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悪か正義か 03

 ユアンは、命を救われたからとお義父様の計画に賛同してくれた。

 お義父様は、私に明かしてくれた通りに警察への「情報提供」を行った。

 ユアンは警察官の前でも、その賢さをもって完璧に振る舞ってくれた。男爵に脅されて売られそうになったけれども、路地に居合わせた男性が助けてくれた。その人は恐ろしく強かったが、すぐに立ち去ってしまったので誰かはわからない。

 恐怖の余韻から人目を避けて彷徨っていたところ、モリアーティ邸の近くまで来た。自分のいた施設へボランティアに来ていた女性がいたので、やっと保護してもらえたのだ――と。

 台本通りの完璧な供述だった。モランさんはもちろん発見されなかったし、警察官たちは自然と彼に深い同情を寄せた。

 恐るべきことに、同じタイミングで男爵邸の使用人からも告発があった。男爵に非情な脅しで支配され、人身売買の補助をさせられていた男性だ。私はこの追い風のような偶然にも、「組織」の影の力を想像せざるを得なかった。

 これほどの証拠が揃ってしまえば男爵家の評判は地に堕ち、二度と戻ることはなかった。貴族による人身売買の実態が明かされ、これは当然とんでもないスキャンダルとなって世間を大いに騒がせることとなった。

 新聞に記載される男爵の命運が日毎ひどいものになっていくのを見つつ、アイラ様のときもこんな感じだったのだろうか――と私は場違いなことを考えた。

 私の社交界デビューはまだ先の話だけれど、その時にまでアイラ様の話題は残るのだろうか? それとも、今回のことで上書きされたのだろうか……。


「〈私が社交界に残り続ける限りは、アイラの話が絶えることはないだろうね〉」

 夜の食卓には、控え目な灯りだけが小さく揺れていた。

 お義父様が静かにスープを口に運び、その表情は温かな蒸気によりわずかに霞んで見える。私も手元の皿に視線を落としがちだったけれど、その言葉につい顔を上げてしまった。

 向けられる優しさはまったく変わらず、何を気にした風でもない。私にはそれがとてもありがたかった。考える時間を与えられている。

 けれども気付いたこともある。お義父様は今まで私に対して、アイラ様を悪く言うようなことはなかった。私の目には、過去に亡くした妻を今でも深く愛しているように見えていた。

 しかしそれは私に妙な不安を抱かせないための演技であって、今やアイラ様にまだ想いがあるような素振りはぱったりとなくなっていたのだ。

 アイラ様のことを語る時のお義父様の手話は、以前よりも明らかに事務的な動きになっていた。

 あんなことがあったらそうだろうな、と思うと同時に、気遣われていたことに今更気付かされる。そして今ならアイラ様の話にも踏み込んでいいような気もしてくる。

「〈お義父様は、アイラ様のことを許していないのですね〉」

「〈もちろんだよ。それに貴族社会にはほとほと失望させられた。死者を辱めるつもりはないがね、社交界だの結婚だの、今の私には何ら魅力のないものだ〉」

 そんな発言は前にも聞いた気がした。やはりアイラ様とのことは、お義父様にとって重いだけの記憶になってしまったのだ。その冷たい言葉を見ては、私も彼のそんな記憶になりたくないと思う。顔に出た不安を、すぐに掬い上げられる。

「〈すまない。だから、ユアンのことも他人事とは思えない……と言いたかったのだよ〉」

「〈え? でも、ユアンは……〉」

 お義父様は穏やかに笑って、警察に一時保護されたユアンについて個人的に支援をするつもりだと教えてくれた。それは私にとって驚くべき話だった。

「〈私の知り合いに、教育熱心で誠実な男がいる。事業家だが今どきめずらしい真の慈善家でもあってね、妻はいないものの郊外に屋敷を構えて、ユアンのような子を引き取ることを願っている。彼に私から丁重に話を通してみようと思うよ――もちろん資金援助も厭わない。救うことのできた命だ、彼が自分の人生を生きていけるようサポートしていきたい〉」

「〈本当ですか……!〉」

 私はつい前のめりになった。慌てて身を引くと、小さく笑われる。

「〈そうだ。だから、そんな悲しい顔をしなくてもいいよ。アズ〉」

 ありがとうございます、と私は微笑んだ。喜ばしいことだ。彼の未来が守られるだろうことに私は心から安堵して――そして、本当にここまで社会に動きを与えることのできるお義父様をすごいと思う。

 この人たちは普通の貴族とは違う。あんな風に没落していく者とは違う。アイラ様のような私欲で誰かを傷付ける者と、お義父様たちでは生き方がまったく違うんだ。私は目の前で世界を見事に変えられたのを見て、感動すら覚えていた。

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