「怒ってる? 怒ってるね?」
次の日の朝。庭を訪れた私に、ポーロックは振り向きもせずに言った――呑気に木を見上げていて、私からは彼の表情が見えない。
「……もう怒ってないわ」
「ってことは昨日は怒ってたんだ。なんで? 教授に僕のことがバレたから?」
「そうだけど、私の話し方が悪かったんだもの……」
「へえぇ。結構――なんだね、素晴らしい」
「なあに?」
彼の発した単語が聞き取れず言うと、彼はごめんごめん、と振り向いた。
「えっ……ええっ!」
「ちょっと、僕が伯爵に殺されるだろ。静かに」
私はひどく叫びかけ、慌てて黙り、そして今度は本当に沈黙した。
なぜならその顔は全面にわたるひどい痣によって、とても彼本人とは認められなかったからだ。私は慌てて彼に駆け寄った。
「どうしたの? こんなひどい傷! ううん、これは……火傷……?」
私は彼の顔へつい触れそうになって、途中で手を止めた。そのくらい痛々しく、見るのもつらいような痕だった。彼の昨日までの顔が思い出せないくらい、何の面影もない。
彼は私の手をそっと掴み、静かに遠ざけた。私は腕を下ろすことしかできない。
「ひどい傷、か。そりゃそうだよね」
「どうして? わ……私のせいなの?」
「そりゃ自惚れすぎだよ。――お嬢さん、僕は今日ね、君に謝りに来たんだ」
「どういうこと?」
ポーロックの目には、何とも言えない悲哀が漂っていた。とても口を挟めない真摯な響きがそこにあって、私は彼の目を見た。彼は切なそうに微笑み、二人でまたベンチに座る。
「昨日、教授が来てただろ。正直教授相手に誤魔化し切れる訳がないと思ってたけど、さぞ気まずい思いをしただろうね? それは悪かったよ。ごめん」
「そんなことより……」
「でさ、聞いたんだろ? 僕のこと。僕の見た目がいつも違うとか、信用するなとかさ」
「……でも、部下だって聞いたわ。関わることも多くて、とても優秀だって」
自分なりの精一杯の答えだったけれど、ポーロックは優しいんだねと笑った。彼の笑い方があまりにも悲しそうで、胸が締め付けられる思いがした。
「そりゃありがたいけど、実は今までのは全部メイク技術で何とかした顔でね、こっちが本当なのさ。昔、ひどい育ち方をしたから。それでこんな顔になった」
「そんな……」
「元はといえばセブン・ダイヤルズってとこの生まれでね。お嬢さんは一生行かないようなところだよ。親の顔も覚えてやしない。僕の感覚はずっと昔に壊れちゃってね。自分じゃなくなるためになら――どんな人間にだって、なれるようになってしまった」
「……ポーロック」
「生きるために必死で勉強したよ。勉強といったって、数学なんかじゃない――変装術だ。あとは気配を消すスキル、尾行の方法。特殊な発声。それに、相手に合わせて語る〈話術〉。こんなことが役に立つのは何だと思う? もちろん自分自身の身分証明なんて何一つできない状態でのことだ」
私にはもちろん答えられない。もちろんそんなの犯罪しかないよね、と彼は必要以上に軽く言った。
「行き倒れかけのところを教授に拾われた。僕はこんな顔だけど隠密スキルには長けてるし、演技も得意だ。情報収集なんてこれ以上ないくらいの適性持ちさ。だから教授の側にいる。命令にも従う。もちろん感謝してるさ。でも」
本当は、別に犯罪をしたい訳じゃないんだ。
少し間を置いてから続いたポーロックの呟きはとても空虚だった。彼の目は今までの彼からは想像もできない虚な空洞のようだった。
演技。そんな言葉に、私はふと思った。これも演技なんじゃないか。また私を揶揄おうとしているんじゃないか?
私は尋ねようとした。ねえ、全部嘘なんでしょう。私を騙して面白がってるんでしょう?
でもできなかった。
彼の顔を見たら、とてもそんなことは言えない。冗談だとしてもそう言ったら最後、そうだよ全部嘘だよ、よく分かったねなんて言って彼はそのまま永遠に消えてしまいそうだった――この、とても悲しい顔をしながら。
黙ってしまった私に、ポーロックは「大丈夫だよ」と笑った。
「別にそこまでひどいことをさせられてるわけじゃない。得意なことで役に立ってる――恵まれたと思ってるさ。ただ君に嘘を吐いてたのは本当だから謝るよ。僕は君よりずっと、君が想像できないくらい年上だし――顔だっていくらでも変えられる。でも、君には話しとこうと思って」
「……なぜ私に? お父様だって、あなたの本当の顔は知らないと言ってたわ」
「そりゃ、手切れ金みたいなものだよ。こんな顔、それに作り物の顔なんて見てられないだろう? 僕が君に近づいたのは興味本位だった。君もかなり話せるようになったみたいだし、僕はもう君の前には現れないよ。その、最後の誠意ってやつだね」
「そんな!」
「え?」
実に投げやりな態度でそう言った彼に、つい大声が出た。驚いたような顔をする彼に私は詰め寄った。
「駄目よ、そんなの! ――今は、お父様の組織で生きていられるのよね。せっかく知り合えたのに……そんなこと言わないで、ポーロック。歳が離れてたって、友達にはなれるはずでしょう」
「んー。いやでも、やっぱり教育上どうかと思うよ?」
彼はヘラヘラした口調で手を振った。私はその手を取り、彼を真っ直ぐ見つめる――彼は動揺したらしかった。瞳が揺らぎ、そして私から目を逸らそうとする。
ひどいと思った。私は、彼にまだ言葉の、声の持つ力について教わっていないのに。たとえ彼がどんな人間だとしたって、彼は確かに私を助けてくれたのに。
「関係ないわ。私は関わりたい人を自分で選ぶ。あなたも私を選んでほしい」
口をついた言葉に、彼がふたたび私を見た。
沈黙。なにか言葉選びを間違えたかと不安になるほどの静寂の後で、彼は首を傾げた。
まるで幼い少年のように。
「……僕、そんな格好良い台詞、教えたっけ?」
「飲み込みは早いほうだって、褒められたことがあるわ」
真面目に答えると、彼は大笑いした。笑ってくれて嬉しいと思った。
ありがとう。そう小さく言った彼の目に、涙が光ったように見えた。