなにか思い悩ませ、それが事故に繋がってしまったのではないか?

 娘が産まれたと社交界で周知してしまってからの事故だったため、お義父様は引き返すこともできずに娘を抱えた寡夫になってしまった。再婚にも支障があるのかもしれない。いつもここまで考えて、私はあまりのことに思考を中断してしまうのだ。

 こんなこと、誰にも確認できない。お義父様にだって気まずくて伝えられない。

 私が来なければよかったのでしょうか、なんて、聞けるわけがない。

 ごめんなさい、とずっと思っている。

 それなのに育ててもらってありがたいとも。

 だからこんな呼び出しがあると少し身構えてしまう。話とはなんだろう? 私がもうすぐ十三歳の誕生日を迎えるという事実が、このときは余計に怖かった。

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