「……!」
びっくりしすぎて声が出なかった。いや――え?
「だ、誰!?」
「お。喋った。いい感じだね、お嬢さん」
「えっ――誰――あの……」
それはあまりに突然のことだった。明らかに質が良いとわかるスーツで身を固めた、妙に小柄な人。その身体は心配になるくらい細い。
けれど顔は信じられないくらい整っていて若々しい。私と数歳しか年が変わらないような錯覚さえしそうになった。でも、さすがにそんなはずはないだろう。肌は綺麗すぎるし、目元があまりにも涼し気で年齢が読み取れない。
「……えっと……」
喋ろうと思っても上手い言葉が何ひとつ出てこない。さぞおかしな顔をしていただろう私を見ながらも、彼は奇妙な笑顔のまま微動だにしない。
その不気味な挙動も怖すぎて私がいよいよ完全に沈黙すると、数秒後――今度は堤防が決壊したように笑い声を上げ始めた。
「――あはははは! 新鮮なリアクションだなあ! っはは――なんて驚かせ甲斐のある! 素晴らしい!」
「……」
仰け反って、その、ものすごく笑っている……。明らかにおかしな人だ。それよりそんな大声を出したら誰か飛び出してくるんじゃないかと私は場違いな心配をしたけれど、何故かそんなことはなかった。
魔法だろうか?
その人の周りはまるで靄がかかってでもいるようにぼんやりとして見え、それがどうしてなのかもわからない。こんなに異様な人なのに、まるで存在感がないのだ。
その人はひとしきり笑った後、すっと姿勢を正した。その瞬間明らかに背が伸びたように思えて、私は驚いて彼を見上げた。彼は満足そうににっこりと微笑む――とても人好きのする、貴族のように上品な笑顔だった。
(…………どういうこと?)
もちろんすぐに逃げたり人を呼ぶべきなのは分かっている。分かっているけれど、彼から目が離せない。
一瞬にして英国紳士にしか見えなくなった彼は、詫びるように一礼してみせた。お手本のように美しい礼。
「初めまして、お嬢さん。僕はフレッド・ポーロック。君の『お父さん』の、部下のひとりだ」
「部下?」
彼の発声はとても明瞭で分かりやすかった。完全に聞き取ることができたのでつい相槌を打ってしまう。
部下、と言われると、組織の方をもちろん連想する。こんな明るい人が、と思う反面、明らかに只者ではない感じもして反応に困った。まったくイメージができないでいるうちに、彼はにこやかに続ける。
「モランのこと、知っているだろう? 彼は僕の親友なんだ」
「えっ、モランさんの」
「そうそう。彼とは毎日カフェでお茶する仲さ。それだけじゃない、月に一度は必ずオペラの観劇へ行く」
「……」
モランさんの名前が出てきたことで私は無条件で彼を信じかけたが、一気に疑わしくなる。だって、そんなわけない……。
私の表情を見て、彼はまた口角を上げた。モランから聞いていないのかと言われて首を横に振ると、とても可笑しそうにする。
「あいつらしいなぁ。教授に怒られない範囲で、一生懸命、お嬢さんに僕みたいなのを近づけまいとしたんだろうなぁ。道理で全然呼ばれないわけだよ、あんなに華麗にアシストしてやったってのにね」
「アシストって、なんですか?」
「うん? アシスト? アシストってのはね、助けてやったってことだよ。大丈夫かー、がんばれよーって、補助してやったってこと」
揶揄われた。
なんと言えばいいのかわからず彼を見つめると、彼も見つめ返してきて「やっぱ目は――だね」と呟いた。聞き取れずにもう一度とお願いすると猫のように笑う。彼は笑ってばかりなのに、さっきから浮かべる笑顔の印象がすべて違うのが不思議だった。
「謝ることはないさ、手術したばっかりだろう? 大したことは言ってないしね……って、そうそう。本題だよ。使用人たちに急に喋るのも不自然だし、随分テンション高いメイドがいるね? 教授も来てないから、疲れが出てきた頃だと思ってさ」
彼は見てきたかのようにそんなことを言った。私が彷徨わせた視線を絡め取るように首を傾げる。
「僕が話し相手になってあげるよ。僕と遊んでりゃあ、教授がまだ会いに来ないなんて思う暇もない」
羨ましいだろう、僕は自由な人間なのさ、と彼は手をヒラヒラ振った。
この人のことが結局何もわからないのにこんな提案をされるのが怖くて、私は考え、やっと「ポーロックさん」と彼を呼んだ。――その瞬間、とんでもなく鋭い視線が私を刺した。
「さん付けなんて要らないよ。僕はそんな呼び方じゃ返事をしないからね。今してあげたのは、一回きりのサービスだから」
おそらく人生初の返しをされて、私はまた彼と訳の分からない問答をする羽目になった。