「〈ユアン〉」
私が彼の休んでいる部屋を訪ねていけたのは、それから一時間ほどしてからのことだった。お義父様から聞いた話は確かに衝撃的なものだったけれども、彼を放っておく訳にはいかないと思った。
だって、私の責任だ。
知らなかったとはいえ、私がもっと早く二人に、「組織」に助けを求めていたら、彼は攫われる経験なんてしなくて済んだのだ。たとえ結果論だとしても、あんな幼い子に――そう思うと心が痛い。
ノックで来訪を知らせることができないので入り方を迷ったりして、私は情けなくも部屋を訪れるまでにかなりの勇気を必要とした。
けれども意を決して向かってみると、扉のすぐ近くにモランさんが寄り掛かって立っていた。閉じられていた目が、ゆっくりとこちらに向く。
「〈モランさん〉」
「〈ラインハルトから、俺のことを聞いたのか?〉」
「〈はい。えっと……少しだけ〉」
なんだそれは、と軽く笑われた。不意打ちだったので、私のほうも咄嗟に返事ができない。
「〈心配するな。ユアンはちゃんとお前と話す準備ができてる。少しフォローをしておいた〉」
私が今ゆっくり話せる状況にないことなんてこの人はちゃんとわかっていて、そして私がユアンと話したがっていることにも気付いていた。本当に、この人はすごい人なんだ。
この人の正体が何であったとしても、それだけは変わらない。
「〈モランさん……あの、ありがとうございます。とても、助かります〉」
「〈ああ。とはいえ細かいことは聞いてないから、お前が聞き出しておいてくれ〉」
「〈え?〉」
「〈俺についての説明はできないだろう? 俺が話したのはその辺のことだけなんだ〉」
驚く時間もない。モランさんは完璧な準備を整えて、私のために扉を開けたのを最後に廊下を歩いていってしまった。追うことなんてできるわけもなくて、気まずさを抱えたまま中を覗き込み――ユアンと目が合った。
「〈アザリーさん〉」
彼が私の名を手話で呼ぶ。そのことがたまらなく嬉しい。彼の手の動きは想像より落ち着いていた。すでに表情が少しほぐれているようだ。
大したことは話していない風に言っていたけれど、きっとモランさんとの対話が彼を安心させたのだろう。
「〈入ってもいい?〉」
「〈アザリーさんの家なんでしょ〉」
私はやっと微笑むことができた。彼に用意されたのは来客用の豪華な部屋だったが、ユアンは部屋の隅の椅子に小さく座っていた。聞いてみれば、やはりどうすればいいかわからなかったからと言う。
私はユアンを誘い、ソファに移動した。彼の身体が柔らかくソファに沈み込んで驚いていたけれど、なんとなく空気も軽くなる。きちんと話ができそうだった。
「〈えっと……モランさんと話をしたの?〉」
「〈うん。あの人、手話ができたからびっくりしたよ。……あ、でも、名前は聞いてないっていう設定なんだ〉」
「〈設定?〉」
「〈貴族をぶん殴っちゃったから、警察に万一にも名前を知られたくないらしいよ。男同士の約束だって〉」
それを聞いて私はつい笑みを漏らした。情報の開示具合がわからないなんて謙遜もいいところじゃないか。
ユアンは彼のふざけた物言いが冗談であると同時に真剣なものであることを、ちゃんと分かっている。ユアンを信用したからこそ、彼は名前を明かしたのだ。
感心しつつ、私は彼の顔を見た。やっぱり目立つような傷はない。
「〈男爵は、本当にあなたを売ってしまうつもりだったのね?〉」
「〈そうだよ。あいつ、売り先が見つかって本性を出したんだ……〉」
ユアンから聞いた話はおぞましかった。男爵は重度の障碍を持っていたり身寄りのない子を積極的に引き取ることで人望を得ていたけれども、その子たちの運命は悲惨なものだった。
男爵はやはり、悪人にその子らを引き渡して大金を稼いでいたのだ。
「〈どんなひどい脅され方をしたの〉」
「〈お前を施設から連れ帰るって言われて。断ったら、ひどい目に遭わせてやるって……施設の人にも告げ口するなって。俺は貴族だから何でもできる、お前も命が惜しかったらって……そんなの、ろくな話なわけないよ。それなのに〉」
「〈ユアン……〉」
幸い、男爵自身がユアンに危害を加えることはなかったらしい――あの路地裏での暴力を除いて。
「〈アザリーさんは、どうやって僕を助けに来てくれたの?〉」
「〈私は、たまたまモランさんと知り合いだったのよ。あの人はすごいの、私たちなんかじゃとても想像できないような手段であなたを見つけ出してくれたのよ〉」
「〈うん……本当にすごいね。僕はあのとき、助けを求めることもできなかったのに〉」
さすがに詳細を話すわけにはいかなかったけれど、ユアンは素直に相槌を打ってくれた。
「〈私が昨日施設に行っていなかったらと思うと、すごく恐ろしいわ。それに、モランさんがいてくれなかったら……ユアン。あなたはちゃんと相談してくれていたのに、怖い思いをさせてごめんね〉」
手が今更ながらに震えそうだった。昨日の夜風。心臓が冷える感覚。ユアンが今ここにいる現実は、信じられないような奇跡の結果だということを身をもって知っている。それでもユアンはこちらを見た。
再び、目が合った。
まだまだあどけなさを残す顔。その目尻が、ゆっくりと下がっていく。
「〈そんなことない。アザリーさんは、僕を救ってくれたんだ。……ありがとう〉」
笑ってくれた。彼が私に微笑んでくれた。
私は思わず彼の手を取った。握った手から伝わる体温が彼の命を実感させた。
温かい気持ちが溢れてくる。本当に嬉しい。
お父様の作られた組織が、その秩序をよいものとするモランさんの力が、こんな小さな子供の笑顔を守った。それ以上に大切なことなんてない。ユアンとまた笑い合ったとき、私は心からそう思った。