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秩序を追う少女 08

 私たちはモランさんのアパートメントでしばらく待機した後、行動を起こした。

 モランさんはもはやアシュウッド男爵の屋敷の場所も知っていると言ったし、受け渡しの場所にも確信を持っているようだった。

 何より彼の行動はすべて計画通りといった感じなので、ついに悟った。交わしたやりとりはすべて私に事態を呑み込ませ、納得させるためだけのものだったのだ。

「〈なんだ。怒っているのか?〉」

「〈……ユアンを助けたいんです。私……〉」

 モランさんは目を細めた。すべての疑問よりユアンの救出に重きを置いた私を見て、さすが教授に育てられた娘だと笑うのだ。あまり自覚はなかったけれど、私は相当変わった娘に見えるらしい。

 私がモランさんに警察に連絡するのですかと尋ねてみると、彼は「〈後でな〉」と言った。

 それはそうだろうなと思った――私はもはやモランさんの異常なほど豊かな知識と態度に非合法さまでみとめていた。

「〈私、モランさんと初めて会った時、軍人さんかと思ったんです〉」

「〈合ってるさ。元は軍人だ〉」

 モランさんの動きは妙に手馴れていたが、それが過去の経験に裏打ちするものだと知った。

 夜の闇の中私はモランさんに連れられ、生まれてから一度も入ったことのないようなロンドン郊外の裏路地に来た。暗く埃っぽい路地に私は少なからずショックを受けたが、モランさんがあまりに無反応なので我慢した。

 それでも夜の闇は怖い。

 聴覚のない不便をあまり感じてこなかった私でも、視界までもが頼りなくなると不安感は一気に増した。たとえ風に攫われた紙切れだったとしても、闇の中でなにかが動くだけで背筋が凍るようだった。

「〈問題への対処は俺がやる。絶対に俺を見失うな。お前はそれだけ気を付けていればいい〉」

 アパートメントを出る前、モランさんは「夜は手話が役に立たない」と繰り返し言いながらそう指示した。その言葉が頭をよぎり、私は黙って従った。

 自分が明らかに邪魔だということは分かっている。とにかく、大人しくしていよう。

 モランさんと一緒に廃墟の影に入って待っているうち、ほんとうに「それ」は現れた。小型馬車だ。必死で目を凝らしてもその姿をあまり鮮明に捉えることはできなかったが、モランさんがフォローするように私の肩へ手を置く。

 彼が姿勢を改めたのを見て、私は降りてきたふたつの影がアシュウッド男爵とユアンであることを確信した。

 馬車が去って数分もしないうち、私たちが潜んでいた廃墟とは別の建物から二人の男が出てきた。危なかった。

 その二人は男爵に近付き、しゃがみこんでユアンの様子を窺った。何を話しているかわからなくたってその光景はあまりに異常で、私はこれが醜悪な犯罪であることを肌で感じる。

 固唾を飲んで見守っていた事態はやがて動いた。男爵と男の一人の間で金銭らしきもののやり取りが交わされた時、ユアンが絡みつく男性の手を拒否するように身体を捩ったのだ。

 そのとき――男爵が遠目からでも容赦ないとわかるような力で彼を引き倒した。

「――!」

 自分が声の出ない身で、本当によかったと思った。もし私が自在に声の出る身だったら、きっと叫んでいただろう。

 何かを強く訴えるように私の肩に置いていた手に力が込められ、そして緩む。

 それは疾風だった。

 モランさんは一瞬としか思えないうちに二人を打ち倒し、そう思った時にはもう三人目の男を制圧すべく手を伸ばしていた。抵抗するような暇もなく全員がその場に薙ぎ倒され、彼の動きは空気に溶け込むかのようにスムーズだった。男たちは完全に気を失ってしまったようで、私がモランさんの心配をする時間はわずかさえもなかった。

 所謂こんな暴力を間近で見たのは初めてだったのに思ったよりも平静でいられたのは、その見事な動きがまるで芸術品のように見えたからに違いない。

 その姿は紛れもなくヒーローで、それでも、闇に紛れるその姿はまるで――暗殺者のようにも見えた。

 ユアンは突然の闖入者に驚いただろうけれど、再び真の静寂を取り戻した路地でモランさんが彼を私のほうへ導くと、彼はやっと安心したように表情を緩めた。その目に人間らしい光が戻っている。

