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モリアーティ伯爵令嬢 03

 お義父様は私に真実を隠していた。アイラ様とその実家である名門伯爵家は、大変な悪事に手を染めていた。アイラ様と結婚し生活を共にするうち、お義父様はその悪事に気付いたのだという。

 人身売買。

 この大都市ロンドンでもしばしば問題になっていたことらしい。

 貧しい家の子や身寄りのない子供を攫って貴族や悪人に売る。およそ人間の所業とは思えないけれども、とんでもない大金になるので手を染める者がいるそうだ。貴族までもがそんなことに手を出すなんて、とても信じられないことだった。

「〈嘘……だってアイラ様は、伯爵家のご令嬢なのに?〉」

「〈貴族だからこそ、人脈を利用して悪事に加担していたようだ。ただの人攫いどもにはできなかったことだ〉」

「〈どうして、アイラ様の悪事に気付いたのですか?〉」

 私が尋ねると、お義父様は静かに目を伏せた。途端に、「人身売買」という単語の持つ悍ましさが背中を駆け上がってくるような気がした。「それ」に気付くまでに何があったかなんて、想像もしたくないと思ってしまった。

 目が合い、私は静かに首を振った。質問を取り消したいという意志はそれだけで伝わった。

「〈愛していたからこそ、私は彼女を余計に許すことができなかった。君を引き取ることを快く受け入れてくれた、そんな心の温かい女性だと思っていたのに――それも全て、自分のしていることへの後ろめたさからだったと知った〉」

 お義父様はアイラ様を苛烈に問い質した。

 人身売買の悪を。実家ぐるみの悪事を。お義父様の怒りは強く、アイラ様は弁解する余地もなかったという。

 そしてその翌朝、アイラ様は誰にも告げず一人で外出し、その先で交通事故に遭った。

 命を落としたのだ。

 奪ってきた尊厳と命の代償のように。

 私は、あまりのことに手を動かすことができない。

「〈きっとあれは、自殺だったんだと思う〉」

 手話であっても、その単語は暗く重かった。「響き」というものがあったら、私はその単語の持つ力に耐えることができなかったかもしれない。お義父様のその時の感情を想像するだけで泣き出してしまいそうだった。

「〈当時、結婚して一年と少し。それに君を引き取ってすぐのことだった。だから、君が成長してからアイラの死んだ時期を聞いてしまって、変なふうに自分を責めるだろうことも予想できていた。それでも……あまりに幼い君に、真実を伝えることはできなかったよ〉」

 お義父様は悲しげに首を振った。申し訳ない、と頭を下げられる。でもお義父様がそんなことをする必要はないと思った。だって私は勝手に落ち込んでいただけだ。

 私を引き取った奥様が後悔して、それで、悩んでいるところを不慮の事故に遭ったんじゃないか。そんな、子供の精一杯の想像だった。事実はもっと残酷で、私の知識で補えるようなものではなかった。

 お義父様が抱えていた壮絶な問題や残酷な事実から、本当は守ってもらっていたのに。

「〈恥ずかしいことに、彼女の死後発覚したこのスキャンダルは当時社交界でも大きな問題となってね。当然向こうの伯爵家は没落、私は未だに同情から再婚の話が来る煩わしい身というわけだ。だが、こんな話を君が社交界デビューする寸前まで寝かせておくわけにはいかないだろう?〉」

「〈再婚……されるのですか?〉」

「〈いち伯爵の身としては、望まれてやまないところだろうね。私はもう結婚など御免だが〉」

「〈私がデビューしても、社交界ではアイラ様のお話が出るのでしょうか〉」

「〈君がアイラの娘ということになってしまったからね。そのことを本当に申し訳ないと思っているんだ。当時赤子だった君自身にまったく責任はないが、奇異の目はあるかもしれないな――社交界というのは、実に怖いところなんだよ〉」

 少しだけ場を軽くする、冗談めいた口調。

 きっとアダムも計算違いだっただろう、とお父様の名が出た。確かにそうだろうなあとお父様の顔を思い浮かべつつ、私はひとつ頷いた。わずかに緩んだ空気。私は思い出したように深呼吸をした。

 そうだ。落ち着け。お父様のことを思い出すんだ。

 いつも正しい秩序を愛する、冷静な人。

 常に合理的であれ、事実を見つめる女性であれと。

 どんな時も理性を重んじよと、そう父から私は教えられている。

 たっぷりと思考する時間を与えられた後、私は懸命に言葉を選びながら語った。

「〈お義父様が愛した女性というのは承知ですけれども、正直、……擁護することはできません〉」

 人身売買などという非道な行為が許されるはずはない。

 懺悔と言われたが、お父様だったらこの糾弾をそんな言葉では表現しないと思う。

「〈お義父様は、正しいことをされたと思います。ご立派です。アイラ様は当然の死を迎えたのではないでしょうか――この家の、いえ、……この世の秩序をお義父様は守られた〉」

 お義父様はわずかに目を見開いた。その表情が、沈黙が怖かったけれどその目を見つめた。きっと今この視線から逃げてはいけないと思ったからだ。

「〈私は、アイラ様の娘ではありません。でもモリアーティ伯爵家の娘としての恩恵を受けている以上、その……奇異の視線も責任のうちと思い、自らの……行動によってそれらを変えていきたいと思います〉」

「……」

 まっすぐ見返してくる子供の視線はきっと滑稽だったのだろう、やがてそれが微笑に変わる。今度の微笑みは何か意味のある静かなものだった。でもそこに悲しみの色がなくなっただけで私は嬉しかった。

「〈難しい本の読みすぎだね、アズ。君は少し賢すぎる〉」

「〈私、ふざけていません。お義父様〉」

「〈わかった、わかっているとも〉」

 その後でお義父様はなにごとか独り言を口にした。その呟きは当然ながら手話にならなかったけれど、私はある程度唇の動きから言葉を読むこともできる。手話のときもそれが助けになっているのだ。きっとお義父様はこう言った。

(――『当然の死』と。『秩序を守った』と、言えるのだね。君は……、かな?)

 優しい眼差しで語りかけられたそんな言葉を、私は意味がよくわからないまま聞き流した。大人になっていくからと見込まれ伝えられた話はとても衝撃的だったけれど、その衝撃が私の罪悪感の一部を押し流してくれたことも事実だった。

 すべては杞憂だった。むしろ私はお義父様に、正義の者から見た真実を明かしてもらえた。過去の共有によって、自分がこれから正当に生きていくことを許されたような気がした。

 そのとおり、正しく生きていこう、と思う。

 理性ある父の子として、そして正義の人たる義父の子として。そう、「正しい貴族」として私はこの世を生きていくのだ。

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