父親に聞け、と言われてしまってはその通りすぎて、私は結局翌日ユアンと共にモリアーティ邸に送り届けられた。
ユアンはただでさえ男爵に攫われたばかりなのでまた怯えてしまうのではないかと思ったけれど、私の家で保護してもいいかと告げると大丈夫と答えた。
貴族の屋敷と一括りにするのでなく、状況が変わったのだと判断する力を持っている。そんな理性的な姿には、モランさんもなんだか感心した様子だった。
比べて私はというと、モランさんの言葉を聞いていたとはいえお義父様との対面にかなり緊張していた。
夜中の風も肌に刺さるようだったけれど、朝の空気もなんとなく緊張感がある。冷たい風が改めて私の身体を目覚ましてくれるようだった。
気の抜けないまま屋敷に帰り着くと、門のところでルーシーが待っていた。
「〈お嬢様!〉」
「〈ルーシー! ごめんなさい、心配をかけて……〉」
「〈施設でひどく体調を崩されたのでしょう? モラン様も、お迎えを買って出てくださってありがとうございました。ああ、お嬢様が外でお泊りになるなんて!〉」
(そういう設定なんだ……)
私は本当に話が通っているらしいことに安堵しつつ、別の方面でも不安になった。昨日のモランさんの鮮やかな手際も合わさって、今まではひたすらに優しいと思っていたお義父様にもなにか違う一面があったりして、などと考えるようになってしまったからだ。
使用人たちにもユアンのこと――施設の少年だということのみ――が伝わっていて、手厚く保護するよう指示されているということだった。
モランさんがルーシーに聞いた空き部屋へユアンを連れて行くのを所在なげに見送った後、身なりを整えてついにお義父様を訪ねた。
「〈お義父様〉」
お義父様はいつも通りの微笑みを浮かべていた。
あのブラウンカラーのソファだって、もちろん変わらずそこにあった。けれど私の目には違うもののように映った。
緊張によってか、まるでその色が重く沈み、そこに隠されていた何かが浮かび上がってきているかのようだ。
「〈アズ。お帰り、無事で何よりだよ〉」
優しい笑顔。手振り。何も変わっていない。何から話したらいいのか戸惑ったけれど、それはきっとお義父様も同じだろう。私から話さないといけない。全てを受け入れてくれるかのような温かい笑顔が、逆に私の言葉を待っているように感じられてならなかった。
この段階になって私は、私のためにアシュウッド男爵とわざわざコンタクトを取ってくれたのが紛れもないお義父様だということに今更思い至った――これではとんでもないトラブルメーカーじゃないか。
いや、でも、男爵は本当に人身売買に関わっていたようだし……。駄目だ。私はソファを挟んでお義父様に向き合った。
「〈お義父様。私、……あの、ごめんなさい。相談できなかったんですが、アシュウッド男爵が、怯える男の子を無理やり引き取っていくのを見て。その、人攫いなんじゃないかって思って。それで、モランさんに助けていただきました〉」
私は促されるまま、昨日あったことを正直に話した。
アイラ様のことを聞いていたので、怯えたユアンの姿を見てつい人身売買の可能性に思い至ってしまったこと。けれども二人を心配させると思って言い出せなかったこと。
モランさんが私の心を不思議と読み取り、そして力になってくださったこと。その鮮やかな手際に、とても驚いたこと……。あちこち逸れながら続いた私の話を、お義父様は根気強く聞いてくれた。
「〈悪かった、アズ。私が話をしたのをきっかけに、君をなんだか物騒な話に巻き込んでしまったようだね〉」
神妙な顔で頭を下げられてしまい、私は慌ててそれを止め、首を振った。
「〈お義父様。モランさんが、自分のことはお義父様に聞くようにと言っていました。どういうことですか? モランさんは、なにか特別な方なのですか?〉」
お義父様は微笑みを崩さないまま、新聞をこちらに示す。今朝の朝刊。見出しにはアシュウッド男爵の名前があった。
(これは……)
彼のことは大々的に取り上げられていた。
――昨日の夜更け、貴族には似つかわしくないようなロンドン郊外の裏路地で、男性二人と男爵が昏倒しているのが発見された。
男爵は二人の男との関連を否定し、友人宅を訪ねようとしたところを突然襲われた気がするという旨を話しているが、側に倒れていた男二人にはそれぞれの主張に不明瞭な部分があった。男爵が袋に入った大量の金を所持していたこともあり、警察が捜査を始めているという。
「〈あまり品のないことではあるが、伯爵の身分から警察に情報提供しておくよ。今朝方、屋敷の庭で男の子を保護したと――自分のいた施設を支援していた男爵に脅されて無理矢理攫われ、誰かに引き渡されそうになったと言っている、とね〉」
「〈それって……〉」
「〈アズ。この世には確かに悪人と呼ばれる者がいる。しかしそれらに対する戦い方というものもある。私はこの伯爵という立場、アダムには素晴らしい頭脳と理性。そしてモラン。彼は軍人上がりの武力とあの目を見張る行動力を持っているという訳だ〉」
「……」
「〈君が出会ったように、我々も多くの悪人を見てきた。それを憂いたわが弟は、娘である君までも傷付けないためあの偉大な頭脳を駆使して、今や独自の組織を作り上げているのだよ〉」
お義父様の穏やかな表情はすべてを許していた。私はそこから、モランさんの示した非合法の全ては二人の父も許容しているものだということ。そして「独自の組織」というのも、恐らくその延長線上のものだということを悟った。
モランさんが知るはずのない情報を知っていたこと。
私の前に、これ以上ないというくらいのタイミングで現れたこと……。
あの手際。お義父様になぜか伝わっていた情報。
点と点が繋がるような感覚。私の父は、ただの数学者というだけでない一面を持っていたのだ。
自分の手に力が入らないのを感じた。けれどこれは失望からではない。失望からではないけれど、では何かと問われるとそれに答えることが難しい。手話にも躊躇いは生まれるのだと、こんな時に思い出す。
「〈……私は、モランさんが悪人だとは思えませんでした〉」
「〈それは、彼が君を救ったからだ。君の大切なものを彼が取り戻したからだ。今回の彼の働きによってひとつの男爵家が没落する。モランの行動は私たちが守ろうとする秩序の一環だった――アズ、君は悪しき権力と戦うことを選んだね。そこにわが弟の愛する秩序を見たからこそ、モランは君に力を貸したのだ〉」
お義父様の言葉は難しかった。モランさんが、お父様が作った組織の人間……。
「〈君には、よく考えてほしい。私たちは君に力の強制をしたくないと思っているんだよ〉」
「〈お義父様……〉」
目に入ってくるのは、まるでお父様の作ったのが悪の組織であるかのような言い分だ。でも、どちらが悪だ。
あの人の皮を被ったような男爵。人を商品にするような人間と、どちらが悪だ?
私はまだ気持ちを言語化することができない。
私の家族が、何かと戦っていることはわかった。
知らず知らずのうちに私は自分の感情に従っていて、どうやら父の愛した秩序を私も同じように重んじたいのだと思っていることも自覚した。
でも、私も戦うべきなのだろうか。
まだ何もわからない。確かなのは、私がこの告白について何らマイナスの感情を抱かなかったということだけ。
それでも何か、自分の後ろに連なり蠢く大きな流れによって――私の人生は大きく変わり始めているのだ。