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窓の外へ 01

 手術を迎えたのは、私が十四歳になる頃だった。

 お義父様がお金に糸目はつけないと言って医師を募ったので(!)、とんでもない数の「名医」から自薦があったのだ。

 それをお父様は呆れながらも影でひとつひとつ検討され、決断を下すまでには半年もの時間がかかったらしい。面と向かっては何も言わなくたって、それは紛れもなく私のためで――つい泣きそうになったことを覚えている。

 私の聴覚障碍の原因は内耳の形成異常が主なものだった。

 遺伝による要因はともかくそちらを外科的に処置することで、万全にとはいかずとも聴力は回復する。その後のことは、個人次第だそうだ。

 結局お父様は以前から付き合いのあったお医者様を頼り、私はその方が経営される療養施設へ入院した。それは今までの十年以上に比べたらとても短いたった数日のことだったのに、「手紙を書くよ」なんてお義父様が言うので可笑しくて仕方なかった。

 それが手術前最後の大切な記憶になった。


「――……」

 意識が戻ったとき、頭に鋭い痛みが走った。それはまるで新しい世界が開かれる合図のようだった。

 すぐに目を開けることができなかった――けれど何かが震えるような感覚。その正体がわからない。確かめるために目を見開くには少し勇気が必要だった。そしてそうした先に、私の顔を覗き込む男性の表情が見えた。

 まだ少しぼうっとしていて、彼がお世話になったお医者様だということに気付くにも時間がかかった。そんな調子だったから、彼が笑っているのか、不安そうな顔をしているのかもはっきりしない。

「   ?」

 彼の語尾に、これまで感じたことのない妙なノイズが走った。瞬間的な不快感に顔をしかめそうになって、そんな感情が誤りだと気付く。

 違う。これが。

 これが……。

「    」

 まだ「それ」が実感となっていない。喉の奥が動かない感覚はまだ変わっていなくて反応できない。それなのに、彼の唇がなんと言っているのかは明らかだった。

 アザリー。

 私の名前。

 それは生まれて初めて自覚した、自分の名前の響き。自分が生きるのに不便はないと思っていた。それでもお父様からもらったその名前がどんな音とともにあるのか、本当はずっと知りたがっていたのだと――頬を流れた涙に気付かされた。


 当然すぐに退院することはできず、私は念のためと一週間ほどそのまま療養施設に滞在した。本当にお義父様からお手紙が来て驚き、中身を読んでさらに驚いた。退院日には私のことを迎えに来ると書いてあったのだ。

 あまりに動揺し、父の声も聴くことができるのですか、と尋ねるとお医者様に笑われた。馬鹿な質問をしてしまったと思い恥ずかしくなる。でもそんな笑い声も、とてもあたたかく感じられた。

 私の耳が捉えだした世界の音は、静かな施設の中で穏やかに私の人生に溶け込んだ。紙の擦れる音、グラスの触れ合う音。食器を落としてしまったときには甲高く響いた音、それらひとつひとつが私を驚かせた。

 みんなこんな中で生活していたのか、とショックを受けた。それと同時に、初めて鳥の声や風の音を聞いて心が震えた。知ってしまえば、こうして手に入れた聴力が自分をとても豊かにしてくれるのだということに気付く。

 ショックは受けても、音のない世界に戻れる気がしない。

「……えっと……」

 まだ単語と音声を結び付けることができないので主なコミュニケーション手段は筆談だ。

 それでも、言葉をそっと交わしてみる中で慣れていくものは確実にあった。「音」に囲まれた生活が始まると、喉の奥にあんなに感じていた異質な感覚も多少緩んだように思えたのだ。施設の人に短音の発声を勧められ、なんとか試してみると――その瞬間の恐怖は、想像していたほどではなかった。

 今までだって唇の動きと言葉を重ねて生きていた。そこに音が乗るだけだ。

 もちろん簡単にはいかないけれど、これからいろいろな「声」に触れて学んでいければきっと大丈夫だろう。そんな風に思えるくらいには。

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