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窓の外へ 11

 発語とともに、聴力も予想されていたより大幅に改善した。お医者様によれば聴力の戻り方にはかなりの個人差があるとのことだったけれど――幸い私は、日常生活になんの支障もないくらいには回復できたようだ。

 このことをお義父様はとても喜んでくれたけれど、若干複雑そうな表情も見えた。

 それが何故なのか尋ねると、「社交界に出る準備をしないといけないだろう」と、ごもっともな一言。人によっては幼い頃から叩きこまれる社交マナーの勉強については、私は今まで留保されていたのだった。

 きっと大変な手間を掛けさせることになってしまう。申し訳ないと思い、頭を下げる。

「あの……私、頑張ります。お義父様……」

「アズ!」

 途端に表情ががらりと変わる。お義父様は冗談かと思うくらい慌てたように私の手を取った。

「え?」

「すまない、違うんだ。そういう意味じゃない。言っただろう? 社交界は危ないところなんだ。純粋な君がどんな危険に遭遇するかと思うと心配でたまらない」

「危険ですか?」

「もちろん。君を伯爵令嬢として育てるというアダムの案には全面的に賛成だが、しかし、社交界に送り出さなければならないことがその案の唯一にして最大の懸念だと言える」

「そ、そこまで」

 私が手術を受けてからというもの、お義父様の心配性はなんだか加速したようだった。ポーロックとの接触を機に私が自由な性格になったような気がすると言われたとき、否定しきれない自分がいた。

「自分の世界が広がったのは、間違いないと思いますが」

「それは素晴らしいことだよ。だが親としては心配なものなんだ、アダムが口に出さない分も君に伝えていこうと思う」

「あ、ありがとうございます……?」

 ともかくも、私は数年後を見据えて社交界の勉強をすることになった。

 私は女子であったことと聴覚障碍の件もあって、幼少期にはどこにも披露されなかったらしい。

 伯爵令嬢ともなれば家によっては同階級の間で子供の顔を明かすことがあったようだけれど、そうはならなかった――アイラ様の件が大きな原因だったであろうことは、もはや想像に難くない。

「とはいえ、私が社交界でいつも自慢しているから、密かにかかっている期待は相当なものだと思う。だがしかし、そこらの男などでは私は絶対に認めないからね。アズ」

「何の話ですか?」


 お義父様から聞いた話をポーロックに相談すると、彼はどうでもよさそうに頷いた。

「僕なら教えられるけど。社交界の内情。上手い立ち居振る舞い。貴族らしいジョークの数々」

「……質問するだけ無駄かもしれないけど、どうして?」

「そりゃ、潜入することなんかいくらでもあるからね」

 彼はつまらなそうにしながらも、伯爵の心配はもっともだよと頷いた。

「あのなんとか男爵のことでもわかっただろ? いい人の振りしてる奴ほどとんでもなかったりするんだ――そのあたりの見極め方法は、お行儀のいいマナー講師より僕から教わっとくべきだと思うけどね」

「本当、あなた、頼りになるわね……。お願いします、ポーロック」

 彼との不思議な関係はその後何年も続いた。

 途中、彼は飽きてしまったのか連絡を絶ったこともあった。

 心配し、とても焦り、お父様に「よくあることだ」と言われて諦め――そして一年ほどして彼はひょっこり帰ってきた。その時には怒るよりもまた会えた喜びが勝っていた。ずっとそんな調子。

 私の周りでは、それほど危険な事件は起こらなかった。ロンドンはもちろん危ない街で犯罪率もかなり高いそうだけれど、私はあの日以来夜に出歩くことがなかったし――家の外に知り合いがいなかったからか、新聞で見る犯罪の話題もどこか遠いもののように思われた。

 お義父様は、私の社交界デビューの日を十七歳の誕生日と定めた。お義父様と昔から親交があるという侯爵夫人が、私のためのパーティを開いてくれる算段になったのだ。

 侯爵夫人はとても素敵な女性だった。緊張しながら挨拶に行った私を優しく迎えてくださり、伯爵の娘なら間違いないと太鼓判を押してくださった。

「子供は男ばかりだったから、女の子の社交界デビューのプロデュースをしてみたかったの」というとてもありがたいお言葉をいただき、パーティには侯爵夫人のコネクションを使って多くの貴族たちが招待されるとのことだった。

 大丈夫かしら、と怯える私に、ポーロックは他人事感満載で首を振った。

「何を言うんだよ。やっと同世代、同性の友達ができるじゃないか? せいぜい頑張るんだね。お嬢さん」

 私は彼の嫌味な言い方を咎め、彼が可笑しそうに笑う。

 十六歳――そして十七歳。大きな転機を前に、さらなる世界の広がりを感じていた。

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