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秩序を追う少女 02

 初めてのボランティアが終わった後、私は出口まで付き添ってくれた職員にあの子供のことを聞いてみた。廊下で私たちの様子を見ていたようで驚かせてしまった、利発そうな男の子だったと伝えると、彼女はすぐに心当たりがあると言った。

 彼女の話では、彼――ユアンはとても頭が良く、例のアシュウッド男爵からも特別に目をかけられて治療を受けたりもしたが、障碍の程度が重く聴力の回復は絶望的だとわかったそうだ。そのため心を閉ざしてしまっているようだと、彼女は痛ましい表情で話してくれた。

「〈そうでしたか……〉」

 彼に何を言えばいいのか、どんな言葉なら届くのか、何もわからなかった。でもわからないままで終わらせたくない。私は自分の障碍をそこまで悲惨なものと考えてこなかったが、それは私がそうだったというだけのことだ。

 障碍を持つ人との付き合い方はひとつじゃない。そんな当たり前の事実が今更重いけれど、でも、彼にまた振り向いて笑ってもらいたいと思う。


 施設の庭に辻馬車が入ってきたので施設側が呼んでくれたものが到着したのかと思えば、中からは身なりの立派な紳士が降りてきた。辺りを見回してから私に目を留めてぱっと人好きのする笑顔を浮かべる。

 私よりも先に職員が反応した。何と言ったかわからなかったが、紳士はまっすぐ私の前まで規律的な歩き方でやってきた。

 明らかに貴族だ。

「〈アシュウッド男爵でいらっしゃいますか?〉」

 私の手の動きを、彼はにこやかに見た。唇を読んだ様子もなかったけれども代わりに職員へなにごとか語ってくれた。職員は少し遠慮したような感じで私に手話を見せる。

「〈男爵はお忙しい身で、手話はわかりません。しかしこのお方が確かにアシュウッド男爵ですよ〉」

 やってしまった、と思った。自分の常識を押し付けたらだめだ。私は深い礼で非礼を詫びた。男爵はまた穏やかに笑って、職員へいくらか伝言をした。

「〈アザリー様、男爵が少しお話をされたいとのことです。感謝をお伝えしたいとのこと。お時間はいかがでしょうか?〉」

 願ってもないことだった。慈善事業を行う貴族との初めての出会いだ。私が進む道にも関係する人かもしれない。考えもきっと共通しているだろう、彼の素晴らしい信念を聞いてみたいとの思いから私はすぐに頷いた。

 案内されたのは暖炉の熱でほのかに暖かい小部屋だった。男爵は筆談なら応じてくれるとのことだったので、職員は何枚もの紙片とペンを用意してくれた後、静かに少し離れた場所に控えた。

「『お引き留めして申し訳ございません、ミス・モリアーティ。私は伯爵からあなたのお話を伺い、あまりに立派なお志に感動したのですよ。感謝をどうにかお伝えしたくこうしてやってまいりました』」

