モランさんは一時的に借りているというアパートメントに私を上げてくれた。
意外といっては何だけれど物が少なく、人が住んでいるという事実にあまり信憑性がないくらい整理されている。物言わず顔を見上げた私をモランさんは怪訝そうに見た。そんなやりとりについ可笑しくなってしまう。
モランさんは申し訳程度にひとつしかない椅子を私に勧めてくれ、自分は壁に寄り掛かって立った。
「〈とりあえず、……お前、人攫いと言ったな〉」
私は頷いた。ユアンのことをがむしゃらに追いたい気持ちはまだあったけれど、止められるのは目に見えていた。そんな小さな不満が顔に出ていたのか、モランさんはひとつ息を吐いたらしい。
「〈そうだとして、こんな真昼間から『受け渡し』はしない。それにあんな馬鹿でかい貴族の馬車で来たのは施設の奴らに疑問を抱かせないためで、そんな目立つモンで直接そんなことをするわけがない。ただのカムフラージュだ〉」
(あ……)
淡々とした手話を目で追っているうち、自然と私の逸っていた気持ちが落ち着いていく。
「〈ユアンは一度男爵家に連れていかれ、そこからまた移動するだろう。だったら、その現場を押さえた方がいい――分かるな?〉」
「〈え、ええ。でも、それまでにユアンが傷つけられたら〉」
モランさんは私の言葉に数秒逡巡した。説得できたのかとすら思ってしまった私の未熟さは躊躇いながらの説明にすぐ打ち砕かれた。
わざわざ商品を傷つけるようなことはしないさ。
「〈ああいう奴らは慎重だ。素人が感情任せに飛び込んだら手口や計画を変えるかもしれない。そうなったら、ユアンだけじゃなくお前の身だって危なくなる。それはお前の父親が望むことか〉」
冷静な目の奥に真剣さを見て、私は今度こそ了承の意味で頷いた。モランさんは安心したように頷き返してくれた。私は確かにモランさんの理論によって納得したのだけれど、この人の持つただならぬ空気感を前に深呼吸せざるを得なかった。
なんとなく私の戸惑いに気付いたのだろう、モランさんはふと尋ねてくる。
「〈アザリー、お前、何歳になった? 十二か?〉」
「〈十三です〉」
「〈そうか〉」
モランさんの態度は常に堂々としているけれど、時折なんだか迷っているような様子もある。それが何なのか尋ねてみると、案外あっさりと答えが返ってきた。
「〈教授が――むろんラインハルトもだが――お前をどれだけ大事にしているか聞いている。守ってやってほしいとも言われている。それと、お前に情報をどこまで明かすかのバランスが難しい〉」
「〈情報、って?〉」
「〈……今回について言えば、受け渡しに使われるであろう場所を知っている、とかな〉」
その言葉はあまりに衝撃的なものだった。私はてっきり男爵の屋敷に向かっておいて、そこから後を追うことになるのだと思っていたからだ。
受け渡し――つまり、人身売買の現場。何故それをモランさんが知っているのだろう。
私だってユアンが目の前であの非道な男爵に連れ去られたのを見ただけで、詳しいことは何もわからない。
それなのにモランさんは先ほどから妙に確信的で、そもそも偶然通りがかっただけなのに、私のような子供が言う「人攫い」についてだって疑うような素振りはまったくないのだ。
何を知っている?
「偶然通りがかった」わけじゃない……?
お父様の知り合いと言っていた。そんなまさか、と思ってしまったのも一瞬だ。お父様が犯罪に手を染めるわけがない。そう信じている。だけれどモランさんの言葉と行動には、偶然とは思えない確信が見え隠れしている。
あなたは何者なんですか。
そう訊きたい気持ちが喉まで出かかったが、今は違う。ユアンを救うことが先決だ。疑念が完全に消えたわけではない。でもこの場では彼の存在を頼るべきだという確信がそれを上回った。
モランさんは私の反応を見ようとしている――子供にだってそのくらいはわかる。今大事なのはモランさんが何者かなんてことではなくて、このとても親切で頼りになる人が傍にいてくれることだ。
ユアンを救うことのできる力が、今、私と共にあってくれることだ。
「〈こうなることも知っていて、そして、解決策も持っている……ということですか?〉」
モランさんは肯定した。場になにかわかりやすい変化がなかったことで、かえって信頼できるような気がした。彼にとってはそれは当然頷くことのできる問いなのだ。
正直私の内心にはまだわずかな疑念がある。お父様の知り合いだというだけで、この人を信じてしまっていいのか。私はそんな自分の気持ちを振り払う。
違う。今の私に必要なのは疑うことじゃなく、信じることだ。
信じて、そして彼を救えるなら。
「〈俺がここにいる以上、大丈夫だ。信じろ。教授に誓って、俺はお前を守る気でいるから〉」
私の背を押す彼の言葉には不思議な力があった。その力強さの背景に彼の背負う重いなにかが見えるようでもあったし――何よりその端的な言葉。
彼の誓った通り、それはお父様が私を励ますときととても似ていた。
彼は少しだけ私に近づき、その大きな手を椅子の背にそっと置いた。その仕草にはどこか兄のような温かさがあった。
「〈予定通りの時間に帰れなくなるが、俺からも口添えしてやろう。多少は叱られるだろうけどな――だから、一緒に来るか?〉」
私の答えは、とっくに決まっていた。