戸惑っているうちに時間はどんどん過ぎた。
退院する日。お父様が到着されましたよ、と言われて心が跳ねた。「お父様」という発声はこの数日で何度も教えてもらった。発音がおかしくないことも見てもらった。大丈夫。
それでも馬車が止まっているのを見たら怖くなってきた。私の外見は何も変わっていない。それなのに急激に自分の世界が変わってしまったことに戸惑っている。
お義父様がどんな反応をするかと思ったら、たとえ拒絶されるわけがないと分かっていても、駆け寄ることさえ躊躇われた。
馬車から降りてきたその姿はいつも通り。たった数日と思っていたのに、確かにずいぶん久し振りに会うような気がした。お義父様は手を軽く持ち上げ、私を労おうとした――その時、ああ今だ、と思った。
「おとうさま」
それは胸の奥が震えるような響きだった。あまりうまく発音できなかったかもしれない。けれどもそれが「私」の声であることは疑いようもなかった。一瞬時が止まったように思えた耳に風の音がまた聞こえて、心臓が脈打つ。
そして私は、お義父様の表情がはっきりと動揺するのを見た。私はそれなりに昔の思い出も記憶しているほうだけれど、その中のどこにもない色。いつでも穏やかにそこにあった微笑みが、心から驚くことではじめて崩れていた。
「アザリー……」
気付けば駆け出していた。なんて優しい声だ。
アザリー。なんて甘く優しい響きだろう。私の名前――私だけのものだ。今更ながらに感じた感動が笑みとなって零れた。
お義父様は私をしばらく信じられないような目で見た後で、なにかを言って頷いた。残念ながらそれは何かわからなかったけれど、目で後を追っていたらお医者様と話をしに行ったことがわかった。
そのときの我に返ったような感じと、お父様が手話を忘れたことがかえって嬉しい。
きっとスムーズに話せるようになる。一気に自分の世界が広がった気がした。選べる未来もきっと増える――お父様にも、ルーシーにも。みんなに早く会いたい。
それは知らずそこにあった靄が晴れたような感覚。自分の中で生まれた積極的な思いを、すべてこの手に抱きしめたかった。
組織のこと。犯罪のこと。
私は手術を迎えるまでの間、そういうあらゆる――危険な話題から遠ざけられた。
お父様もお義父様も、私が「翼」を手にするまでは、余計な負担や理不尽に触れさせたくないと考えていたのだ。それが二人なりの優しさなのだろう。
確かに、今の私にできることなんてたかが知れている。あの事件に関わり、モランさんが向かう夜の路地へついていった行動も相当心配を掛けていたらしいから、それは頭で理解していた。
だからこそ二人の意見に従おうと思った。私自身、そうするべきだと納得していたし、今はそのほうがきっと良いのだと自分に言い聞かせていた。
それでも、ほんの少しだけ、物足りなさを感じるのは仕方ないことだと思う。
ボランティア活動も、事件による騒ぎの中で有耶無耶になってしまった。没落していくアシュウッド男爵家のことを新聞で追っていても、それだけでは限界がある。
何度か、モランさんが訪ねてきてくれた。とはいえそれも珍しいくらいのことで、私の様子を見ては手術まで無茶するなと言われるばかりだった。そのたびに「危険なこと」から遠ざけようとする空気をものすごく感じたので、私もあえて話を振るようなことはしなかった。
少しだけ触れた闇。社会の恐ろしさ。
追うにはあまりに無力すぎると自覚しながら、私はふたたび安全で幸せな生活に戻ったのだ。
でも、あのときの恐怖を、怒りを、忘れないようにしていた。絶望感と悔しさを何度も思い返し、あの感情を言葉にして向き合うまでの間だけだからと密やかに決意を固めた。自分なりに自分を律していたつもりだ。
それなのに。