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悪か正義か 04

「〈しかし、せっかく頑張っていたボランティアには水を差してしまったな。個人的には職員が悪いとは思わないが、君はあそこで働くことが怖くなってしまったんじゃないのかい?〉」

 お義父様の問いかけに私は頷いた。

 ユアンのことを考えているうち、自分でも思いついたことがあった。屋敷に帰ってきて、ようやく整理できたこと。

 そうだ。怖かった。ユアンが目の前で攫われたことが怖かった。信じてもらえないことが――伝わらないことが。

 聴覚訓練所の職員はいい人たちだ。それはよくわかっている。けれども多少の関係性があっても、あのとき……職員たちには私の手話が届ききらなかった。あの悪しき男爵にも、私の伝えたいことはまったく伝わらなかった。むしろ彼の普段からの堂々とした振る舞いや対話の積み重ねがきっとあの人望を作り出していたのだと、憎く思った。

 きっと私の力不足だけじゃない。彼は、私に比べて圧倒的に有利な武器を持っていたのだ。

 声。

 それは声だ――だってあのとき咄嗟に私が叫べていたら、声高に説明できたら、彼らを止められたのかもしれない。

 声が出そうになった場面は何度もあった。それでも私には手を動かすことしかできなかったのだから。

「〈ボランティア活動は、無駄にはなりませんでした〉」

 私はゆっくりと手を動かした。前向きな発言と受け止め微笑んでくれたお義父様を見つめ、私は勢いに任せて続けた。

「〈お義父様。私、声を手に入れたいのです――手術を受けたいです。私の世界を、広げるために〉」

 穏やかだった目がにわかに動揺した。食事を続けていた手、その指先がかすかに止まる。今までにも何度も目は合っていた。それなのに、久し振りに正面からお義父様の顔を見たような気がした。

「〈アズ、それは……〉」

 今度はお義父様が前のめりになりかけ、そして姿勢を正した。椅子にゆったりと背を預ける姿から、真剣に話を聞いてくれるつもりだということが伝わってきた。

「〈障碍があることを後悔したことはありませんでした。それで今までは不便がなかったからです。でも今は、私は……自分の思いを声で届けたいのです。どうしても声を上げなければいけない時があると、外に出て知ったから〉」

 屋敷では、誰もが私の希望を聞いてくれる。目線だけで察してくれる聡い人ばかりだし、困るようなことがそもそもなかった。

 でもこれから生きていくのに、ずっとそのままでいい訳がない。

 いつか手術をして聴力が回復するんだとなんとなく思っていた。それが今、もっと強い願望となって私の中にある。

 自分の世界を広げたいのだ。恐怖に駆られて出せなかった声も、手術をすればきっと出るようになる。

 そうしたら二人の父と、ルーシーと、モランさん……いろんな人と対話ができるようになるだろう。今の手話からだけでなく、私はこの世界のことをもっと多く読み取れるようになる。もっと豊かな意思の疎通ができる。きっと……。

「〈……アズ。普通はね、もっと単純な理由で手術を望むものだ。君のように賢いと、かえって心配になるよ〉」

 見つめた瞳は、なぜか少し切なさをはらんでいた。私の発言を変に思ったふうでもなかったけれど、なんだか悲しそうな目でそんなことを言われたので私は慌てた。手を振って、重い空気を振り払おうとする。

「〈えっと……単純です。私、……ほら、あの、お義父様の声を聞いてみたいですし〉」

 お義父様は笑った。その後、大笑いされた。それは私だってそうだよ、とやがて返される。私の大好きな笑顔だ。

「〈君の父――アダムに話をしよう、アズ。少し早い相談かもしれないが、きっとそう言えば、あいつもまさか反対しないだろうね?〉」

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