世間が少しばかり落ち着いてから、私はお父様へ手紙を出した。
きっとお父様はお忙しかったのだろうけれど、大切な話があると送った返事にはなるべく早く調整してロンドンの屋敷へ向かうとあった。そして、本当に帰宅の日程が来たのも早かった――私は懲りもせずまた庭で待っていた。
「〈アザリー〉」
「〈モランさん!〉」
そしてお帰りになったお父様は、何故かモランさんと一緒だった。彼とはユアンとの橋渡しをしてくれたのを最後に会えずじまいだったので、私はついモランさんに駆け寄った。
「〈お会いしたかったんですよ! あの、ユアンのことなんですが〉」
彼は最後に会った時もモランさんへの感謝を溢していた。私はそのこととお義父様がユアンを全面支援すると言ってくれたことを伝えたかったのだけれど――ついそこまで語り、そして止まる。
モランさんがとてつもなく気まずい顔をしたからだ。その視線に倣うと、お父様の表情がまるで能面のように見えた。
「〈お、お父様。ごめんなさい。あの、お帰りなさい。えっと……〉」
「〈元気そうだな〉」
お父様が表情に乏しいのはいつものことだ。それにしても一瞬異常なほどの恐怖を感じた……。
それ以上はお父様も何らおかしなことは言わなかったけれど、モランさんが何やらお父様に慌てた様子で話し掛けているのがなんとなく意外で可笑しかった。モランさんとお父様が並んでいるところを見るのは初めてのことだった。
ルーシーはすっかりモランさんを私の恩人扱いしていた。また一緒に紅茶を淹れたけれど、今度は一人分多い。
「〈モランとは親しくなったようだが〉」
「〈えっと……はい。たくさん助けていただきました〉」
こうしてテーブルを囲んでみるとモランさんは明らかにお父様の反応を気にしている感じで、これは新たな発見だった。
「組織」を作った人間と、その部下だと言われればしっくりくるような――でもどことなく気安い雰囲気もあって、個人的にはとてもよいと思った。ついじっと見ていると、モランさんと目が合ってしまい首を振る。
「〈話の前に、アザリー。お前がモランと何をしたのか詳しく聞かせてくれ〉」
「〈はい。お父様〉」
私はボランティアを始めてから、男爵が没落するまでのことをゆっくりと話した――話すことをまとめようとするたびに、なんだかずいぶん長い時間が経ってしまったような気がした。長い話になったけれど、ときおりモランさんが的確なフォローを挟んでくれた。
二人の父は急かすことなく私の冒険譚を聞いてくれた。ユアンに受けた相談を打ち明けられなかったこと、夜の裏路地へ行ったときのこと……話すのに少し気まずいこともあって、まるごと何かを試されているような気さえした。
ようやく男爵が捕まったことと、今もロンドンの街は少しざわめいているということまで語り終え、私はつい息を吐いた。
「〈よくやったな〉」
お父様は一言淡々とそう指で語った。それからお義父様といくらか言葉を交わす。
「〈お前のしたことは、そのユアンという少年を確かに救った。貴族としての発言も、頭脳も武力も――使い方によっては自分の身を焼く。お前は正しいことをした〉」
「〈お父様……〉」
「〈しかし種明かしをするなら、私は外の世界に出てトラブルに遭うかもしれなかったお前のフォローをしてもらうべく、モランをこちらに送ったのだ。もう分かっているな?〉」
淡々とした手話に私は小さく頷いた。いくらなんでも、今から思えばモランさんの登場は完璧すぎた。ロンドンで彼がしているという仕事もなんだかわからなかったし……。
「〈私は守られていたのですね〉」
お父様は珍しくも回答に躊躇したらしかった。指先がいくらか彷徨い、ややゆっくりと動き始める。
「〈逃げ道を与えていたという方が正しい。悪意を見咎めた時、悪に気付いた時、そして対峙しなければならない時――兄さんはいつでも助けになってくれたことだろう。しかしお前は、モランと共に戦うことを選んだ〉」
さみしいなあ、とお義父様が戯れに手を動かした。私はつい〈違います〉と答えたけれど、笑って流されてしまった。
「〈あの……ごめんなさい〉」
「〈いや。さすがというか、私たちの娘だ。幼いながらも秩序の中に生きる……〉」
「〈え?〉」
「〈お前自身が悪と対峙し、選択するというのは少々予想外だったのだよ〉」
そう告げられ、私は自分の行動を振り返ってみた。転換点はどこだったのだろう。尊敬できると思っていたあの男爵の目に闇を見た時か。幼いユアンが怯えているのを見た時か、それとも、あの馬車の扉が閉まったことに絶望した時だろうか。
時間を戻してみても、私は何度でも同じことをする気がした。犯罪はもちろん許されないことだと思うのに――あの時の私には確かに処罰感情が芽生えていた。男爵たちがあの路地で殴り倒されることも当然だったと思う。
むしろ力がなければ、正当に使われた力がなければ、秩序は守られなかった……。そう思うと胸の奥で不安が疼いた。
私はついに手術のことを打ち明けた。私はお父様から障碍のことを心配されるたび、大丈夫だからいつか手術ができればいいとだけ答えていた。
それは申し訳なさそうにするお父様を心配させないためでもあったし、実際に生活にも不便はなかった。どちらにせよ、当時は本当の気持ちだった。
それを、もっと急ぎたい。いざというときに上げるための声を手に入れたいのだと。
「〈前にも言ったはずだ。私たちは、お前のやりたいことを叶える〉」
受け入れられない願望と思ってはいなかった。それでもお父様の律動的な手話が私を確かに安心させた。
「〈とはいえ、準備が必要だ。医者も改めて吟味しなければならないし――手術が成功したからといって、すぐさま自在に話すと言う訳にもいくまいよ〉」
「〈はい。お父様〉」
「〈お前が翼を得るための準備をしよう、アザリー。しかし手に入ったとしても、それはただの翼でしかない。お前はすでに自分なりの秩序を作り上げている。決して自分を見失ってはいけない。それを忘れないでくれ〉」
お父様の言葉はいつも端的だから、そんな詩的な言い回しがとても印象的だった。
私は何を期待されているのだろう。どうやって、これから生きていくべきなのだろう。
戸惑った私を見つめるお父様は、恐ろしい力を持った組織の作り手にはとても見えなかった。昔からずっと憧れ続けているやさしい色が、ただそこにあった。