「〈大丈夫?〉」

 あまり意味がないと思いながらも手が動く。ユアンの肩も、手も、まだ震えていた。彼がなにかを説明できる状況にないことは明らかだった。彼の目は突然現れた救いと、私がいることに対する戸惑いに揺れている。

 私だってこの場で詳しく説明してあげられる言葉を持たないけれど、私は彼と再び会えたことが嬉しくて仕方なかった。思わず手を伸ばして彼に触れる。彼がやっとひとつ頷いた。

 まだよく見えないけれど、彼がなにかひどい傷を負っているということは幸いにしてないようだった。

「……」

 モランさんは私の肩を軽く叩き、ユアンを担ぎ上げた。辺りに人はいないようだ。彼に従ってまた路地を進む。

 それほど行かないうちにモランさんは私とユアンを細い路地に待たせ、自らも顔を隠してから近くにいた浮浪者へ声を掛けた。何やら小銭を渡して大通りの方へ行かせる。何をしたのか聞くと、男たちが倒れていたと通報するよう頼んだそうだ。これもまた、何でもないことのように。

(それ、いいのかしら……)

 全体を通して相当なことをしたはずなのに、モランさんは実に淡々としていた。その態度が、このくらいモランさんには何の困難でもないのだと私に実感させる。彼が「数学者として」のお父様の知り合いでないことはいよいよ明らかだったけれど、彼は確かに私を守ってくれた。

 やがて落ち着いたユアンとともに歩く。彼の手を握る。血の通ったあたたかい手だ。モランさんが取り戻させてくれたものだ。

 あのとても普通でない暴力に触れても、慣れた路地での動き方をこうして目の当たりにしていても。彼が今地面に倒れている悪人たちと同じ種類の人間だとは、私にはとても思えないのだった。


 モランさんのアパートメントに戻ると、私たちはとりあえずユアンをベッドに寝かせた。幸い彼は私たちを信用してくれたのか、すぐに寝入ってしまった。疲れもあっただろう――その表情がひとまずは安らかなことに安堵し、私はしばらく彼の手を握っていた。

 私に弟はいないけれど、もしいたらこんな感じなのかとその年相応のあどけない色を見ては考えさせられた。

 リビングの暖炉をモランさんが焚いてくれて、ようやくふわふわ浮いていた心が現実に帰ってきたような感じがした。

「〈ありがとうございました、モランさん〉」

「〈気にするな。それより、いろいろと……よく耐えたな。驚いただろう〉」

 モランさんは私にそんなことを言う。その優しい言葉と手話を見ると、あの凄まじい動きを見た後だというのに不思議と安心感を覚えた。穏やかな空気の中、彼は時計を見て溜息を吐いた。

 そしてとんでもないことを言う。

「〈ベッドは一つしかないんだ。ユアンを一人にはしておけないから、緊急電報を打ってラインハルトにお前を迎えに来させるってのもありかもな〉」

「〈そんな……そんなこと、させられるわけがありません!〉」

 私がつい手を大きく動かすと、モランさんはふっと笑った。冗談だったのだと気付いて私はやや気まずくなった。駄目だ――先ほどまでのことで動揺している。それを遠回しに指摘されたようだった。

「〈甘えておいてもいいと思うがな。椅子で一夜を明かす伯爵令嬢なんて聞いたことがない〉」

 構いません、と私は力強く主張した。今夜の体験を考えたら、どのみち眠れるはずがなかった。

 とはいえ、お義父様がさぞ心配しているだろうと思うと胸が痛む。何と言ったらいいのだろう? そう考えていると、モランさんが薄く笑った。

「〈お前の父親のことなら心配いらない。俺がお前と一緒にいることは伝わっている〉」

「〈え?〉」

 なんだか意味深な笑い方に誤魔化されて、私は先送りにしていた問題が再び現れたことに気付いた。呑み込んでいた問いは今ぶつけるにはかなり無礼かもしれないけれど――でも、これ以上引き延ばすこともできないだろう。

 事実を見つめる人であろう。理性を重視し、現実を注視できる人間であろう。

「〈モランさん〉」

 暖炉の火があたたかい。話しやすい雰囲気が作られているんだ。

 この人の目だって、今この瞬間も私の問いを待っているようじゃないか。

「〈あなた――ほんとうに、何者なんですか?〉」

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