「『こちらこそ、お忙しい中ありがとうございます。男爵はたいへん素晴らしい方だと伺って、お話してみたいと思っておりました』」

「『いいえ、私は男爵の身ですから、本来こんなふうにお話させていただくのも無礼なことですな。私のことも、どうかバジルとでも呼んでいただきたい』」

 彼――バジル・アシュウッド男爵は朗らかで気さくな人物だった。私が冗談をと固辞すると、また余裕のある微笑みが返ってくる。

「『まだお若くていらっしゃるのに、自らの障碍をものともされない。感服いたしました。あなた様こそ貴族の模範というべき存在であらせられます』」

「『そういうわけでは、ありませんが……』」

 彼はそれからも私を大仰に褒め称える文ばかりを書いた。慈善活動や施設のことを聞いても、結局は私の学ぶ姿勢が素晴らしいとかいう方向に話が逸れてしまう。

 そのうちなんとなく居心地が悪くなってきて、私はついあの少年のことを話に出した。

「『先ほど、ユアンと出会いました。あの子は頭がよく、男爵も期待されたとか』」

 私の差し出した紙片を男爵はちらりと見た。

 そのときの目。その目に――私はなぜか言いようもない悪寒を感じた。ただ私を甘ったるく褒めていた柔和な表情が、にわかに面倒そうな色を帯びたのがわかったのだ。

「『あの子は……そうですな、惜しかった。回復の見込みがあればいろいろな未来もあったでしょう。ああいう重度の障碍を持った子供でも何かの役に立てばよかったのですが、ちょっと――生きづらさが勝りますね。これも運命というものでしょうか』」

 彼の筆跡は急にそっけなく、明らかな違和感を私に与えた。文字からでさえ伝わる冷たさに私は思わず彼の顔を見た。そこに浮かぶにやにやとした呆れ顔は、一瞬で彼の本性を私に悟らせるようだった。

 人を値踏みするような目。笑っていないその目の奥。

 やっと返事を書こうとするときに自分の手が小さく震えていてまずいと思ったけれど、男爵がそれに気づいた様子はなかった。

 そうだ。

 この人、私自身のことを、ほとんど見ていない……。

「『聴力回復の見込みがなくても未来までは失われません。その力をつけてもらうための施設ではないですか。男爵、いったい何故そのようなことを?』」

「『ああ、失礼しました。もちろんあの子だってここである程度生きるための力をつけることはできるでしょう。ですが――慈善とはいえすべてが清らかな理想だけで成り立つものではないのです、ミス・モリアーティ。私がこの施設を率先して作り上げたからこそそれが初めてあなたの選択肢となり、安心して活動していただけるのですから』」

 もちろんお分かりでしょうね。そんな筆跡はやはり冷たい。

 私はこのとき言い返すことができなかった。私は未熟だからだ。彼がひどいことを言ったとは確かに感じる――でも確かに世間的には立派な事業家である彼の話すことが正しいのかそうでないのかは、私には分からなかったのだ。

 感情のままに文を書きなぐることはきっと許されない。私にはわからないような事情がきっといろいろあって、彼も「そういう視点」を持たざるを得ないのかもしれない。

 でも、本当にそれだけか?

 聴覚障碍の子を支援する施設を作りよく様子を見に来るのに、手話には興味がない。

 自分が支援する子供について、惜しいだとか生きづらさが勝ると言う。そんなことがあるだろうか?

 手を動かせない私に、男爵は自らの失言をまた詫びた。そうされては私も自らの幼さを理由に謝罪せざるを得なかった。

「『私こそ、男爵のされている事業のこともわからない身ですのに、大変失礼いたしました』」

「『何をおっしゃいます。これからさまざまなことを学び、華麗に羽ばたいていかれる御身でしょう。私がその一助になれれば、何よりのこととうれしく思いますよ』」

 こちらが譲歩すれば男爵の筆跡は少し和らいだ。その変化が逆に、先ほどの反論が彼の気に障ったことを如実に示してしまっていた。

 お父様だったらなんと言ったのだろう。

 ついそんなことを考えた。お父様に会いたい。

 お父様はこの人みたいに、決して誰かを貶すようなことを言ったりしない。思ってもいないことを大袈裟に言ったりしない。

 新しい出会いや苦しみがあるかもしれないと、お父様は言った。その通りだった。屋敷の中で守られているだけでは感じることのない怒りが、今私の中に生まれている。

「『ミス・モリアーティ。大変なこともあるでしょうが、心から応援していますよ。お父様にどうぞよろしく』」

 最後にそんなことを告げてこちらを見る男爵の目の、いよいよ冷酷なこと。話は終わりだとばかりに立ち上がって、私たちの間に散らばった紙片を慇懃に暖炉へ投げ込む。その仕草にも腹立たしさを感じる。

 この人は私を応援なんてしていない。それどころか……。

 私はこのとき、噂に聞いていた貴族社会のおそろしさの一端を垣間見たのだった。


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