(……!)
それは前触れのないことだった。平和な午後は一瞬で破壊された――私がモランさんに会ってから一ヶ月もしない頃、いつも通り施設を訪れた私の目にとんでもない光景が飛び込んできたのだ。
施設の庭には威圧感さえ感じる大きな馬車が止まっていた。男爵家の紋章。それを囲む職員と数人の子供たち。その中心に立つアシュウッド男爵がユアンの肩を抱いていた。
瞬間的に嫌悪感が背を這い上がり私を襲った。慌てて辻馬車を降りると、職員の女性が思い出したようにこちらへ駆け寄ってきた。
「〈何があったのですか?〉」
「〈失礼しました。ユアンがその頭脳を高く評価され、男爵に引き取られることになったのですよ〉」
「〈本当ですか?〉」
大きく頷く職員の目は喜びと尊敬に満ちているので、余計におぞましい感情が私を支配した。
評価? そんなわけがない。ユアンの才能は確かに素晴らしいけれど、それがあの男爵に理解できるとは思えない。
私はつい男爵の前に飛び出した。対峙した男爵は以前よりもずっと大きく恐ろしいものに見えた。にやりと上がった口角がまるで歪んだ蛇のようで、私の嫌悪感をさらに煽った。
「〈ユアンを離してください〉」
そう訴えてからはっとした。そうだ、この人は手話がわからない。わかろうともしなかった。彼はわざとらしく肩をすくめて職員に助けを求めた。職員の女性がためらいながら通訳すると、男爵は快活に笑う。
「〈お嬢さんには、私が誘拐犯のように見えるようですな〉」
女性が申し訳なさそうに訳した言葉は、明らかに私を馬鹿にしている。私がユアンの方を見ると、彼は確かに怯えた表情をしていた。その目が私の手元を見ている。助けを求めている。言葉が話せなくたってそんなことはわかる。
しかし――彼の唇は細かく震え、何かを主張できるはずのその手も硬く握られてしまっていた。理性的な輝きを宿していた目は今や諦念に覆われて沈んでいる。
「〈ユアンは怯えています。どう説明したのですか?〉」
私の手は怒りに震えていたが、それでも私は疑問を投げかけた。どうせこの人に直接は届かない。そんな虚しさが、まるで言葉を投げつけるかのように荒い手話となる。
「〈あなたも聞いたのではないのですか? この子はとても頭がよいのですよ。私の知り合いのとても善良で教育熱心な貴族が、ぜひ彼を養子に迎えたいというのでね。彼は了承しました。自分で選んだ道に緊張しているだけですよ、子供にはよくあることでしょう〉」
もっともらしい彼の言い分はもはやまったく信用できなかった。
なんとも嫌な薄笑いを浮かべながら話すこの男がそんな正当な取次をするわけがない。正当な了承なんて得ているわけがない。証拠はないだなんて、ふざけた話だ――これほど明確な人証が目の前にあるのに!
人身売買。
そんな、少し前に聞いた単語が、頭の中でぱっと残酷に浮かび上がった。
「〈ユアンは嫌がっています!〉」
私の訴えは、しかし一笑に付された。ユアンは陰で何を言われたのか、項垂れてしまって動かない。彼は自分の感じた違和感を、大事な話のように打ち明けてくれた。それほど信用していない相手に従うはずがない。
彼がずっと黙っているのはなにか非人道的な方法が用いられたからに違いなかった。
「〈お嬢さんには、ボランティアという大切な使命がありますよ。ボランティアというのは無私の活動。お気に入りの子供の【選り好み】を――いえ、失礼しました〉」
通訳の女性はさすがに男爵の言葉を私に伝えなかった。けれどももう遅い。私が完全に失望するのと同時にユアンは馬車に乗せられてしまった。
普段からどれだけ外面よく振る舞っているのか、職員たちは率先して男爵の出発を助けた。私はユアンに手を伸ばしたけれど届かず、馬車の扉が閉まる。
「〈止めてください! 止めて!〉」
私は必死に訴えた。でも、職員たちは若干気まずそうにしている様子はあっても、馬車を止める気はないらしい。むしろ急に現れて一人で騒ぎ立てる私に距離を感じているような感じさえあった。
「〈アザリー様、少し興奮なさっているようです。こちらに……〉」
興奮。これが子供の興奮に見えるのか。どうして誰も私を信じてくれない。どうして誰もユアンの心を想像しようとしない?
私の怒りは正当なものだ。確かに、誰にも相談することはできなかった――でも、こんな異様なことがあっていいはずがない。
それでも私の身体は抵抗するのにあまりに小さく、職員はまるで子供を宥めるかのように私を施設の中へ連れて行こうとした。
嫌だ。嫌だ。私はユアンに振り向いてほしかった――笑ってほしかった。やっと隣で話せる関係になれたのに。彼は確かに、私に大切な気持ちを預けてくれた。だからこんな形で別れるわけにはいかないのに。
こんな形で、ユアンを奪われる訳にはいかないのに! 私はいったいどうしたらよかったのだろう。心臓の音が自覚できるほど動揺していた。私は、私は――。
「っ!」
私をなんとか施設の中へ入らせようとしていた職員の手を、突然、何か太く立派な腕が撥ねつけた。解放された私はそのまま大きな体躯のその人に引き寄せられた。
導かれるようにそちらを向くと、今や遠ざかっていく馬車と――すぐ近くに、知り合ったばかりの顔があった。
逞しく堂々とした表情。凛とした目が一瞬で私を現実に引き戻し、強く問いかけてくる。
どうした。何があった。
(モランさん……)