彼は、結局「ポーロック」と呼ばれることを望んだ。
私はもちろんすさまじい抵抗を感じたけれども、彼は絶対に譲らなかった。そこまで頑なになられると、なにか自分の名前に嫌な思い出でもあるのか、呼び捨てでないと駄目な理由があるのか――などと妙に深読みしてしまって、でも質問することもできなくて。そうなったらもう彼の意思を尊重するしかなかった。
そして彼が「はーい」と返事をしてくれたのを受けて、やっぱりなにも彼の情報がないことに気付く。
「あの、それで。ほんとうに、父の部下……なんですか」
「そうさ。僕はこう見えてものすごーく仕事ができるからね」
「……何故、えっと……」
「うん? ゆっくりでいいよ。僕には余裕があるんだ――いつでも、どんな時でもね」
「……はい」
彼の発音は本当に聞き取りやすくて、逆に戸惑うほどだった。
ルーシーのはしゃいだ早口も、使用人たちの丁寧な話し方も楽しい。手術を受けて初めて手にした幸せだと思う。
けれど、自分はどこか気を張りすぎていたのかもしれない――彼ののんびりした口調は、不思議とそんな気を起こさせた。おかしな言動で私を振り回すのに、彼は決して私の発言を訝しんだり、急かすようなことはしない。
結局どうして私の前に現れたのかという質問に、彼はただの気紛れだと答えた。お父様の組織の部下たちはあらゆるところに散らばっていて、各地で根を張っている。ポーロックも、仕事の都合でロンドンに来たからと答えた。
「モランさんも、そういう感じでした。初めて会ったとき」
「ああ、君を助ける仕事だろ。僕もそれで興味を持ったんだよね、教授があのモランを娘の面倒見させるために呼ぶんだって」
「『あの』?」
「あいつはすごいでしょ。武闘派なのにキレ者っていうのはズルだよ。僕もあいつには怖くて近付けないね」
「オペラに行くのでは」
「そんなわけないだろ。人を信じすぎだよ、お嬢さん」
終始この調子で、ポーロックの話すことがどこまで本当なのかさっぱりわからない。私は半ば呆れつつも、ポーロックと普通に会話ができている自分に驚いた。支離滅裂な会話をしているのに、何故だかだんだんスムーズに言葉が出るようになってきている。
なんだか大丈夫な気がしてそう打ち明けてみると、彼は当たり前だとでも言いたげに頷いた。
「それはね、僕がこんな人間だからだよ。ものすごく適当だからこそ、君も信用できなくて雑な相槌が打てるだろ。本来人なんて馬鹿みたいに喋り倒して慣れていくものなんだ――僕みたいなのは相手にちょうどいいよ」
「喋り、倒して……?」
「そうそう。君もせっかく喋れるようになったなら、言葉を武器にしなよ。そんなのって格好いいだろう?」
「言葉を、武器に」
「そう。武器。君を守る道具だ。それに話し方、会話のテンポ。これから学んでいくんだ、そのよーく出来た頭でね」
彼は軽く首を振り、改めて私と目を合わせた。前髪に隠れたその奥。そこに少しだけ真剣さが見えたように思えて、熱とともにその言葉が脳へ焼き付いた。
武器。そうだ――アシュウッド男爵が言葉を、堂々とした語り口をきっと武器にしていたんだと感じたこともあるじゃないか。暴力と関連づけられる訳ではなくても、確かに言葉は力を持つらしい。
まだ、音を捉え始めたばかりの耳。それでも彼の言葉から、私の未来に多くのものが待っていることを知った。所謂話す技術というものがあるとわかったのだ。
だから、私は気付けば頷いている。
「学びたいとは、思っています。強く」
「そうだろうね。じゃあ、毎朝この時間、ここで会おうか」
「……ん?」
「毎朝。この時間。ここで。会おう」
わざとらしく繰り返される。意味はわかるけれど、訳がわからない。
「え?」
「君が学びたいと言ったんだろ。朝なら時間が空いてるから、付き合ってあげるよ――だから、寝坊しないことだね」
彼はあっという間に話をまとめてしまった。まったく信用できないとは思うのに、彼の存在が一気に近いものになった気がした。心の隙間にするりと入り込んできたような、でも、追い払いかたがわからないような……。
作り物のように綺麗で意味深な微笑みが脳裏を離れない。幸い誰にも見つからないで無事に戻ってくることができたけれど、精神のほうはまったく無事ではなさそうだった。
それから彼のことをもちろんお義父様に言おうとしたのだけれど、何故か言えなかった。言葉にしようがなかったのだ。
お父様ともかなり近い距離の人のようだったから大丈夫だろう、とまず思い、いやそれも嘘かもしれない……と思考が続いてしまってから、全てが疑わしくて話せるようなことが何もないと気付いてしまった。
特に口止めをされた訳ではなかったものの結局タイミングもなく、私はついに諦めてしまった。
お義父様にこんなに自覚的な隠し事をするのはおそらく初めてのことだった。明日ポーロックに確認してからにしよう、と一人で言い訳をした。