私の望みは、「モリアーティ伯爵」によってたちまち叶えられた。
お義父様は聴覚訓練所を支援している貴族にコンタクトを取り、私がそこで子供たちに手話と読唇術を教えられるよう縁を繋いでくれた。
聴覚訓練所とは、文字通り聴覚に障碍を持った子供たちが指導を受ける施設で、学校と病院の性質を併せ持ったようなところだ。言語や発音の習得を目指すけれども、その一環として手話でのコミュニケーションも指導しているのだという。
私は自分の生きてきた経験が、生きるため身に着けた手話がなにかの役に立つことが嬉しかった。
子どもたちに教えるという未知の経験は確かに緊張するものではあったけれど、役割を見つけたという気分の高揚の方が大きい。家庭教師に教わる側から教える側へ回るという体験が、私をまた「大人」に引き上げてくれるように思えたから。
「〈聴覚訓練所は、貴族のみなさまのお力によって最近増えてきた支援形態なのですよ〉」
初めて訪れた聴覚訓練所は、想像していたよりずっと綺麗な施設だった。善良な貴族の財力を投入して建てられたそれは、小説で読んだ学校と遜色ない設備の整い具合だった。
屋敷の外に出てからずっと感じていた晴れやかな気持ち。なにか新しい出会いへの期待。
施設に入って実際に小さな子供たちが集まっているのを目にすると、いよいよという感じがした。「学校」という想像の中のものが目の前に現れた――胸が希望に高鳴るのを、はしゃがないようにとなんとか自制する。
私を案内してくれた指導側の女性も、見事な手話で私に説明してくれる。
「〈最近では、視覚障碍や聴覚障碍への理解が広まってまいりましたからね。そうした子を導けるよう、専門的に手話を学んだ者や、独自に手話を使用してきたボランティアの方々が集まる施設となったのです。素晴らしいことでございます〉」
「〈ここを支援されているのは、アシュウッド男爵……でしたね?〉」
「〈ええ。金銭的な支援のみならず、よくこの施設にも様子を見に来てくださいますよ〉」
「〈男爵はご立派な方なのですね〉」
私が障碍と抱え込んできたものを、他にも大勢の人が知っている。そうした者を助けたいと思って立派な施設を作る貴族がいる。そんな事実は私を安心させ、なんとなく今まで心に住み着いていた不安を消してくれた。
聴覚障碍を持つ子の中には私のように手術で改善が見込まれている者も、そうでない者もいる。手話はどちらの立場に対しても身を助けてくれるものだ。自分にできる限りのことを教えたい、と思える――無私の気持ちが自分の中に自然と湧き上がってくる。
初めて案内された教室には、数人の幼い子供たちがいた。
私が入っていくと、彼らは不思議そうにこちらを見た。女性に導かれ、彼らと円を作るように座る。
置かれたことのない状況。うまくやらなきゃ。とにかく、優しくしなければ――誤魔化すように微笑んだ私に、ぎこちない反応が返ってくる。
もちろん会話をすることはできないが、彼らは簡単な文字を判別できることがわかった。用意された紙に名前を書き、それに対応した手話を示す。最初は意味がわからずぽかんとしていたあどけない表情が、しばらくすると輝くような笑顔に変わった。
「〈こんにちは〉」
「〈こんにちは〉」
「〈わたしの、名前は〉……」
空気が緩んだとき、ああ大丈夫だと思った。伝わるものがある。私にも伝えられることがある。
子供たちはみな素直でかわいらしかった。
簡単な手話でのやりとりをいくらかした後の休憩時間、少し落ち着こうと廊下に出ると、教室のすぐ外に一人の少年がいた。こちらを見ている。教えていた中にはいなかった子だから、気になって様子を見に来たのだろうか?
でもその割に、彼はとても硬い表情をしていた。私より何歳も下に見えるのに利発そうな顔立ちをしているぶん、余計に鋭い眼差しが印象的だった。
その子は私と目が合うとすぐにその場を去っていこうとしたので、私はつい彼を追いかけた。呼び止めることができず肩に手を置くと彼は驚いたように勢いよく振り返った。その表情に恐怖の色がある。
「……」
この子に手話ができるのかわからない。二人でスムーズに会話できる術がない。話してくれれば唇を読むことはできるが、そう伝えることがそもそも難しい。なにか手話をしてみてもよかったと思うのに、言いようもない緊張感で手が動かなかった。
追いかけてきたってこれじゃ意味がない。急に寒々しさが去来する。
彼は私をじっと見上げた。その目が泳ぎ、戸惑っているのがわかる。悪意のある子なんかじゃないことがそれだけで伝わってくるのに、話をしたいのに。やっぱり何か手話を投げかけてみようか、それとも少しなら唇を読むことはできるのか。今更そんなことを考えてもそれ以上なにもできない。
気まずい時間がしばらく流れた後、その子はぱっと駆け出し視界から消えていってしまった。時間切れと宣告されたようだ。
私は数秒意味もなく立ち尽くし、教室に戻った。
別に冷たく拒絶されたわけじゃない。でもなんとも言えない無力感に襲われ、情けないような気分になった。
人との関係なんて、そんなにすぐには構築できない。恵まれた環境から人の力になりたくて外に出てきたのだ。そんな言葉を内心繰り返して自分をなんとか鼓舞した。誰かと心を通わせるのは難しい。それでも頑張りたいんだ。